【短編】婚約破棄騒動の結末
「今この場をもって、君との婚約を破棄する!!」
急に会場に響いた声に、それまでのざわめきが消える。
パーティ会場の中心には一組の男女がいた。
「……これはまた急なことですね」
そして、静まった空気の中、冷静に言葉を紡ぐのは一人の女性だった。
まだ少女と言っても差し支えないその姿に、頬を赤らめるものは男女を問わない。
「それで、どう言ったおつもりでしょうか?」
綺麗に微笑むその姿は、赤子だろうが老人だろうが魅了する。
それはもう女神の如き佇まいだった。
「どう言うも、こう言うもない!! もうこれ以上は耐えられないと思った通りだ」
そんな彼女に、強気に言い返すは一人の青年。いや、少年と言ってもいい。
彼もまた、多くの民が気がつく間もなくため息をこぼしてしまいそうなほど、見目麗しい顔を持っていた。
「今回ばかりは君を許せそうにないっ!!」
女神の如き彼女に、そうも怯むことなく強気の態度でいられるのは、彼らが幼少期より顔を合わせ、婚約関係にあったからに他ならない。
そのことは、この会場内の誰もが承知の事実だった。
「あら、一体何のことでしょう?」
この状況で取り乱すこともなく、落ち着いたその声色を奏でる姿に、人々は釘付けになっていた。
「『何のことでしょう?』だと? とぼけるな!!」
二人が交わす言葉に耳を立て、周囲は様子を見続ける。
次に一体どんな言葉が飛び交うのか、その結末を。
「とぼけるなど……。そんなつもりは全くありません」
「嘘をつくな!! 君とてもう分かっているはずだっ!!」
二人の口論は止まる気配がない。
このまま話が逸れ続けるかと、周囲が思考を凝らしたところで場の状況は展開した。
「ならばその破棄、受け入れさせてもらいましょう。ここまでわたくしとの婚約を嫌がる殿方と好き好んで婚姻など、したくはありませんので」
ある意味当然の返しだった。
こうまでも大衆の面前で婚約の破棄を宣言されれば、それをされた側は最悪な心持ちであろうことは誰でも察せられる。
「では、わたくしはこれで失礼させていただきます。お父様に手続きの書類を用意してもらわなくては」
それはそれは美しいカーテシーを見せつけた彼女の姿は、もう嫌味のようであった。
その彼女に声をかけられる強者もそうはいなく、彼女がスタスタと会場から出ようとしたところで。
「おい! まさか今から帰るつもりか!?」
どうやら強者がいたようである。当事者に。
「何かご不満でも? 振った女がその場に居座るよりかは幾分マシであると思いますが」
それはそれは美しい音を奏でているはずの声が、その時は幾分かトゲを含んでいるように聞こえたのは仕方のないことだろう。
「……一人で帰る気か?」
彼女のトゲある声に、どうやら彼も何か思うところはあったようで少しばかり言葉を詰まらせていた。
「えぇ。この状況で、わたくしを送ろうなどと名乗りを上げるような殿方がいれば、その者は当の前にわたくしの前に颯爽と現れ、わたくしの手を取ってこの会場から連れ出していたでしょうから」
そして、それにも堂々と言い返す様はまるで勝利の女神の如く美しさと凛々しさを兼ね揃えていた。
誰もがその姿に感嘆し、羨望と敬意の込めた視線を送っていた最中、なおも彼の元婚約者殿は言い募る。
「使用人を外に待たせているのか?」
「いいえ。御者が一人待っているはずです」
「なら友人は?」
「ここまでで貴方がわたくしのエスコートをしていたのですよ。察してくださいませ」
食い下がる彼の態度は、まるで彼女との別れを惜しんでいるようだった。
まさか、本当に婚約破棄をするつもりではなかったのか。
周囲がそう疑念を膨らませたところで、すぐその考えを改めた。
「ならば、君は今から一人で帰宅すると言うのか!?」
「先ほどからそう申し上げているはずです!」
それまで決して声を荒げることのしなかった彼女が、ここに来て我慢も限界を迎えようとしていた。
それもそうだろ。
今し方、自分を振った男がこうして彼女を引き止めるように言葉を重ねてくるのだから。
いくら、その姿が女神のようであれ、彼女も一人の少女だ。
男のその態度に、少しばかりの期待を含んでも仕方のないことだった。
そんな彼女に、男は更なる動揺を誘う。
「ならば、私が送り届けよう。今日の目的も無事済んだことだしな」
「なっ」
その言葉に取り乱すのは何も彼女だけではない。
会場中のものが、正気かと疑った。
今し方振ったばかりの女を送ろうなど、どう言う神経をしているのかと。
しかし、そう感じたものは多かれ少なかれ、すぐに気づくであろう。
彼らの真の関係に。
「君を一人で返すわけにはいかない。君の父君にも申し訳が立たぬしな」
「……っお言葉ですが、今、わたくしたちは婚約を破棄したのですよ? どう言うおつもりですか?」
彼女の疑問も当然だった。しかし。
「どう言うつもりもない。これまでにも何度も言っているだろう。君は美しすぎる」
「……っ!!??」
さて、ここで一度振り返ってみよう。
今日この日、会場の中心で婚約破棄の宣言をした一組の男女。
女はそれはもう女神の如き美しさ。
これについては何度も語っている。
そして、実際に一方的にではあるが婚約破棄を宣言した男もまた、見目麗しい顔であった。
まだ成長期の合間か、あるいは終えた頃合いか。
引き締まったその体躯に、程よく筋肉がついており、彼に一度でも抱き寄せられたいと夢見る乙女は、この国には少なくないだろう。
もう一度言おう。
彼は美丈夫である。
そんな彼に、美しいなどと称されて平静でいられる女は女ではない。
それは、これまで婚約関係にあった彼女ですらそうだ。
彼のその一言に、少しばかり苛立ちを含んでいた姿も、今はまるで嘘だったかのように頬を染め、どこか恥じらいを纏わせている。
長い婚約期間を設けてもなお、彼の美しさに慣れることは、女神の如く美しい彼女でも無理なことだった。
だが、その姿に追撃するものが、やはりこの場にはいた。
「それみろ!! 君はすぐにそうやって肌を赤く染め上げる。その姿でどれほどの男が理性を失うだろうか!!」
その言葉に間違いはない。
現に、今、理性のタガが外れそうな者は確かにいた。
しかし、この静まり返った会場で、今まさに婚約破棄騒動の真っ最中で、それも、こうまであからさまに指摘をされれば、その衝動のまま行動を起こせる者などそういなかった。
「君は美しい。いや、美しすぎる。このまま君を一人で返せば、タガを外した男どもが君に群がること間違いない」
その言葉にも間違いはない。
先ほどまでのその凛々しい姿も、今は鳴りを顰め、ただ恥じらう姿を目の当たりにしては、どんな聖人君子であろうと、彼女という花の蜜に群がるだろう。
その花を手折りたい、とそう思う者さえ。
「君も、いい加減自覚してほしい。その首筋まで赤く染め上げる姿が、どんな色香を纏っていることか」
「……っ」
「君はただでさえも色白い。不健康そうに見えないながらも、どこか神秘さえも感じさせるその姿。ふとした瞬間にどこまでも赤く染め上げ、それを見たものにさえも伝播させる。何年も君のそばにいる私ですら、堪えるのにやっとだと言うのに」
確かに、彼女は今この場で、先ほどの凛々しさなど感じさせないほど艶めいて見える。
先ほどまでの姿が勝利の女神であるのならば、今の姿は儚げで、それでいて可憐ささえも兼ね揃えた花の女神そのものだ。
いや、その儚げな姿を見れば「妖精」とさえ唱える者もいるだろう。
しかし、その罪深いほど美しすぎる姿も、平時から見られるわけでは決してない。
それは彼女のその危うげな美しさを心配してか、彼女の両親から強く仕込まれていることだった。
可憐な姿ではなく凛々しい姿を。
勇ましさを持たず、けれども儚げさも持たず。
普段の勝利の女神であるその姿こそ、彼女の両親の教育の賜物である。
その仮面が外れ、こんなにも無防備な姿を晒すことはそうはない。
もしそうなれば、彼女はすでに貞操の危機に何度も陥られているだろう。
「君はいつもそう無防備に、男の理性を崩壊させ、欲情を引き出す。とてもではないが、君を一人帰らせることはできない」
「っで、……ですが、今わたくしたちは婚約を破棄したばかりで、同じ馬車に乗るのは……」
「当たり前だ。私の馬車も待たせてある。並んで走っていれば、君に何かがあってもすぐわかるだろう」
まるで彼女を褒め称えるような台詞を吐かれ、動揺を隠せない彼女であったが、どうにか理性を総動員させ、否定の言葉を紡ぐ。
しかし、その言葉をすぐに肯定され、それまで抱いていた期待の思いが一気に冷める。
「……そうですか、そうですよね。婚約を破棄したばかりの元婚約者が、その日の帰りに不慮の事故にでも遭えば、貴方にお立場がないですものね!」
期待していたものがバッサリと切り捨てられた感覚は、そう簡単には切り離せず、やや八つ当たり気味な言葉を彼女が紡ぐことは仕方のないことだった。
しかし、彼女はすぐにそのことを後悔する。
「あぁ、そうだ」
「っ……!」
「君に何かあっては困る。私は君を心配してるんだ。決して君に傷ついてほしいわけじゃない」
「!?!?」
まさか負け惜しみのように出たその言葉にそんな言葉が返されるなど思っても見なかった。
ここで静まり始めていた会場がざわめきを取り戻す。
それもそうだ。
婚約破棄を申し上げた彼は、元婚約者の彼女の身を案じ、彼女の心配をしていると公言したのだから。
恋愛小説を愛読書とする令嬢たちは、彼の言葉にどれほどの夢を見せられるだろうか。
すでに既婚の者さえ、黙って見ていることに気恥ずかしさともどかしさを感じずにはいられなかった。
(((もう放っておこう)))
会場内の誰もがそう考えてた。
どうせ結果は目に見えている。
なにしろ、この騒動は見ることは決して珍しいものではないのだから。
「これまでも、君はその赤らめた顔で上目遣いをしてきて、その度に私がいったいどれほどの忍耐を強いられたことか」
「!!??」
「逆に、なぜそこまで魅惑的な仕草をして、これまで無事だったのか不思議でならない」
(((婚約者の君が牽制してたからだろ!!)))
すでに放っておこうと決めていたはずの彼らだが、目は反らせても、耳に戸を翳すことはできず、つい皆が同時につっこんだ。
そう、女神のような彼女が、これまでその美しさを失わず、清純であり続けられたのも、元婚約者であった彼がその隣で牽制心むき出しだったからに他ならない。
彼は美丈夫だ。
女神の隣に並んでいても違和感のないくらいに。
そんな彼に好き好んで睨まれたい人間はいない。
女ですらその圧に負け、彼にも彼女にも近づくことができないのだから。
「本当に何故これまで何もなかったんだ? 本当に何もなかったのか?? ……まさか私が知らないだけですでに、」
ここにきてその疑念に囚われた彼は、目の前に立つ彼女を上から下まで眺める。
こんな見目麗しい彼に不躾なほど眺められて、黙っていられる女はやはりこの場にはいない。
彼女が反論するのも当然のことだった。
「な、何を言っているんですか!? そんなはずがないでしょう! わたくし、これでも普段はちゃんと警戒心を持って、」
「警戒心? 警戒しきれていないだろう! つい先日、私が鼻先まで顔を寄せても全く反応しなかったではないか!! 私ではなく、他の男であったならば、君は当に犯されて、」
「皆まで言わないでください!!」
「とにかく、警戒心のある者の行動では決してなかった。訂正しろ!!」
会場はすでにざわめき、彼らの会話は端端しか聞き取れないほどである。
それもそうだろう。
一体誰が好き好んでこの二人の『痴話喧嘩』に耳を澄ませていなければならないのだろう。
彼らが知りたいのは過程より、結果なのである。
もちろん、なかには一言たりとも漏らすまいと、二人の会話を聞き続ける者もいるが。
「……あれは、そ、その……貴方だったからであって普段であればっ」
「私だったからなんだと言うのだ! 私とて男だぞ!? それとも何か、君は身近にいる男にはそうも簡単に懐を許すのか!?」
「人を淫乱痴女みたく言わないでくださいませ!!」
「そんなふうに言ったつもりはない! もし仮に、本当にそうだったのであれば、私はとっくの昔に君を見かぎり、婚約も破棄していた!!」
ここで、会場は先ほどより少しばかりかざわめきが薄らいだ。
何人かが「お?」と声に出し始めたのはご愛嬌。
「…………な、っなら、今回は何故婚約を破棄したいなどとおしゃったのですか!?」
ここで、会場のざわめきは完全に途絶えた。
この騒動の結末、最も本命の場面に展開されたからだ。
「すでに言っただろう! 我慢の限界だったんだ!!」
「何がですかっ!?」
会場中の誰もが耳を澄ませ、彼らの行く末を見守る。
今回何故、彼がこの騒動を起こしたのか、その訳を知るために。
「そんなもの、決まっているだろう!!……私は、」
周囲が固唾を飲む。
ごくりと、誰かの喉が鳴った。
「…………私は、猫派なんだ!」
「…………はぁ?」
「君はいつも犬を推してくるが、悪いが私は猫派なんだ! 確かに犬は悪くない。愛らしさもわかる。しかし、しかし!! 私はあのツンとすましておきながらたまに見せるあのデレる姿が好きなんだ!!」
「な、」
ここで、両者は見つめ合う。
周囲の者もまた、彼らを見つめ続ける。
「…………い、……犬の方が、犬の方が何倍も可愛いでしょう!? あの従順で、どこまでもついてくる純粋で忠実なあの瞳!! あの何にも一生懸命な姿は誠実ささえ感じるわ!」
「逆だ! その真っ直ぐさが構ってやれなかったとき罪悪感に苛まれる! 猫ならお互いが気まぐれなままにいられるだろう!」
「猫はこちらが構いたくなっても可愛がらせてくれないじゃない!? 確かに見た目は可愛いけれど、はっきり言って可愛げがないわ!!」
この二人の言い分は、両者間違いではない。
事実、会場内の皆はお互い牽制の視線を送り合っている。
誰が味方で、誰が敵か。
その空気はまるで世界大戦前の静けさを纏っている。
この場にいる軍事経験のある者はそう多くない。
しかし、この場の空気のヒリつき具合はまさにそれであった。
古来より、相容れない人種は存在する。
戦争が収まり、平和な時代を築いてもなお、真の平和をかけた争いがとどまることは決してない。
猫派か、犬派か。
この会場は緊張の渦を取り巻き始めた。
「……また始まりましたわね」
「今回はどちらが勝利の矛を収めるでしょう」
「優勢は猫派のようね」
「犬派も負けてはいないわ」
ここに、四人の少女が集う。
彼女たちは冷静にこの場の成り行きを眺めていた。
もしかしたら、この会場内で唯一の第三者の立場を有しているかもしれない。
「確か以前はゼリー派かプリン派でしたわね」
「その前は朝活か夜活よ。どうして彼らはこうも争いたがるのかしら」
「一番の先陣を切るのはあの一組の男女よ。それ以外はある意味巻き込まれているとも言えるわ」
「中には自ら楽しんで身を投じるような方もいらっしゃるけれどね」
そう、実はこの『婚約破棄騒動』はこの一度だけではない。
パーティがある度に、とは言わないが、結構な頻度で開催される最早イベントと言って差し支えないものである。
それも、いつも彼の女神とその婚約者が中心に。
傍目に見れば、彼らは相思相愛。
お互いしか目に入ってないのでは、と周囲に感じさせるほど普段はとても仲が良い。
女神様はその表情だけで一眼で察せられるし、男の方も態度では分かりづらいが言っていることをよく分析すれば、ベタ惚れであることに間違いない。
当人たちに自覚があるかはともかく。
「それにしても、彼らの熱愛ぶりは凄いわね」
「えぇ、あんなにもお互いを愛し合っているのに、何故別れようとするのかしら」
「彼の猫好きって、どう考えても婚約者の影響よね」
「彼女の犬好きも、元を辿れば自分の婚約者のことを表してるわよね」
最終的には、この後どちらかが矛を納め、またどちらかが反省する姿を見せる。
なんだかんだ、毎度婚約破棄の書類が本格的に纏められることはないのだ。
それは、彼らが真にお互いを愛し合っているからである。
「お互いが好きすぎるのも大変ね」と淑女らしく笑う声が、騒がしい会場の中で小さく響いた。
さて、彼らは次、どんな戦争を起こすだろう。
願わくば、最後はハッピーエンドでありますよう。
四人の少女たちは言葉に出さずとも、そう願った。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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