3-8 蠢くもの
しん――と、返ってきたのは静寂。先まで聞こえていたはずの車輪の音もない。そのあまりの無音さに、サフィーは体を縮こませた。普通であれば、御者の返答があるはずだ。明らかに、何かが起きている。
しかし、数刻の間を置いても、驚くほどに何も起きない。
無音。それがかえってひどく恐ろしいもののように感じられた。
バルドリックの眉間に深い皺が刻まれ、切れ長の瞳が鋭さを帯び、彼はゆっくりと扉に手をかけた。そうして、少し、本当に少しの隙間が開く。
刹那、がっと、金属の鎧で覆われた手が刺しこまれ、一気に扉が開く。
姿を現したのは、見知った鎧をまとった兵たちだった。
ハーベリスの騎士、それに間違いはない。だが、明らかに様子がおかしかった。戦場ではないのにもかかわらず兜をかぶっている。
それはまるで顔を知られたくない者、あるいはここがこれから戦場になることを知っている者のようにサフィーには見えた。
バルドリックもすぐ異変に気付き、後退した。が、馬車の中というのはずっと狭い。
さらに言えばサフィーがいることで、ただでさえ狭い馬車内で剣が振るえる範囲には限りがあった。いや、ありすぎたと言うほうが正しい。
バルドリックが手を打つよりも早く、騎士の一人が覆いかぶさるようにバルドリックを組み伏せた。
(どうしよう――どうしよう、動かなくちゃ)
その光景を見ていたサフィーは、必死に考えた。こうなると、サフィーはバルドリックの足手まといにしかならない。であれば、すぐにその場から飛び出して、人を呼びに行くことがサフィーにできる唯一のことだろう。
しかし、それはあまりに無謀すぎた。
おそらくは、バルドリックを抑えている男の間は抜けられる。だが、そもそも王家の紋のついた馬車を一人だけで襲うだろうか。
可能性は、低い。おそらくは、見えない範囲にもこの男の仲間がいるはずだ。
そうなれば、飛び出しても武芸も持たないサフィーは、あっという間に捕まってしまうだろう。そのうえ、奇襲をかけてきたということは、人がいない場所だ。
先ほど窓から見た光景、周辺は限りなく広がる草原で民家どころか人っ子一人いなかった。助けを呼びに行くとしても、距離がありすぎる。
とはいえ、それはサフィーが動けた時の話だ。現実問題、サフィーはあまりの出来事に馬車の隅で縮こまり、指一本動かせないでいた。
(動かないと、動いて)
そう身体に言い聞かせるも、彼女に応えるのは震えだけ。サフィーは身体をぎゅっと、更に小さくした。
すると、バルドリックを抑えていた騎士とは違う騎士が顔を出した。
やはり、襲ってきたのは一人ではなかったのだ。
「あれがハーベリスの星聖女か」
「ロイ、星聖女をさっさと連れ出せ。こいつを仕留めるのに、その女がいると邪魔だ」
「へいへい。それじゃあ失礼しますよ、っと」
乗り込んできたもう一人のロイと呼ばれた騎士はどことなく不真面目さを感じさせる男だった。ロイは軽々とバルドリックを抑え込んでいる騎士をまたぎ、こちらに乗り込んで来る。
「サフィーリア嬢、逃げろ!」
その瞬間、バルドリックが声を荒げた。
それと同時バキッと鈍い音が響き、サフィーはびくりと体を震わせた。
バルドリックを抑えつけていた騎士が、彼に拳を振り上げたのだ。「ぅぐ」と声を漏らし、わずかにバルドリックは身じろいだ。
そして、その騎士は抑揚のない声で告げる。
「逃げられるとお思いか? 無理だよ。周囲にも仲間がいる。安心しろ、殺しはしないさ、殺しは、な」
ああ、どうしよう、とサフィーは震えを抑えることも、もはやできなくなっていた。
すると、ロイはためらいもなく、サフィーの腕を掴む。ぎりと、金属の鎧がサフィーの白い手首に食い込んだ。
「いや! 離して!」
「細いのにずいぶんお転婆な星聖女様だな」
サフィーの抵抗で車内が揺れた。
それをあざ笑うかのように、騎士の手に力が入る。
痛みに顔を歪めたサフィーだったが、抵抗をひたすらに続ける。このまま大人しく連れ出されるわけにはいかない。
(馬車から私が連れ出されたら、バルドリック様が危ない)
バルドリックを抑えた騎士は「仕留める」といった発言から、おそらくは彼らもバルドリックと同様に、サフィーがこの場にいることから武器を引き抜けないのだと判断した。で、あればサフィーが連れ出されなければ、バルドリックの命は守れるはずだ。そのため、サフィーはせめてもの間この場に留まる必要があった。
バルドリックは、先の殴打が効いたのか呻いている。金属の鎧の拳で殴られれば当然だ。
「痛い! いや!」
「騒ぐな。女の金切り声は頭に響く。黙らせろ」
「注文が多いなぁ、クルトは。モテないぞ、それじゃあ」
クルトと呼ばれた騎士の言葉に、ロイは呆れたように呟くと腕に巻いていた布を解いた。
ふわりと、香り。貴婦人が纏うような、華やかな香り。明らかにそれはこの場面に似つかない異質さがあった。
「だとよ、星聖女様。恨むんだったら、騒いじまった自分か、あるいはあんたを守り切れなかった騎士を恨むんだな」
そう言うと、ロイはサフィーに白い布を押し当てにきた。
サフィーは退こうとするが、掴まれた腕で逃げ切れる範囲などたかが知れており、ましてやここは車内だ。小さな箱の中だ。故に、サフィーの後退は馬車の壁というものによって、簡単に遮られた。
口元に強く、その布があてられた。瞬間、入り込んできたのは、咽かえるほどの芳香。しかし、どこか安価で売られているような、人工的な香りとも言えた。
ただ、この香りが決して無意味ではないことを悟っていたサフィーは必死に身じろぐも、騎士の力の前ではほとんど意味を成さない。
と、ぐらり、視界が歪んだ。サフィーはそれを香りの強さからきた眩暈だと思ったが、違った。
視界の、輪郭が、ずれる。ぐらぐらと、二重、三重、かと思えばまた二重。いや、四重か、それ以上か。その視界に困惑しているうちに肺が、空気を吸い込むたびに熱を覚える。炎を一気に吸い込んだような感覚。燃ゆる。焼かれる。
(痛い、痛い、熱い――)
サフィーの口元から、息が漏れる。そして間もなく、サフィーは声が出ないことに気づいた。
それどころか、体に、力が入らない。指先一本、力を忘れたようだった。いや、その前に、どうやって体を動かすのか分からない。動かす――動かすとは、なんだ。
だらり、とサフィーの体が垂れた。
「しまった、強すぎたか」
ロイはそうぼやいたが、動かないサフィーを見てこれ幸いと思ったのか、そのままサフィーをずるずると引きずり始めた。
当然、動かない体では抵抗などできるはずがなく、サフィーはそのまま馬車の外へと連れ出される。
思考、それすらも靄のように形を留めていくことすらできなくなっていく。掴めない、分からない。
ああ、ああ――そんな中。
(これ、ルナスが見たらきっと呆れるわね)
なぜだか、頭を抱えてため息をつく龍人の姿が浮かんだ。
そして、少女の意識はそこで途切れた。




