2-2 生活
化粧と身支度を終えたサフィーが居間に入ると、そこはバターの香りが辺りには立ち込めていた。その香りに、サフィーの胃が本格的に目を覚ましたのか、くうと腹の音が小さく鳴る。
テーブルには、昨日村の人からもらった野菜で作られたサラダと、篭には小麦の香りのパンが山盛りに乗っけられている。緩やかな曲線を描く白磁のティーカップには、湯気の立つ紅褐色の茶がたっぷりと注がれていた。
サフィーの席の前には、もう一人分の食器が並べられており、その席にはルナスが腰をかけていた。彼はすでにティーカップに口をつけており、手元には大きく分厚い本が広げられていた。確かこの国の歴史をつづっている本だったはずだ。
サフィーはティーカップに口をつけ、乾いた口元を濡らすと、ルナスに声をかけた。
「難しい本を読むのね、ルナスは」
「難しい」
ルナスは難しい、という単語に引っかかりを覚えたようだった。サフィーは、小さく苦笑いを浮かべて口を開く。
「それこの国の建国までの話の本でしょう? 私、小さいころその本をお父様の真似っこで開いて読んでみたのよ。全く理解できなくて、戻してしまったわ」
「今は?」
「一年前に読んでみようと思って開いて閉じたわ」
「それは残念」
ルナスは、そう言うと手元の本に目をやった。
「あいにく、私はこの国のことを知りません。ですが、今ここで過ごしている以上、ハーベリス王国のこと、習慣、それらを知っておくことは、決して無価値にはならないでしょうから」
それにサフィーは頷いた。確かに、ハーベリス王国に身を置いている以上、この国の知識は最低限求められるであろう。ルナスの考えは間違っていない。
ただ、それ以上に――。
(多分ルナスは本を読むのが好きなのね)
厳密に言えば、国史のような歴史本を好んでいるようで、小説等にはあまり興味がないのか手に取っている姿を見かけたことはない。ただ、それらもあって、近いうちにルナスの方が自身よりもハーベリス王国の知識を有するようになりそうな気がサフィーはしていた。
間もなくして、アリシアが大きめの皿を2つ手に持って現れた。その皿の上には、様々な具材が詰め込まれたオムレットが乗せられている。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、アリシア。ふふ、バターの香りがしたから、もしかしてと思ったのだけれど、私の予想は当たりだったわ。アリシアのオムレット、大好きなの」
「喜んでいただけて何よりです。スープも持ってきますので、先にお召し上がりください」
アリシアは、サフィーの言葉に嬉しそうに笑った後、厨房へと向かっていった。その様子を、見届けたサフィーとルナスは、料理に向いなおると額に手をかざす。
「星の下、巡る命に安寧を与え、今ここに捧げられた糧へ感謝します。この糧たちが我らの心と体を支え、星の導きのもとで新たな力となりますように」
言葉が終わると同時に二人は額に掲げていた手をおろし、食事をはじめた。
サフィーは、オムレットをフォークで崩し口に運ぶ。中にはたくさんの野菜と塩漬けの肉がみっちり詰め込まれている。臭み消しのために入れられた香草のおかげで塩漬け肉も獣臭くはなく、アクセントになっていた。バターの香りもうんとさらに食欲を煽る。麦の香りが強めのまだ焼き立てのパンは口の中の水分を持って行ってしまうので、紅茶で口を濡らした。
ルナスを見れば、彼も黙々と食事をしていた。あまり口数の多い方ではないルナスだが、食事中はさらに格段と口が減る。そして、見た目以上によく食べる。「おいしい」を口にすることは多くないものの、丁寧に、しっかりと食べるため、見ていて気持ちのいい食べ方と言えた。
それにサフィーは、ルナスとの食事の時間が好きだった。アリシアは使用人の立場であるため、食事の席を共にしたことはなかったし、生前の父も忙しい人でこうして食事を一緒に食べることは少なかった。なので、サフィーにとってルナスの存在と言うのは、かなり貴重なものでもあった。
二人が食事を始めて少し経った頃、ルナスが思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、今朝アリシアさんが、肉の在庫がなくなりそうだと言っていました」
「あら、だったら買いに行きましょう」
父が没後、村の管理をサフィーがしているため、必然的に買い出しは彼女の担当だった。というのも、村に顔を出せば当然村の様子が分かるためだ。
それをルナスもここに来て間もなく理解したらしく、買い出しの必要な物があればサフィーに報告してくれるようになった。
買い出しは、手がふさがる。そのため、最初の数度はサフィーが頼んで一緒に村へ下りてもらったが、最近はサフィーが言わなくともついてきてくれるようになった。今日の買い出しの物品は多くなさそうだが、村人からのお裾分けをもらって手がふさがることも珍しくはない。そのため、頼まずともルナスがついてきてくれるようになったのはサフィーにとってはありがたいことだった。
ルナスは機嫌の良さそうなサフィーを訝しげに見つめ、小首をかしげる。すると、彼の肩からさらりと髪の束が零れる。その様子を見たサフィーは小さく笑った。
「でも、その前に、あなたの髪を結わなくちゃね」
ルナスは、基本的になんでもかんでも卒なくこなす。
しかし、身だしなみというものがてんでだめだった。湯汲の後、目を離すと濡れた髪のまま動き回り、そのまま眠る。当然、髪も梳かさないため、ただでさえ跳ねる癖っ毛は、大変なことになるのだ。
おそらくは自分の容姿にこだわりがないのだろう。せっかくの綺麗な朝焼け色の髪も、彼の容姿も彼があまりにも無頓着なせいで勿体ないことになる。それに気づいたサフィーは、ルナスがここに来て3日目の朝に、彼がここを離れるまでは自分が彼の手入れの面倒を見ると宣言した。
以前、サフィーはルナスに「切ったらどうかしら」と提案したことがあった。すると、ルナスは「長くてこの状態です。短くしたらもっとひどくなりますよ」と答えた。つまり、今の状態で十分だということだ。普段頓着のないルナスがこういうのだから、おそらくは最初見た時よりもさらに悪化するということだ。
彼の性格はさっぱりしているため、似合いそうだなとも思っていたサフィーだったが、そう言われるとそれ以上何も言えなかった。
朝餉を終えた2人は食器を片付けると、アリシアに村へ行くことを報告し、ルナスの寝室に向かった。
ルナスの寝室は、少し生活感が増えた。とはいえ、丁寧に使ってくれているのは変わりがなく、特に散らばっているものははない。強いて言えば、サイドテーブルと備え付けの卓上には分厚い本が積み上げられている程度だ。
サフィーは机に置いてあるリボンとブローチを手に取ると、ルナスを椅子の上に座らせ彼の背後へと回った。
彼の鮮やかな髪を手にとる。相変わらずルナスの髪を結うときの、花束を抱えた子供のような浮き立つ気持ちは最初の時と変わらない。
ただ、最初の頃と変わったこともある。それは、彼の癖っ毛が連日のサフィーの努力のおかげで落ち着き始めているということだ。サフィーの努力が目に見える形で表れているようで、少し誇らしくなった。
今日は、洒落た用事もないため簡単に結うことにした。そして、いつも通りサテンのリボンを手に取り、気づく。
ない。ブローチがないのだ。
あの日から、リボンとブローチは欠かさず毎日彼の髪に結っていた。ざわりと心がざわつき、サフィーは数度視線をあちこちに往復させる。
そこでルナスと視線が合ったところで、サフィーの探し物が彼の手の中に納まっていることに気が付いた。なんだ、と思ったサフィーだったが、もしかしたらブローチを髪に結われているのが気に入らなかったのかもしれない。思えば、このブローチをつけていてもいいか、ルナスに聞いた試しがなかった。サフィーは尋ねる。
「どうかしたの。気に入らない?」
「いいえ」
サフィーの問いかけに、ルナスはゆるく首を横に振った。
「月彩晶でしたか。私の国では聞いたこともない石の名前ですし、調べてもほとんど情報がない石なので、不思議な石だと思っていたんです」
ルナスはそう言うと、サフィーにそのブローチを渡した。
その答えにほっと肩を撫でおろし、安堵したサフィーは渡されたブローチに視線を投げた。サフィーの手の中で、真昼の湖面の光に色を含ませたかのような穏やかな表情を見せている黄金の石。それを、彼の髪に巻き付けたリボンへと通す。
「月彩晶はね、ハーベリス王国でしか採れないの。しかも、価値はないから、本にもほとんど載ることはないわ」
「価値がない?」
ルナスが聞き返してきたので、サフィーは頷いた。
「脆いのよ、とても。輸送の段階で割れてひびが入ってしまうし、それでいて加工も難しい。今はよく似た人工石が出回っているし、月彩晶よりも頑丈で加工もしやすいわ。だから、宝石としての価値はないの」
「不思議なものですね」
「ふふ、そうね」
月彩晶はサフィーも好きな宝石だった。父が採掘場に出向くと自慢気に持ってくる石で、その原石を誰にも盗まれないようにと机の奥にしまっていたものだ。彼にあげたこのブローチはその幼少期の原石を加工してもらったもので、思い出の品である――そのことには違いない。
ただ、サフィーが身に着けるとその沁みるような漆黒の髪のせいか、あるいは強すぎる青い瞳のせいか、どうしても色が馴染まなかった。月彩晶もどこか落ち着きなくその光を漂わせていたのをよく覚えている。月彩晶に似合う人間ではなかった。それが悲しくなったサフィーは、自室の化粧台の箱の中にこの月彩晶のブローチをしまいこんだのだ。それが数年前の出来事だ。
月彩晶はルナスの髪という居場所に満足しているかのように、より一層輝いて見える。それがサフィーはうれしかった。




