第53話:冷静と冷酷の間
アリスはハッター、カイル、オーリンを連れてドライアドの花園を目指し、数時間ほど森を歩き続けた。オーリンは時々小さなナイフで木に印をつけていた。
「オーリン、何をしてるの?」とアリスが尋ねる。
「えっと…僕は迷いやすいから、念のために道標を残してるんだ。」
オーリンは少し不安げに答えた。
アリスは優しく微笑んで、「すごいね、オーリン。用意周到なのはいいことだよ。」と彼を励ました。オーリンは頬を赤くし、照れながらも安心したようだった。
「まあ、私がいれば空から皆さんの場所を確認してお導きすることは可能なのですがね!」とハッターが軽口を叩くが、アリスは彼の言葉に少し皮肉を感じながらも微笑みを返した。
「それでも用心に越したことはないよ。ありがとう、オーリン。」とアリスが続けた。
「あ、あ……うん……。」
オーリンは照れながら、少し恥ずかしそうに俯いた。
数分間歩き続けても果実のある木は見つからず、景色も変わらない。オーリンはあたりを見渡し、先ほど自分がつけた目印が目に入った。
「皆、見てこれ……僕がさっきつけた目印だ。」
「んぁ?そんなわけねぇだろ。ずっと真っ直ぐ歩いてるんだ。同じ道に戻ってくるはずがねぇよ。」カイルは不信感を募らせつつも動揺を隠せない。
ハッターが冷静に、「いえ、間違いなくこの道は先ほど通りました。この木の幹、根の形、つけた印の形も同じです。」と答えた。
ハッターは帽子からナイフを取り出し、その手に持つナイフはまるで機械のように正確に動き、木に印を刻んでいく。彼の動作には一切の感情がなく、その顔は笑っているのに何かを感じている気配すらない。
アリスの胸に不安が広がる。彼女の視線はハッターの無機質な笑顔に留まったままだ。心臓が早鐘を打ち、息が詰まるような感覚に襲われる。
「私たち、迷子になっちゃったのかな。」
「ご心配には及びません、我が君。少し様子を見ましょう。」
ハッターは冷静なまなざしで状況を見渡し、淡々と動いていた。アリスやカイルが緊張し、恐怖で息を呑んでいるのをよそに、ハッターの目はまるで目の前に危機など存在しないかのように冷たく光っている。彼が話すときの声は低く一定で、まるで目の前の出来事が取るに足らないことのように響いた。
「さて、行きましょう。同じ場所を巡っているのなら、またここに戻ってくるはずです。」
四人は不安を抱えながらも再び歩き始めた。数分後、再び同じ木の前に立つことになった。印は確かに残っていたが、ナイフだけが消えている。
ハッターは考えを巡らせた後、静かに説明を始めた。
「この森には迷宮の呪いがかけられていますね。空間を歪めて、進んでも同じ場所に戻ってしまうように仕向けられています。私のナイフは思念体で実体がないため、その魔法が適応されなかったのでしょう。私のナイフは恐らく、元いた森に残されている筈です。」
アリスは焦りを感じ、目の前がぼやけるような感覚に襲われた。
「迷宮の呪い?それって、もう出られないってこと?」
彼女の声は震え、心の奥底から湧き上がる恐怖がにじみ出ていた。
「通りでおかしいと思ったんです。これだけ豊かな森なのに、なぜ町の住民がこの森に入れないのか……おそらく、この呪いが原因でしょう。私だけが偵察の時に戻れたのは、霊体だから魔法が私を認識しなかったのでしょう。」
カイルが焦りを募らせる中でも、ハッターの表情には一切の揺らぎがない。彼の声には、感情のかけらもなく、ただ機械的に事実を告げるだけの冷たさがあった。
「でもよぉ、ここから出られないんじゃ、どうすんだよ!迷ってのたれ死んじまうぞ!」
カイルは声を荒げ、怒りを爆発させた。アリスはその言葉に恐怖を感じ、無意識に後ずさりした。心臓が早鐘を打ち、手のひらが汗で湿っているのを感じた。
「この迷宮の魔法を打ち破る方法はあるの?」
アリスは希望を求めるように問いかけたが、その声はかすかに震えていた。
ハッターはしばし思考を巡らせた。彼の考えは冷静で理にかなっていたが、他の仲間たちの恐怖や不安にはまるで気付いていない様子だった。彼にとっては、効率的な解決策だけが重要であり、それを実行するための手段にためらいはなかった。
彼は再び、仲間たちの感情には無頓着なまま、冷徹に状況を利用する方法を考えていた。そして、カイルに向かって逆さ吊りの姿勢で突然現れた。
「元を正せば、あなたが無能だからこうなったのではありませんかぁ?」と、意地悪な口調で言い放った。
カイルはすぐに怒りで顔を赤くし、「あぁ!?なんだと!」と声を荒げた。
ハッターは冷静に続けた。
「炎の戦士、インフェルナ族も大したことありませんねぇ。迷宮の魔法に一歩足を踏み入れた時点で気づくべきだったでしょう?」
カイルの怒りは増し、体から炎が立ち上る。彼の拳は怒りで震え、全身が燃え盛る炎に包まれた。その様子を見ても、ハッターは依然として冷静なままだった。彼はさらに挑発するように言葉を続けた。
「忌まわしきインフェルナの負け犬。あなたがいなければ、こんなチープな罠には引っかからなかったでしょうね。」
カイルの怒りはついに頂点に達し、咆哮とともに炎が森中に広がった。
「ふざけるなああああああああああ!!!!」
燃え盛る炎が森を飲み込み、深刻な事態へと発展していく。アリスは必死にカイルを止めようとするが、その声も届かない。
「カイル、やめて!!ハッター、どうしてこんなことをするの!?」
アリスの叫びにも動じることなく、ハッターは冷静に空間の歪みを指差し、微笑みを浮かべた。
「直にこの迷宮の主が現れます。こうするのが一番手っ取り早いんです。」
やがて美しい少女が燃え盛る森の中に現れ、苦しそうに訴えた。
「お願い、火を鎮めて!このままでは森が……」
「あなたがドライアドですね。」
「ええ、私はドライアドのロゼリア……今は力が弱まっていて、この炎は抑えられない。お願い、助けて……!!」
アリスはロゼリアを助けようとするが、ハッターは冷静に、「心配には及びません。」と告げると、まるで日常的な動作のように手をカイルに伸ばし、その心臓を無造作に握りしめた。
カイルは一瞬で苦痛に顔を歪め、全身が震え始める。激しい痛みが彼の体を襲い、全身に張り巡らされた炎が急速に弱まっていく。ハッターの冷たい手が彼の心臓を締め付けるたびに、カイルの力は奪われ、やがてガタガタと震えながら膝から崩れ落ちた。
「う゛ッ……!」
カイルの呻き声が森に響いた。
アリスはその光景を目の当たりにし、恐怖で全身が凍りついたように感じた。彼女の胸の中で、絶望と恐怖が入り混じり、心臓が激しく鼓動するのを感じた。
「カイル!」
アリスは叫びながら駆け寄り、冷たくなった彼の体を抱きしめた。カイルの炎はすっかりおさまっていたが身体は氷の様に冷たくなっていた。ハッターは微動だにせず、ただ冷淡に、無機質な笑顔のままで炎の収束を見届けた。彼の笑みには、まるで森に広がっていた炎も、カイルの苦しみも、何の意味も持たないかのような冷たさが宿っていた。
ハッターは再び冷気を高め、森に広がっていた炎をも消し去った。その動作はあくまで機械的で、感情の揺らぎは一切感じられない。彼にとっては、すべてが計画通りに進行しているだけのことであり、そこに他人の感情や痛みを考慮する余地はなかった。
ロゼリアは涙を流しながら、無惨に燃え尽きた森の一部を見つめていた。
「なんて酷いことを……」
彼女の声は悲しみで震えていた。
ハッターはその声に応じることなく、冷淡に「申し訳ありません、こうするのが一番早いと思いまして。」と告げた。
ロゼリアは怒りと悲しみで蔦を伸ばし、ハッターを攻撃しようとしたが、その蔦は幽霊であるハッターの体をすり抜けるだけだった。彼女の攻撃は無力であり、ハッターの冷静さをさらに際立たせるに過ぎなかった。
「どうして……!」
ロゼリアは涙をこぼしながら叫んだが、ハッターは無表情のまま冷ややかに微笑んだ。
「私は幽霊ですから、物理的な攻撃は無意味です」と彼は淡々と告げた。
アリスはそのやり取りを見ながら、心の中に渦巻く恐怖と不信感を抑えることができなかった。
「ハッター……どうしてこんなことを……」
彼女の声は震えていたが、ハッターはその問いかけに対しても、まるで無感情な壁のように冷淡に答えた。
「我が君、これは必要な手段でした。ドライアドを引き出し、迷宮の魔法を解除するために、これが最も効率的で早い解決方法だったのです。」
アリスの胸に広がる不信感と恐怖は、彼の冷淡な言葉によってさらに深まった。
「でも、ハッター……カイルやロゼリアさんにまであんな苦しみを与える必要はなかったはずだよ……」
アリスの声には、彼を信じたいという最後の希望が込められていたが、ハッターはその希望を冷静に切り捨てた。
「ご安心ください。我が君。カイル殿も無事ですし、ドライアドもこうして現れてくれました。すべて計画通りです。」
ハッターは変わらぬ微笑みを浮かべていたが、その笑みは冷たく、まるで心の奥底に何も感じていないかのようだった。アリスはその笑顔に底知れぬ不安を覚え、彼に対する信頼が音を立てて崩れていくのを感じた。
「でも、ハッター……」
アリスは息を呑み、言葉を探すが、彼女の心は混乱と恐怖でいっぱいだった。
「どうしてそこまで冷酷でいられるの?」
その問いは、アリス自身が理解したいという切なる願いから発せられたものであり、彼に人間らしい感情が残っていることを信じたいという一縷の希望でもあった。
ハッターは少し首を傾げ、彼女をじっと見つめた。だが、その瞳の奥には何も映っていなかった。まるで、アリスの問いかけがただの雑音であるかのように。彼の微笑みは変わらず、その冷静さは崩れない。
「我が君、感情は判断を曇らせます。必要な手段を取るために、私は感情を排除しています。それが私の役目であり、あなた様を守るために最も効率的なのです。」
彼の言葉には理があったが、その理性は冷たく、アリスの心に届くことはなかった。
アリスは無意識に後ずさりし、ハッターから目を逸らそうとした。しかし、彼の冷たい視線が彼女を捉えたままで、逃れることができなかった。彼女の心の中で、不安と恐怖がますます膨らんでいく。
『ハッターは私を守るためだと言うけれど……。でも、どうしてこんなにも無情になれるの?』
アリスは胸の中で何度もその疑問が渦巻くのを感じた。信じていた仲間が、冷酷な存在に変わってしまったかのような感覚が、彼女の心を締め付ける。
『私が間違っているのかもしれない……』
アリスは心の中でつぶやいたが、彼女自身、その答えが何なのか分からなくなっていた。ただ一つ確かなのは、ハッターとの間に立ちはだかる冷たい壁が、二人の間に溝を作り続けているということだった。
彼女はカイルの冷え切った体を抱きしめながら、彼を守りたい一心で心の中に広がる絶望と戦い続けた。しかし、その戦いは孤独で、彼女の中で信じていたものが崩れ去っていく感覚がますます強くなっていくのだった。




