4-2 毒
少し、待つ。
しん――と、辺りは森閑に包まれていた。
動きという動きはない。わずかに、バルドリックの背後から呻く声が聞こえてきたものの、それだけだった。
バルドリックは最大限警戒しながらも、じんじんと痛む身体を起こし馬車の外へと顔を出した。
そして、前後左右と見回し、呆然とする。
ロイが馬車から出たとき、一瞬動きが止まったのはこの光景を見たからだろうということが分かったためだ。
地面には丸太のようにクルトたちの仲間であろう武装した人間が数人地面に転がっている。
立っているのは、ただ一人。
大きな尾がバルドリックの前でゆらりと揺れた。その尾に見覚えがあった。いや、もはやないと主張するほうが無理な話だ。
黒いリボンと金色の宝石で束ねられた、紫色の花束のような髪が風でなびいた。
黄金の瞳は太陽の光の激しさを覚えたかのように、ギラギラと光っており不気味だ。その金色が、ゆっくりこちらを向く。
星聖女が、サフィーリアが助けた龍人。ルナスと呼んだ龍人。そこに立っていた一人はそれで間違いはなかった。
しかし、ルナスはバルドリックに興味はないのだろう。無機質な金色を腕の中の少女へと戻した。
「サフィー、サフィー、分かりますか」
わずかに、彼女のまぶたが震え、瞳が覗く。
しかし、やはり焦点は合わない。それどころか口元も震えていて、言葉を発そうとしているのは見て取れるが漏れるのはか細い息だけだった。体も震えており、明らかに様子がおかしい。
ただ、そんな状況でさえ、必死にルナスの言葉に反応していることだけは分かった。
ルナスは、その様子を見て眉根を少し寄せた。そして、彼女を抱えたまま立ち上がると視線を周辺に這わせる。
辺りには、一見、ルナスが散らしたであろう騎士たちと、少し脇道に突っ込んでしまった馬車。あとは、混乱する馬たちがいるだけだ。
しかし、ルナスはそんな中で馬車の脇に落ちていた白い布に目を付けた。
そ紛れもなく、の布は先ほどサフィーが口元に当てられたものだった。
ルナスはその布を手に取った。一見すると、ただの布だ。ある一点を除いては。
その布が揺れるたびに漂うのは、芳香。その香りに、ルナスは顔を歪めた。
「粗末な」
ぼそりとルナスは呟き、その布を空に放った。ふわりと布は、橙のにじむ空を泳ぐ。
しかし、彼はそれ以上布を視線で追うことはせず、再び腕の中で震える少女に視線を落とした。
サフィーの様子は依然としておかしい。肌の色はいつも通りにもかかわらず、玉のような汗を滲ませていた。
ルナスはしゃがみこみ、彼女の身体を安定させると汗で張り付いた黒檀の髪を指ではらった。
「サフィー、息を吐いて。大きく」
わずかに、少女の口元から小さく息が零れる。意識はあるのだ。
「そのまま、吸って――吐いて。そう、繰り返して」
ルナスの言葉にサフィーは応えようと、もう一度息を吸って、吐いた。だが依然、呼吸は震えている。
そして、もう一度サフィーが呼吸を繰り返そうとした時だった。ルナスは、動いた。
誰かが止める間もなく、ルナスはサフィーの口を自分の口で塞いでしまった。サフィーの身体は、わずかにぴくりと震えたものの、あの様子からは拒むことなどできるはずもなく、ほとんど一方的な物とも言えた。
その様子を、バルドリックはただ呆然と見つめていた。何が起きているのか。分からなかった。いや、正しくは目の前で起きている出来事を理解したくなかった。
この国の第一王子の妃となる相手の唇を、目の前の龍があまりにもあっさりと奪ってしまったのだ。
数刻前にあのやり取りがあったとはいえ、まだサフィーはグレイモントの婚約者なのである。
この光景を見るくらいなら、いっそのこと気絶していたほうが良かった。むしろ、気絶していたかったと、バルドリックは本気で思った。
拷問ともいえる時間は長いのか、短いのか、それすら分からなかった。
ただ、「ああ、やっと唇を離したのか」と思う程度には、長かったようだった。
こめかみを抑えて、バルドリックは言葉を零す。
「ずいぶんと、楽しんでいたようだな」
「――」
そう言ったバルドリックは、すぐに気づいた。地を這うような声に。龍人の肩が震えていることに。
笑っているのだ。彼は――ルナスは、笑っていた。この状況で。
形のいい口元は、歪んだ。そこから覗く白い歯は、ある程度は人のものとは一緒だが、鋭く伸びた犬歯はやはりどこから見ても鋭利だ。端正な顔の中に、この鋭利さを隠しているのだ。それを知ったバルドリックの背筋には、冷たい汗が流れる。
すると、ルナスの瞳がバルドリックを捉えた。
何か、嫌な予感がする。
ルナスは片腕でサフィーを抱えたまま、立ち上がりこちらに歩み寄ってきた。バルドリックは、それに思わず数歩後退する。
龍とは狡猾だ。龍とは邪悪だ。
それをバルドリックの本能が強く訴えているような気がした。
じっと、こちらを見据える黄金の瞳はやはり人間の持つ色ではない。
人間が持つにはあまりにもよくぎらつく、強すぎる色だった。そしてその中央に嵌められた縦に伸びた瞳孔は微塵も動くことはなく、ただ一点――バルドリックを見つめていた。。
心地が悪いと、わずかにバルドリックが目を逸らしたときだ。
ルナスはしゃがみこみ、ふっと、息をバルドリックの顔面に向けて吹いた。
何を、と一瞬思ったバルドリックだったが、ガンと頭が沸騰するような感覚を覚え、本能的にバルドリックは息を止めた。
続いて、目の前の光景が、二重にかかるような感覚。ぐらぐらと視界が歪む。
だが、バルドリックが覚えた狂ったような感覚というのはそこまでだった。
それもルナスは理解していたのだろう。ぽつり、と呟いた。
「もっと、吸えば良かったのに」
目の前の龍は、その黄金を上限に歪めた。
ルナスが吐き出したものの正体が分からない以上、無暗に口を開くわけにもいかず、バルドリックはルナスを睨みつける。
しかし、ルナスはそれに臆するどころか、空いた腕をバルドリックへと伸ばした。そして、躊躇なく頭を掴むと後退を許すまいとぐっとこちらに近づけた。
「ねえ、貴方――何をしていたんですか」
黄金の瞳は、冷たい。
太陽の色であるその色がここまで無機質になれることを、バルドリックはその時初めて知った。




