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重いエッセイ集

感情の身体性と質量について

作者: 寒がり

感情はいつも具体的、身体的だと思う。

映画が銀幕に像を結ぶように、感情は常に体というスクリーン、媒体、感覚器官を通じて表現され感覚される。

私は、椅子に座ってスクリーンを眺めるように自分の体に現れた感情を見ている。


例えば、悲しいとき。

鼻先がツンと痛くなると同時に涙腺がジワジワとなる。目の下の筋肉がプルプルと痙攣を起こし、場合によってはしゃっくりにも似た不規則なしゃくり上げ、嗚咽とまとめられるものが起こる。そして心臓というよりむしろ消化器官あたりに締め付けられるような感覚がある。それに涙が頬を流れる感覚までもを総称するのが悲しみの感情なのだろう。


嬉しい時は悲しい時に収縮していた目の下の部分の筋肉は緩み、そのすぐ下、口角の表情筋は強張る。やたらに体が動こうとする場合もある。ガッツポーズとかシャドーボクシングとか言われるそれだ。


怒りはさらに全身的な現象だ。口角ではなく顔の下半分の筋肉が強張る。歯を食いしばる感覚。鼓動はやや早まり、背骨の全体に耐えがたい痛痒、イライラと形容されるそれが生じて全身に広がってゆく。攻撃的な、攻撃を促す刺すようなズキズキとした不快な感覚。それが多分怒りだ。


感情が身体的だとしたら、感情のきっかけの方は?

そっちはもう少し複雑で色々ある気がする。


でも、質量感というものが大きいのだと思う。

例えば、あるものが空間の中に一定の存在を占めているということが感覚された時に愛おしさが増強される気がする。体積とか立体とかに使われている「体」という意味での具体性を感じる場合だ。

猫がちょこんと道の上の空間の一角を占めていると抑えようもなく愛おしいと思う。


あるいは、犬や猫でもぬいぐるみでも恋人でもカバンでもいい。何かを抱きしめるという行為、そこにおいて具体的なものが反作用で以ておし返してくる抵抗の感覚、ギュッとなる感覚はそのまま愛おしさの感覚と言ってよい程じゃないだろうか。


人や動物がものを食べている様子も愛おしい。肉なり草なりペレットなりをもぐもぐと口の中で一心にすりつぶしている様子が。それは一生懸命さとか無防備さとか、そういうこともあるのだろうけど、あのもぐもぐとした感じはある種の質量感だと思う。

実際に生きて存在している。食べ物をすりつぶしているその作用と反作用がある。体を備えている。そういうことが感覚されるのだ。


学生の時、いつも事務室の奥に座っているおじさんが昼ごはんに学食のトンカツ定食を頼み、美味しそうに食べているのを偶然目にした。

あのおじさんは、私の中で事務室の偉いおじさんという以上の情報を持たず、抽象化された記号的な平面的な存在だったけれど、その瞬間だけはある種の愛おしさに類する感覚を持った。

偉いおじさんはサクサクとした衣のトンカツを頬張り、熱い味噌汁を啜って美味しそうにため息をつく生き物だったのだ。おじさんの生き物性、質量性、存在性。


ライブに行って推しを見たり、サイン会に行って作家に会ったり、そんな大掛かりなことじゃなくても文字情報(チャット)音声情報(ボイス)と化している友人と久しぶりに会うと愛おしさなり愛おしさに類する嬉しさとか懐かしさとか正の方向の感情が湧き上がるのは、質量が与えられ、回復されるからじゃないかと思う。

実際に呼吸している、何かを見ている、何かを感じている人間という質量の感覚だ。


感情は身体的で、感情の少なくとも重要な部分は生物的、物理的実在性の確信としての質量の感覚から呼び起こされるのだと思う。


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