2-1 日常
「サフィー、起きてください」
窓から差し込むまろやかな日差し。太陽はとうに朝を知らせたと言わんばかりに、窓から室内を覗き込んでいた。
誰かに体を揺すられているにもかかわらず、布団を頭から被ったサフィーはうんうんと唸るばかりでちっとも出てこようとはしない。清々しい朝とはほど遠い光景だ。サフィーも意識が浮上してずいぶん時間が経っているが、身体がずんと重く起こす気には到底ならない。
だが、いつまで経ってもこうしているわけにはいかないと、脳がやっとこさ理解したのか、サフィーはひょこりと布団から顔を出した。太陽の意気揚々とした日差しが、目に染みる。
そうして、寝台から這いつくばるように出てくるサフィーをルナスはじっと見つめていた。
「おはよう、ルナス。今日もごめんね」
そうサフィーが寝起きのかすれた声で笑いかければ、ルナスはぼそりと呟く。
「おはようございます。相変わらず、目覚めが悪いですね」
そうは言いつつ、ルナスはいつもサフィーを忍耐強く起こしていた。最初の一度だけ布団を剝がれたが、それ以降は布団越しに声をかけて時間をかけて起こすようになった。
普通であれば、女性の部屋に男性が入って起こすということはよろしくない。ましてや、サフィーは嫁入り前なので、なお更だ。
そのため、最初ルナスがサフィーの寝室に入って起こしたということを知ったアリシアは、鬼の形相で彼に詰め寄った。が、ルナスは涼しい顔で「次は布団を剥ぎません」と言った。そういうことではないだろうとサフィーは思ったものの、肝心のアリシアは「いいでしょう」と頷いた。いいんだ、とサフィーは驚いた。たまに、アリシアの中での境界線とやらはいまいちわからない。
サフィーは寝台から足を下ろし、靴を履く。
「朝餉の支度はできていますから、身支度が終わったら居間にきてください」
そう言うとルナスはふわふわとした髪の毛を揺らして部屋を出て行った。
その背中を見送ったサフィーはうんと伸びをする。ぱきぱきと節々から音が鳴った。そういえば、昨日寝台に入った記憶がない。父の仕事の引継ぎの書類を夜遅くまでこなしていたためだ。
(いつ、布団の中に入ったんだろう、私)
そんな疑問をまだ覚め切っていない頭で考えつつ、立ち上がったサフィーはクローゼットから華美とは遠く離れたワンピースを一着手に取った。
クリスタス家に、ルナスを置くようになってから1ヵ月ほどが経った。
あの日――ルナスに組み敷かれたあの日、サフィーが「どいて」といえば、彼はあっさり退いた。本当に、驚くくらいに、あっさりと。そして、そのままルナスは寝台で横になった。一方のサフィーだが、当然のようにサフィーは寝台から脱兎のごとく飛びのいた。
その際、足に何かぶつかった。じゃらり、と音をたてた方を見れば、そこには鈍く光る鉄が転がっていた。その鉄の塊――かつて枷だったものは、力づくで破壊されたというよりかは、何かに溶かされたというような壊れ方をしていた。全て溶けているわけではなく、一部――ちょうど手枷が手枷として役目を果たせなくなるであろうほどだけが溶けていた。
おそらくは、魔法で壊したのであろう。そうでなければ、この器用な壊され方に説明がつかない。鉄を溶かす炎でさえ、このような絶妙な塩梅で鉄を溶かすことはできない。
そのため、サフィーは呆然とじっとその鉄枷を見つめる他なかった。
しかし、それからというもの、ルナスはサフィーに何かするようなことはしなかった。前のように押し倒すことはもちろん、サフィーに触れるようなこともしなかった。
だが、サフィーが気の済むまでいてもいいと言ったためか、ルナスは傷が治った後もここにいる。
それは、アリシアはもちろん、サフィーにとっても想定外の事だった。あのような扱いを受けたのだ。もうこの国が嫌になっていて、すぐにアルテリオ王国へと帰るだろうと思っていた。
この家が気に入ったのだろうかとサフィーは思ったが、クリスタス家は裕福な家ではない。働かない者を家に置けるほどの金銭的余裕はない。そのため、ただいるだけであったら追い出していただろう。
しかし、ルナスはそれを分かっているためかよく働く龍人だった。クリスタス家に来て2日目には、家事の手伝いをし始めたのだ。そのうえ、物分かりも物覚えもいいときた。1度教えたことは難なくできる。料理も、掃除も、洗濯も。
また、今までのクリスタス家には女手しかなかったこともあり、力仕事にはずいぶん苦労した。しかし、ルナスがきてからというもの力仕事に頭を悩ませる必要はなくなった。ルナスは体躯の線こそ細いが、龍人ということもあり力は普通の男以上にあるようで、表情1つ変えず力仕事をこなしていった。
確かに、サフィーは「使用人として家に置けば問題ない」とアリシアを説得した。ただそれはその場しのぎの言葉で、本気でルナスに使用人として振舞うことを求めたわけではなかった。それは、アリシアも同じであったのだろう。彼女もまた最初はルナスの行動に、わずかだが眉をひそめていた。
しかし、それは本当に最初の数日だけのことで、ルナスの仕事ぶりを認めた彼女は彼に仕事の一部を任せるようになった。
つまるところ、ルナスという龍人はいともたやすく、クリスタス家の日常になじんだのである。




