名のない花の見つけ方
僕は昔から影が薄いと言われていた。
なにも光に当てられた人間の身体の影が薄くなるという科学的な意味を持った言葉ではないことくらいわかりきっていると思う――なので特別説明はいらないと思うけれど、一口に影が薄いと言っても様々な意味を持つのも確かなので、ここで意味するものを言い換えた言葉にすると『存在感がない』というものがしっくりこよう。たとえば、レストランなどで注文したものが自分だけ来なかったり、かくれんぼをして遊んでいたら見つけてもらえずにいつの間にか終わっていたり。まあ『存在感がない』以外にも『目立たない』『元気がない』という言葉も代用できよう――要するに、なんの特徴もなく、ぱっとしないいてもいなくても同じような、なんの変哲もない、教室の隅っこにいるようなそういう存在のことだ。決していい意味を持たず、ネガティブなものだと捉えてもらえればいい。
外見も普通、成績も中の中、自分の意見を持たず、自分の意思を伝えず、なにをするにも周りの真似をし、場の空気を読み、ただただ状況に流され、飲まれ、吸い込まれる。
まるで景色に同化するように。
まるで背景に変色するように。
まるで世界に溶け込むように。
それがそうしてそうであったように。
自己を偽り、自我を捨て、僕という存在をこの世から消すようにして生きてきた。
否、この場合、生きてきてしまったという表現が正しいのかもしれない。
子供というのは純真無垢だからこそ、時に残酷とはよく言ったものだ。小学一年生の時だった、遊んでいたクラスメイトの子から「あれ、いたの?」と驚かれた。この時はまだ気づかなかったけれど、いまにして思えばこれが最初の違和だったように思う。
そのまま成長するにつれ、徐々にだが、着実になにかが変わっていった。
挨拶してもらうことが減った。真っすぐ席につくことが増えた。
遊びに誘われることが減った。勝手について行くことが増えた。
話しかけられることが減った。ひとり黙っていることが増えた。
周りに集まっていた人が減った。自分ひとりでいることが増えた。
「影、薄いよね」と、囁かれるようになった。
そしてようやくそれを自覚し、理解し――受け入れた。
すると人によっては悪口と捉えられるものもあまり気にならなくなった。そんなふうに思うようになって――いや、そんなふうに思わなくなって気にしなくなった時からだろう、僕のことに関することはなにも言われなくなった。
どんな流言飛語も。
どんな不平不満も。
どんな誹謗中傷も。
陰口はおろか、僕の話題の一切が彼らからなくなり、合切消えてなくなった。
べつにいい、と思った。
特段、彼らと話したいとも思っていなかったし、むしろそういう面倒ごとから解放されることに安堵感を覚えていた。だから僕は流れに乗るようにして、雰囲気に飲まれるようにして、一歩一歩、一息一息、物理的にも精神的にも遠ざかり、距離を取った。
これをきっかけに、僕はまったくだれからも認識されなくなった。
コンビニにだれかが入ったので僕も入る。
まったく科学の進化は恐ろしいもので、昨今のコンビニやスーパーといった店のほとんどは自動式のものに変わっており、どういう仕組みでドアが開閉するのかは僕のような人間にはわかりっこないのだが、要はセンサーのようなものが備え付けられていてそれが人や物を感知して動作するようになっているようなのだけれどこれが僕には反応してくれないのだ。しかも立地も悪く、都会とも言い難い町のため、ここのコンビニは人の出入りが少なく、かれこれ一〇分くらいはドアの前で待っていた。
「いらっしゃいませ」と元気のいい声が発せられるが、しかしこれは僕への挨拶などではなく、僕とともに店内に入った人へのものだろう。いつものことなので気にせず前へ進み、適当に飲み物とおにぎりを持ってレジへ向かう。
いかにも不真面目大学生よろしくのアルバイトの男性が気怠げな様子で突っ立っている。客である僕が目の前にいてもなにもせず、なんの反応も見せない。ちらりとこちらを見たかと思えば、それは気のせいで、彼はくあっと欠伸を漏らしてぽりぽりと頬を掻く。これはさすがに客を前にしていなくたって見せてはいけないものだろう――と思うものの、僕だって見ず知らずの人に説教するような人間ではないのでそれを見過ごしてやり、お金をトレイの上に置き、袋に入れずにそのまま商品を持って再びドアの前に立つ。
「いらっしゃいませ」
億劫そうにしていた彼は一転して声を張り、接客を始める。しかしトレイの上に見知らぬお金があったことに困惑の色を浮かべながらも「少々お待ちください」と言ってそれをレジの中に適当に入れ、すぐさま商品をスキャンしていく。
「ありがとうございました」
接客が終了すると頭を下げる。僕はその買い物終わりの客と一緒に店を出る。
そのままコンビニ前にあったベンチに腰掛け、買った商品を食べ始める。
もうずいぶんと慣れた。僕は彼らには見えないし、認識されていないが、僕という人間はこの世界に存在する。そう、なにも僕はこの世界からいなくなったわけではない。なので僕がやったことやしたことはちゃんと事象として残る。つまり僕が商品を取ればその商品はなくなるし、僕がお金を払えばそれはきちんと具現化してレジの中に入る。そして僕が行ったことは彼らの中にも残り、先ほど彼はトレイの上にお金があったことに驚いてはいたものの、いまはもうすでにその異質は頭の中からすっぽりと抜けていることだろう。なぜなら彼は思い出したからだ――僕というひとりの客が会計をした、と。
前述したように僕は他人に認識されないが、僕の行ったことはしっかりと現実として残る。人間の記憶というものは曖昧で、起こったことは自分の都合のいいように処理される。今回はお金が置いてあった――つまり、だれかが買い物をした、と店員の彼の頭の中で勝手に解釈したのだ。すると徐々にそれは朧げながら記憶として構築され、そういえばそうだったなとひとりで解決する。
――というのは僕が自分なりに推察して出したものなのでそれが本当にそうなのかははっきりとはわからないが、大方合っていると思う。まあ正直、これが間違っていようがいまいがどうだっていい。僕になにも害はないのだし、彼らにだってないのだから。
昼食を食べ終えた僕は、それをごみ箱に捨て、照り付ける太陽を睨めつけ、その場を去る。
最近は多くの地域で猛暑日を記録しているらしく、やたらと暑い。どこかのニュースで見たのだが、なにやら太平洋高気圧とチベット高気圧が重なったために起こったものだとかなんだとか。一方、気象庁のホームページには人間活動による温室効果ガスの増加が原因だとかなんとか。僕にはなにが正解なのかはわからないし、夏は暑いものだと思っているのでどうだっていい。
帰路の途中、道路脇にあった花が目に留まる。
僕は花に詳しくないのでその花の名前はわからない。白い花が電柱に立てかけられるようにしてあった――しかし、その花はいつから置かれているのか、ほとんど枯れた状態であり、花に詳しい人であったとしてもあれがなんの花なのかを判断するのは難しいだろう。けれどあれは、だれかが置き忘れていたとか捨てていたとかではないのは見てわかった。これはおそらくはだれかが交通事故によって亡くなった人に対してのものだろう。噂でそんなことを耳にしたような気がするが、詳細は不明。ニュースなどでよくこういう光景を見たし、それ以外に花が供えられている理由は考えられない。事故だったとしても僕がここに越してくる前に起きたものだろうからずいぶんと昔になると思うけれど、この花は一体いつ頃から供えられているものなのだろうか。それに花とかはだれが片付けをするのだろうか。こんな状態になるまで花が置かれているのだからきっとかなり前からあったのだと推測できるけれど……ふむ、まあ考えても致し方ないことだ。
ふと周りを見渡す。
だれも彼もが特に気にした様子もなく、歩いていく。
目的地に向かって急いでいる者もいれば、友人と談笑する者、スマホ片手に歩く者もいるが全員共通しているのは、この事故現場にまったく見向きもしないということだ。
いやなにも僕はこの道を通る人たち全員に対して手を合わせていけと言いたいわけではない。ただただ思うのだ。
死ぬっていうのはこの世界からいなくなるってことなのだと。
もうだれにも自分の生きている姿を見られないのだと。
それはなんだか僕と同じようで。
僕はもしかしたら死んでいるのではないか、と思ってしまった。
平日の昼間の公園は閑散としていた。
滑り台や鉄棒、ジャングルジムなどの遊具が置かれ、砂場やトイレなんかも備えられた広い面積を誇る公園の薄汚れた青いベンチに腰掛ける。平日ということもあってやはりここには人っ子ひとり見当たらない。少し前までは小学生くらいの男女が遊んでいたのだが、夏休みが終わったのか、最近はこの時間帯にはめっきり見なくなった。
小学校に行くのが彼らの仕事のようなものだ、むしろこれが普通の光景である。
かくいう僕も義務教育ではないけれど、普通に仕事がある身だ。
二十代も半ば、無職というわけではない。
一般企業に勤める、普通のサラリーマンだ。通常ならば会社でなんらかの仕事をしているのだろうけれど、僕はこんなところでのんきにしている。
仕事放棄、ずる休み、サボタージュ……などなどいろいろと言われてもおかしくない状況なのだけれど、僕が出社したことなどだれも知らず、仕事なんてものはほとんど回ってこないのだ。それこそ入社したての新人の頃なんかは自分から率先して仕事を見つけては取り組んでいたのだがそれもなんだか馬鹿馬鹿しく思えてきて、やめた――そのため、ぱったりとすることがなくなり、気づけば午前中で退社し、適当にぶらついたり、公園に行って休んだりと毎日を過ごしていた。
なにをするでもなく、日がな毎日を怠惰で退廃的に過ごすというのもなかなかどうしてかいいものである――などと考えていた僕の視線の先に、ひとりの少女が目に入った。
小学校低学年か中学年か、はたまた背の低い高学年か、そこのところは正確には把握できないが、それくらいの年齢の少女が周りを気にしながら公園内を歩いていた。
長い黒髪が彼女の身体の動きに合わせて踊る。
あどけない顔立ちは彼女の年齢を伝えてくれるが、相応の明るさはなく、表情も乏しいように見える。その横顔はどことなく、儚く映り、春色の瞳は彼女に彩を添えていた。
「…………」
彼女は緊張した面差しでブランコの前に立ち、恐る恐る鎖を手に取る。
ゆっくりと、それでいてぎこちない動作でブランコに乗り、漕ごうと足を動かす。
「…………」
しかしブランコ未経験なのか、まるでそれはなっておらず、ブランコにただ乗っているだけの絵だった。下手というか、漕ぎ方を知らないという感じだ。いまの子供はあまり外で遊ばないというけれど、ブランコに乗れない子もいるのかと時代を感じた。
「……んしょ」
小さな声が漏れ、彼女は一生懸命ブランコを漕ごうとする。
見ているこちらが居たたまれなくなる。
いや、まあ彼女は僕の姿など見えないのだろうからひとりでいると勘違いしているからいいのかもしれないが、僕としてはなんともまあ気まずいことこの上ない。
けれどかといって僕が教える、なんてこともできない。
「んー、難しい」
すたすたと移動し、彼女の後ろに立つ。
二十代半ばの男が二桁にも満たない少女の背後を取る、というのは第三者から見たら犯罪的なものを連想してしまうのも無理はないだろうが、しかし、僕の姿はだれにも見えない、いわば無敵状態である。だから僕がこうやって後ろから彼女の背を押してやることをだれにも悟られることはない――それはされた彼女とて同じだ。
このことでなにかきっかけをつかめればいい。
どういう風の吹き回しか、僕はそんなふうに思って、彼女の背中に触れようとして――
「――――っ」
――空振りに終わった。
なぜかは知らないが、彼女は突然ブランコから離れてしまったのだ。
ブランコは諦めたのか? いやでもこんな急に? あんなタイミングで?
疑問が降ってくるが、答えなど返ってくるはずもなく、彼女は僕から逃げるようにして公園をあとにした。
あれ、でも小学校って始まったんじゃなかったっけ?
僕はやろうと思えば、完全犯罪だってできるだろう。
なぜなら僕の姿はだれにも見えないのだから、どこかの銀行や企業などに行って、金庫や重要なものを盗みでもすれば金なんていくらでも手に入る。
べつに僕は聖人君子というわけでもないのだが、金に欲がある人間でもない。そのため、そういうことには手を出したことはない――が、しかし。
静かに首を動かし、閑散とした公園内にひとりだけいる少女を見つめる。
こんなふうに昼間から小学生の遊ぶ姿を見て過ごしているというのは、なかなか犯罪的ななにかを感じさせるものがあるなと自分を俯瞰的に見て、思ってしまった。
またしてもあの子だ。
二度目の遭遇。
昨日はここに来なかったので、どうなのかわからないが連続で会うとはなんという偶然。
そして本日彼女がチャレンジしているものは、鉄棒だった。
先ほどから見ている限りでは、おそらく彼女は逆上がりをしようとしているはず。
何度も何度も足を蹴り上げては回れずに地面に足をつけている。
ブランコどうこうというよりかは、彼女は運動全般が苦手なのかもしれない。
やはり何事かをぶつぶつ呟きながら苦戦しているのは変わらない。きっと、みんなには隠れて練習したいとかそういうことなのだろう。周りができるのに自分だけができないという疎外感は小さい子にとっては耐え難いものがある。そういうものだ。
これは手伝いだ、と自分に言い聞かせ、彼女が頑張る後ろに立つ。
コツさえつかめれば、あとは慣れだ。ちょっと手助けをしてやれば彼女だって――
「っ!?」
僕が手を伸ばした瞬間、彼女は鉄棒をやめ、とてとてとまたしても逃げていく。
逃げていく――逃げていく?
自分で思っていて、おかしいことに気づく。
先日もそうだったけれど、どうしてか彼女は僕が触れようとすると逃げていくのだ。
まあこんな年上のそれも異性から触られるというのは、はたから見れば危ない光景だ。
しかし、それは普通の場合に限る。
僕はだれにも認識されない――だから僕から逃げる、という行為などあり得ないのだ。
なのに、彼女はまるで僕から逃げるようにして練習をやめた。
木の陰に隠れ、こちらを窺う彼女と目が合う。
勘違いではない。
彼女は僕の姿を見えている。
「えっと……」
何十年ぶりかの自分の声。それが自分の声であるかも忘れてしまっていた。
数秒自分の喉元を抑え、乾いた唇を舐めてから続ける。
「上手になりたいのなら、手伝おうか?」
僕の声は果たして彼女に聞こえただろうか――などという僕の心配は杞憂に終わる。
「手伝いなんていりません」
どうやら僕のことは本当に彼女の目に映っているようだ。
しかし彼女からの返答はずいぶんとにべもなく。
少しだけ胸が痛んだ。
翌日、公園に行くとまたしてもあの子がいた。
本日はうんていをしようとしているらしい。昨日、あんなふうに拒絶された僕は近づくことなくいつもの薄汚れた青いベンチに腰を下ろしてお茶を飲む。今日も今日とて暑い。夏が終わろうとしているというのに、異常気象というものはなかなか面倒なものだなと思った。
「…………」
あまりじろじろと見るものじゃないとはわかっているものの、彼女と僕以外いない公園内、自然視線は彼女のほうに向けられる。見られているのが気になってうんていに手をつけようとしないのか、彼女はじっとうんていを見つめたまま動かない。そのまま数秒経過し、彼女はうんていの周りをぐるぐると回る。しきりに首を傾げては難しい顔を作る。
どうやら彼女はうんていがどういうものなのかわからないようだ。
ならなぜ挑戦しようとしているのだろうか。
疑問を抱いていると彼女が閃いたとばかりに梯子を登り、登り棒を手につかんで移動するのかと思いきや、なにを思ったのか、彼女は登り棒のあの細いところに乗ろうとしていた。
「ジャングルジムかよ」
知らず僕は突っ込み、彼女の身体を抱えてうんていから降りる。
「なにするんですか! またあなたですか! 離してください! 大人の人を呼びますよ!」
「呼びたければ呼べばいい」
どうせ見えやしないのだから、とは口に出さなかった。
じたばたと僕の胸のところで暴れるので彼女を地面に下ろしてあげる。
「ひとつ質問してもいいか?」
「あなたは人として間違っています。まずは私の邪魔をした謝罪でしょう」
「…………」
腕を組み、怒ったように顔を背けている。
なぜか正論を言われた気分になる。これが子供の特権だろうか。
「申し訳ございません」
「はい。以後気を付けてください」
「それで質問なんだが、きみはあの遊具の遊び方をご存じで?」
「知りませんが、大体想像つきます。あの細い棒を飛び越えていき、あちらの端までいくものでしょう。あれはバランス感覚がものをいうやつです」
「どんな危ない遊具だ。あれはうんていって言って、あの細い棒に足を浮かせてぶら下がり、片腕で次の棒に移って端までいくものだ。握力や腕の力、腹筋や背筋なんかが必要とされている」
「…………」
「というかあんな細いところに留まるとかできないだろう。しかも地面は固いし、落ちたら怪我をするに決まっている。そんな遊具があってたまるか」
「……そうですか。そんなものをしてなにが楽しいんですか?」
開き直られた。
遊び方を説明され、自分が間違っていると自覚したのはなによりだが、なんという負けず嫌いな女子小学生だろう。さすがは子供だな。
「じゃあなんでしているんだ?」
「質問はおひとつのはずです。お答えできません」
「…………」
面倒くさい子だなあ。
「じゃあなんでひとつめの質問には答えてくれたんだ?」
「あなたは質問ばかりですね。まずは自分の頭で考えようとは思わないんですか?」
「考えてもわからなかったから、質問しているんだけど」
「ご自分の低能さを披露してなにがしたいんですか?」
「…………」
初対面の大人に対して小学生が言う言葉がこれか?
「まあいいや。とにかく間違った遊び方だからやめろよ」
「……余計なお世話です」
敵対心は消えず、まったく僕のほうなんか向かない。
僕の心証はだいぶ悪いらしい。知らず気に障ることをしたのかもしれない。そういうことをしないことに関しては長けていると思っていたけれど、年齢が違うとわからないものだ。でも、彼女は頭よさそうだからきっともう危ないことはしないだろう。
「……ありがとうございました」
そそくさと去ろうとした僕の耳に小さな声音で囁かれる。
空耳だろうかと思って振り返ればこちらを向いて頭を下げている彼女がいた。
生意気な小学生かと思いきや、そういうことはきっちりしているらしい。
助けてくれたという自覚はあり、感謝もしているようだ。
なんだかんだで小学生だ。可愛らしい一面もあるじゃないか。
「じゃあ気をつけてやれよ。もしコツとか聞きたかったら僕を頼ってくれ。大したアドバイスができるとも思っていないけれど」
「いえ大丈夫です。あなたのような愚鈍で、遅鈍で、うどんの人には頼りません」
「コシが強そうだな」
前言撤回。
やっぱり可愛げはない。
「なあ、お前の苗字……花に蕾って書いてなんて言うんだ? からい?」
「なんですかいきなり。というよりどうして苗字なんて」
言い終える前に僕は彼女の胸についている名札を指差す。
そこには小田切川小学校三年二組花蕾芽衣と書いてある。ふむ、名前はめいで合っているだろう。
「むっ。私としたことが、個人情報をこんなにも堂々と晒していたなんて」
悔しそうに歯噛みしている。
「名前は『めい』だろ? 苗字はたぶん『からい』だった気がする」
「確かに通常ならば、『からい』です。株の中心や先端のところにできる蕾のことですね。ですがこれは『はならい』と読みます。よかったですね。これでひとつ賢くなりましたね」
花蕾芽衣。
全体的に花っぽい女の子らしい名前に思える。
現在、彼女はパンダの遊具に乗り、上下左右前後に動かしている。
「なあ花蕾」
「どうしたんですか、ほ乳類さん」
「…………」
「話しかけた側がだんまりを決め込まれると困るんですけど」
「いや、だってほ乳類って」
「違うんですか? しかし鳥類のように羽もないですし、爬虫類のような鱗も見られない。魚類や昆虫類、両生類でもなさそうですし。あなたは一体なに類なんですか?」
「類でくくらないでくれ」
「なるほど。既存の枠にはまらない地球外生物というわけですか」
「ほ乳類です」
折れた。
小学生相手に負けた気分だった。
僕は乗っているゾウにぐったりと身体を落とした。
「知っていますか? ナマケモノはほ乳類なんですよ?」
「へえ、花蕾と一緒だな」
「ウサギやリスもです」
ここぞとばかりに可愛い生物を並べてくる。
しかし、そうなると自分は可愛いのだと言っているようなものではないだろうか。
「しょうがないじゃないですか。私、あなたのお名前知らないですから」
「なるほど。確かに名乗ってなかったな。佐藤だ」
「へえ、甘党なんですか」
佐藤=砂糖で甘い物が好きだと。どんな連想ゲームだ。
「残念ながら僕は辛い物が好きだから辛党なんだ」
「残念ながら辛党というものは本来『甘い物よりもお酒のほうが好み』という意味を持つんです。昨今辛い物が好きだから辛党と誤用している人が多いみたいなので意味が変わってきているみたいですけど」
小学生に指摘された。
存外頭はいいらしい。僕はあまり頭がよろしくないらしい。
「ひとつ賢くなりましたね」
ひとつ馬鹿にされた気分だった。
「よっと」花蕾はパンダから降りてライオンに乗った。「同じですね」
「構造は一緒だからな」
「なにが面白いんでしょう?」
なかなかの辛辣な感想だった。
まあ、無表情なまま遊具に乗っているからそうだろうなとは思っていたけれどまさかこうも堂々と言われるとは思っていなかった。
「楽しいですか?」
「いや、べつに」
同じ感想を抱いていた僕を見て少し安堵するように息を吐く。
つまらない乗り物はやめだとばかりに降りて近くの木陰に移動する。
ついていくと花蕾は公園内に生えている花の先端を指でつついていた。
「花ってずるいですよね。存在するだけで人は引き寄せられますから」
「綺麗だからな」
「一目散に外見に目が行く佐藤さんに引きました」
実際に僕から身を引く花蕾だった。
もしかして花蕾は僕が彼女の顔を可愛いと思っているからという理由で近づいたとでも思っているのだろうか。それは非常に心外というか、自意識過剰すぎるというか。
「安心しろ。花蕾の顔は可愛いが、身体の発育がよろしくない」
「最低です! 外見ではなく、身体を見ていました!」
肩を抱いて、より一層僕から距離を取る花蕾。
「花、好きなのか?」
話を戻すと花蕾は「はい」と言ってその視線が花々に注がれる。
「生まれ変わったら花になりたいくらいには」
「ふうん」
生返事をし、僕はなんの変哲もない花たちを見やる。
確かに綺麗だ。
目の覚めるような紅、光り輝いているような黄、大海の中心にあるような蒼。
その色に、その種類に、様々なイメージを膨らませられる。
優雅、純粋、無邪気、気まぐれ、傲慢、冷酷、正義、勇気、といろいろな花言葉があるように――その花たちには、それぞれの意味するものが体現されていてまるで人のよう。
風に乗って揺れる儚い姿。
引き抜いてしまえば、簡単に生きる力を失う非力さ。
ともすれば宝石よりも美しく感じるけれど――僕は花蕾のように憧れを抱けない。
だれかに見てもらえることで存在価値を見出すしかないなんて。
そんな億劫でしかない人生、歩みたくなんかないから。
滑り台はお手の物らしい。まあとはいえ、こんな簡単なものできない人などそうそういないだろうけれど、いやしかしこんなにも感情の起伏が少ない小学生はなかなかいない。
花の観察を終えた花蕾は「次はあれをやってみます」と宣言して滑り台を往復してどれくらい経っただろうか。彼女は壊れた機械のように同じことを繰り返している。それが楽しいならいいのだ、楽しいならいいのだけれど、そんな様子はまったく見られない。実際彼女は楽しむつもりというよりも、こういうものなのかと体験しているような行動に思える。あまり遊具について詳しくないようだから滑り台も初めてなのかもしれない。
「いつまでやるつもりなんだ?」
「それは私の勝手でしょう。それともこれには回数制限があるんですか?」
「聞いたことはないな」
「ならいいじゃないですか。それよりも佐藤さんはなにもしないんですね」
ちらっとこちらを一瞥する。
僕はなにをするでもなく、いつもの定位置でもあるベンチに座ってのんびりしていた。
「遊具で遊ぶことだけが公園ってわけじゃない」
「確かに佐藤さんのような怠惰で遊惰で貧打な人が休む場所でもありますね」
「もしも僕がバッティングの調子が悪かったら迷わず練習するけれど」
「調子が悪いのではなく、下手の間違いでは?」
「努力は報われる」
「報われない努力もある」
名言っぽく言われた。
なぜこうも断言されなければいけないのだろうか。
「無駄な努力ほど滑稽なものはない」
「努力している全国民に謝れ」
「謝りませんよ」ぴゅーんと滑り台から滑ってくる。「なぜなら結果が出ないのはその人が本当の意味で努力していないから。結果の出ない努力なんて――努力たりえません」
厳しい言葉を口にした花蕾だったが、その表情は常の無だ。
彼女の生い立ちやどういうふうに育ってきたのか、どういう経験をし、辛いことや苦しいことを乗り越えてきたのかわからないが、なかなかに心に刺さるものがあった。
結果の伴わない努力なんて努力じゃない。それはその人の努力を否定しているようにも思えるが、しかしその実、その人が努力を怠ったと自らが告白しているようなものだ。
「厳しいな」
「辛党ですから」
「子供に酒はすすめない」
それを言うなら辛口だ。
「あら学習したんですね」
「これでも中の中だ」
「中学中退?」
「義務教育はさすがに卒業した。僕が言いたいのは成績のことだ」
「ふうん。まあ頭はよくないことには変わりないということですね」
反駁しようと思ったけれど、そのとおりだったので口を閉ざさざるを得なかった。
「いきなり略されたらだれだってわかりませんよ」
「文脈を読み取ればわかるだろ」
「下等で劣等で黄桃な人の考えなんてわかるわけないじゃないですか」
「さすがに僕も果物の考えまではわからない」
なにを無謀なことを、と言わんばかりの勢いだった。
そこまで難しいことを強いたつもりはなかったんだけど、会話って難しい。
「中の中の佐藤さん。滑り台やりますか?」
「いらんもん付け足さなくていい」
「では中の中さん」
「そっちじゃない」呆れながら言う。「いや、やらなくていいよ」
「そうですか」目を伏せる。「確かにこれは楽しいか楽しくないかで問われたら後者ですものね」
これまた花蕾の評価は低かった。ことごとくこの公園の遊具が否定されていく。
若干可哀想ではあるものの、僕も同意見だったのでなにも言えなかった。
「いっちばーん!」
快活な少年の声が公園内に轟く。声の主のほうを見やると、小学低学年とかそこらの少年が公園に走ってくる。その後ろには同い年くらいの少年少女が続いてきていた。
どうやら小学校が終わった子たちが遊びに来たらしい。ぞろぞろと入ってきて、遊具で遊んだり、持参したサッカーボールを蹴り始める。
ふたりきりで静寂だった公園は一気に活気づいたかのようにうるさくなる。
公園はそれを望んでいたかのように子供たちに笑みを咲かせていく。
僕と花蕾のふたりきりの時間とは打って変わり、まるで別世界に飛び込んだかのようだ。
「帰るのか?」
僕の横をとおりすぎ、彼らとは正反対のほうから帰ろうとする花蕾に声をかける。
「今日はもう充分遊びましたから」
「ふうん」
その言葉が強がりのそれであることは聞かなくてもわかった。
彼らとは友達でもなんでもないから、ひとりで遊び続けることができなかったのだろう。
だから僕はまったくべつの気になっていたことを口にしていた。
「なあ。どうして花蕾は僕と会話できるんだ?」
「はい?」振り返り、心底呆れたような表情をされる。「逆に聞きますけど、どうして佐藤さんは私と会話できるんですかと聞かれて、どう答えますか?」
それもそうだ。
いや、違うんだけど――と続けようと思ったけれど、彼女は僕の返答を待たずして公園を出て行ってしまった。
まだまだ残暑が続く中、じりじりと太陽に焼かれながらも汗ひとつかかずにひとりの少女は細い道を歩み続けるが、バランスを崩してそこであえなく道から落ちてしまう。
「花蕾って運動神経悪いほう?」
「そうですね。決していいほうではありませんが、運動神経とバランス感覚との因果関係を教えてください」
そんなものは知らない。
今日も今日とて花蕾は公園に来ていた。本日は平均台で遊んでいるようだが、バランス感覚が悪いらしく、三メートルもないくらいの距離も渡りきれないでいた。
「ふん。やっていない人だからなんだって言えるんです」
拗ねたように言い、もう一度挑戦しようと試みるもあえなく失敗する。
「あれ、やられるんですか?」
戻ると僕がいたので驚いたように花蕾は目を見開く。
「言ったろ? コツくらい教えるって」
得意げに言って、そのままスイスイと平均台を渡りきる。
最後に体操選手のように両手を広げて着地し、後ろを振り返って白い歯を見せる。
「っ……」
悔しげに拳を握りしめた花蕾は僕の渡った平均台に乗り、進む。
しかし力を入れすぎたのか、一メートルも行けずに落下してしまう。
「あんまり足元見ないでゴール付近を見据えるのがいいぞ。あと重心は土踏まずの上部あたりにかける気持ちで。それから両手は目いっぱい広げてバランスを整えること」
僕が勝手にアドバイスを言うと、花蕾は僕に背を向けながらも足を止めてくれる。
それから彼女はひとつ息を吸って吐き、僕のいるほうへと顔を上げて目を向ける。
ゆっくりと、慎重に足を伸ばしていく。多少のふらつきは見受けられるが、そのたびに手をばたつかせてなんとか踏みとどまる。順調に距離は伸びていき、もうすぐゴールというところで足が平均台からズレ、地面にお尻から落ちてしまった。
「おい、大丈夫か?」
「これくらい平気です」僕の助けなどいらないとばかりにひとりで立ち上がる。「佐藤さんに教えを請うなど末端までの恥ですが……おかげで一番いいところまで行けました」
ありがとうございました、と花蕾は礼を述べる。
なんだかんだ言いながらも彼女はそういう礼儀などちゃんとしている。
けど、末端までの恥って……。
「花蕾家は下部組織でもあるのか」
「株は育ててませんが、豆苗なら再生栽培させていますよ」
「ああ。スイカの種を撒いてもう一度スイカを育てるみたいな?」
「できるらしいですけど、時間もかかりますし、品種や環境に影響されるので運の要素もかなり強いのでおすすめはしませんし、それとは違います。再生栽培とは一度使用した野菜の根の部分を水に浸したり、プランターに植えてもう一度収穫することです。根っこや芯が残る野菜のみしかできない方法なんですが、お金の節約にもなっていいですよ」
浅はかな知識を披露した僕に花蕾は懇切丁寧に教えてくれる。
へえ、そんなことできるならもう野菜買わなくていいんじゃないか。最高じゃないか。
「あ、もちろん限度はありますよ。新しい芽が出てこなかったり、カビが生えたり、腐ったりなんかもしちゃうので。まあ無限にできるなんてこと考えてはいないでしょうけど」
「そりゃあそうだろう」
「ひとつ賢くなりましたね」
僕は花蕾がエスパーかと思ったよ。
というかなぜに野菜の栽培について説明を受けているんだ?
「なあ、なんで豆苗の話になったんだ?」
「佐藤さんが振ったんでしょう?」
「はあ、いや花蕾だろ。いきなり株とかどうとか」
「先におっしゃったのは佐藤さんですけど」
「僕が言ったのはそっちの株じゃないんだが……。どうも花蕾と話すと脱線するな」
「……しょうがないじゃないですか。会話は苦手なんです」
嘘つけ、僕を小馬鹿にする時、一番生き生きしているじゃないか。
「とにかく、ほれ、もう一度やってみろよ」
「嫌です。私、人に指図される側じゃなく、指図する側なので」
「想像どおりだこと」
サディスティックな女の子だ。全然可愛くない。
だから花蕾は友達がいないんじゃないか――など僕のような人間が言えるはずなかった。
「見ていてください。次こそは成功してみせますから」
高らかに宣言した花蕾はスタート地点に戻る。なんだかとても自信満々な様子である。ゴール直前まで行って調子に乗っているのだろう。これは痛い目を見るフラグなんじゃないだろうかと思って彼女の挑戦する姿を見つめていると、おもむろに彼女は平均台から距離を取り始めた。なんだろう。まさか助走をつけるわけじゃあるまいし――と思ったところで僕の耳に子供たちの明るい声が入ってきた。見れば、またしても小学生たちの集団が公園に入ってきていた。ふむ、最近は家庭内ゲームというものが流行りと聞くけれど、まだまだ公園の存在は大きいらしい。とかなんとか、いま現在の小学生の遊び事情などどうだっていい――いまは、そんなことどうだっていいのだ。
花蕾は僕がいつも座っている薄汚れた青いベンチに座っていた。
「そこは僕の特等席なんだけどな」
「禿頭席ですか?」
「僕の頭をよく見ろ」
「髪の毛が乗っています」
「生えているの間違いだ」
ふーん、とか、へーん、とか言われる。おいおい、僕って髪の毛生えていなかったのか?
少し不安になった。
「平均台、渡りきるんじゃなかったのか?」
「休憩です」
「いまだれも使っていないじゃないか。べつにやっていいだろう」
「ですから小休止です」
「あんなに意気込んでいたのに?」
「私としたことが、自分の体力のなさを侮っていました」
梃子でも動かないらしい。仕方ないので僕も彼女の隣に座った。
すると気のせいか、一瞬だけ彼女の頬が緩んだようにも見えた。
「花蕾、お前は人のことなんか気にならないタイプかと思っていた」
「私だって常識はわきまえてます」
「常識って……。自分を犠牲にすることは違うと思うけれど」
「するべき人に譲るのは当然でしょう」
さも当たり前のことだと言わんばかりに淡々と告げる。
「然るべき人が然るべき時に過ごし、遊び、生きる――そういうものだと私は考えます」
回りくどい言い方をするが、要するに、ひとりで遊具を占拠するのなら大勢の人に遊んでもらったほうがいい、とそう考えているのだろう。それは彼らを思ってのことか、遊具のことを思ってかはわからないが、自己を犠牲にしていることに変わりはない。
礼儀はわきまえている花蕾だ、だれかを慮ることもできよう。
「よっと、ほっほっほっ」
掛け声とともに僕は再び平均台を楽々とクリアする。
「然るべきなんちゃらどうちゃらの意味は大体わかった。なら僕らは遊ぶべきだ」
だってそうだろう、と僕はきょろきょろと周囲を見渡す。
「だれかに遊んでもらったほうが遊具だって嬉しいはずだ」
花蕾の言に従うようにして僕は反論してみせる。
しかし彼女はしてやられたとか、一本取られたとかそういう表情はせず、少しだけ切なさを帯びた瞳をこちらに向け、すぐに下を向いた。
言い負けたのが悔しいのか、それとも違う理由なのか。
すぐに顔を上げた彼女の表情はいつもの感情の読めないもので。
「休憩終わりです」
言って、花蕾は僕の横をとおって平均台に乗る。
「見ていてください。体力の回復した私は見事、渡りきってみせましょう」
自信に満ち溢れた声とともに平均台を渡る。
見事一発で渡りきった彼女の表情は、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
「またお会いしましたね。佐藤さんはお暇なんですか?」
「社会人だからな。……花蕾もいつもいるな」
「小学生なので」
会話が成立しているのだかしていないのだかわからないやり取りだった。
本日の遊具はシーソーのようで、花蕾はどんなものか腕を組んで考えている。
「これはふたりでやるやつだな」
「そのようですね。不本意ながら、佐藤さん。手伝っていただけませんか?」
珍しく花蕾からお願いされ、僕は二つ返事で了承した。
「あの……これ、ずっと上がりっぱなしなんですけど」
しかし結果として僕の体重と小学生である花蕾の体重とではかなりの差があり、まったく上下に動いてくれず、僕は下、彼女は上にとどまってしまっている。しかも彼女は支点よりに座っているのだが、これもまったくの無意味。ふむ、やめよう。
「これはちょっとあれだな。体形が同じような人とやらないとだな」
「ですね。これはこれで上から見下しているみたいで楽しいですけど、本来の遊び方ではありませんからね」
僕は知らず、見下されていたのか。
即刻やめてもらいたかったのでシーソーから降りる。
「これは諦めましょう」
名残惜しそうに呟き、花蕾もシーソーから降りる。
「花蕾はいつもひとりだな」
「そっくりそのままお返しします」
「僕はいいんだよ、社会人だから」
「私もいいんです、小学生だから」
身分を提示するふたり。第三者からしたら理由になっていないと思われるだろう。
「てか、夏休み……宿題とか終わったのか?」
「愚問ですね。私にとって自己学習などおちゃのこせんさいです」
「ふーん、デリケートなんだな。意外」
僕の返答に対し、花蕾は心外そうに顔をそむけた。
「花蕾はひとりでいて、寂しくないのか?」
「さも私に友達がいない前提でお話ししていますね」
「いるのか」
「いませんが」
自分で切り出しておきながらどう返していいかわからず押し黙ってしまう。
「できそうだったんですけどね」
やけに変な言い方をするので気になり、「失敗したのか?」と続きを促した。
「そうですね……あれは失敗ですね。そう、失敗したんです」
「花蕾のことだ。なんか変なこと言って機嫌を損ねたか」
「佐藤さんが私のことを毒舌キャラとして確立させていることは甚だ遺憾ですが、この際いいでしょう。機嫌を損ねたわけではありません。私はすっぽかしたんです」
「なにを?」
「約束を」
なんてことないふうに言い、花蕾はくるりと身体を翻す。
はらりとスカートが舞い、彼女が遠くにいるように感じた。
「デリカシーがないとは思っていましたが、佐藤さんみたいな平気で人のプライバシーを侵害してくる、無神経で無思慮で無邪気な人はそうそういません」
「最後のはとらえ方によってはポジティブな感じがするな」
「ネイティブです」
「上手だこと」
根っからの無邪気ってこと?
まあどうせネガティブって言いたかったんだろうけれど。
「じゃあなにか。その子とはもう仲違いして、ひとりになったと」
「…………だったらなんです?」
「いいや。ひとりなんだなってこと」
繰り返すと花蕾はわけがわからないというふうにこちらを訝しむように見つめる。
「偶然ながら、僕もひとりなんだ」
ずっとだれも見つけてくれない、と言葉を落とす。
花蕾は僕の表情を見て、どういう感情が芽生えたのか、唇をかみしめた。
「もう少しの間だけでいい。僕とこうして話してくれないか?」
どうして僕が彼女を求め、縋ったのか。
わからない――わからないけれど、ひとつだけ確かなことがある。
「仕方ないですね。付き合ってあげます」
心底呆れたものを見るような瞳で言い、
「あ、もちろんこのお付き合いは、男女交際ではないですからね」
確認するように付け足した。
「ひとつ賢くなりましたね」
なにも勘違いなどしていないが――まあ、うん。
花蕾芽衣との会話は結構、楽しいのだ。
夏休みの間だけ。花蕾が休みの間だけでいい。彼女と話をしていたかった。
ここまで聞けばなんだか僕が彼女に恋をしているようにも思えなくもないが、しかし、僕はまったく彼女のことをそういう目で見ていない。小学生女子相手にそういう趣味嗜好を持っている特殊な人間でもないし、そもそも彼女はかなり僕のことを舐めているのだ。会った当初からそうだったのだけれど、彼女は僕のことを年上だとか男性だとかそういうことを一切意識していないらしく、まるで同級生のように――否、格下のような存在であるかのように見ている節がある。たとえば「Yシャツではなく、ワイシャツです。もともとホワイトシャツという英語だったのですが、日本人には聞き取りづらく、ワイシャツという呼び方になったんです。Tシャツみたいに頑張ればY字に見えなくもないですが、この場合は違います。だから佐藤さん、Yシャツではなくワイシャツなんです。ひとつ賢くなりましたね」と長々説明を受け、いつもの決まり文句が付け加えられたのは何度あったことか。小学生のくせにそういううんちくはよく知っており、何度地団太を踏んだか覚えてすらいない。そういうこともあり、僕は彼女のことを口が減らない悪ガキとして相手している。いや悪ガキというか、頭のよすぎる失礼な小学生といったほうがいいだろう。
まさに慇懃無礼。
「言いたいことがあるのならどうぞ」
「そろそろひとりで漕げるようになってくれないかな」
背中を押すこと数回。ブランコに乗る花蕾はいい感じに上へ上へと動くものの、僕が手伝うのをやめると途端にスピードが落ち、気づけば止まっているというのが繰り返されている。手動でしか動かないらしい。
「まったくこれだから佐藤さんは。私はあなたに役目を与えているんです」
「言い訳だけはうまいよな」
「口達者と言って欲しいですね」
「決して褒めてはないからな」
仕方ないのでもう一度手助けしてから僕は隣のブランコに乗る。
ゆっくりと揺れていると、隣もまた同じようにして静かに揺れていた。
「そういえばですけど」
そういえばの敬語ってそうだっけと疑問に思うも知らなかったので「なんだ」と特に言及せずに応えた。
「佐藤さんはあまり頭がよろしくないみたいなのですが、そのことについてご自身ではどう思ってらっしゃるのですか?」
「…………」
人が真面目に聞いてあげていたというのに、直球で小馬鹿にしてきた。
いつもなら横道に逸れてうまいことグサッとくる言葉を浴びせられるのだが、今日いきなりの話題転換だった。
「べつになんとも思ってないよ」
「なんとも、ですか」
「ああ。そこまで苦労していないからな。この頭でも充分やっていけている」
極端に頭が悪いわけでも、異常なほど頭がいいわけでもない。
それなりのことがわかり、それなりのことができるくらいの至って平凡な人間。
特に上を目指すわけでも、なにか特殊な仕事についているわけでもない。
なに不自由なく二十年以上生きてこれた――現状にも満足している。
「ひとつだけ勉強してこなかったことで後悔していることがあるとすれば」ちらりと花蕾のほうに目を向ける。「一回り以上も下の子に馬鹿にされずに済んだってことだな」
「人のことを馬鹿にする子供の話になど耳を傾ける必要ありませんよ」
しれっとそんなことを言う。
無視したら無視したでやいのやいのとうるさい子供はどこのどいつだ。
「なるほど、そうですか」
「なにかわかったのか?」
「ええ。まあ……、勉強を疎かにした人間の末路というものを見ることができたので」
「そりゃまたいい勉強になったことで」
まるで反面教師だ。
「勉強はしないほうがいいんでしょうか?」
「はあ? なにを言っているんだか。したほうがいいに決まっているだろう」
皮肉を言われた気分になった僕は反論していた。
「頭がよければそれだけ選択肢も広がるし、だれかに馬鹿にもされないし、後々絶対ためになるだろう。知らないより知っているほうが断然いい。けどな」
僕は言う。
目の前の子供に対して、年齢を食った年相応の大人のそれで。
「勉強を逃げ道みたいに使うのはなにか違うと僕は思う」
言い終えた僕は満足し、自慢するようにブランコを漕ぎ始める。
どれくらい経ったか、花蕾もまた拙いながらも同じようにしてブランコを再開する。
でもそれは下手な子供のそれであり、僕の頬は自然と緩んでいた。
「今日のところはこの辺で終わりにしていいでしょう」
そう言って、花蕾はブランコから降り、あの薄汚れた青いベンチに座った。
だからそこは僕の特等席であり、指定席でもあると何回も言っているだろうに。
「師弟席ですので、お隣どうぞ」
「ちなみに聞くけれど、どっちが師匠でどっちが弟子?」
「私が上で、佐藤さんが下です」
やれやれと肩を竦められる。そういうふうに聞いたんじゃないんだけれど。
定番のやり取りをしてから僕も隣に腰を掛ける。
ちらほらと子供たちの姿も見受けられ、はしゃぐ声に耳を傾ける。
「あの子、佐藤さんが乗っていたブランコを見て固まっていますよ? やはり佐藤さんのような人間が乗っていたものには乗りたくないと思っているのでしょうか。かわいそうに」
「そのかわいそうはだれに対して言っているのか聞くまでもないけれど、まあ大丈夫だ」
しばらくその子供の様子をふたりして見ていると、その男の子は不思議そうに見つめていたのが嘘のようにブランコに乗って、遊び始めた。
「僕は彼らには見えない」
「はい?」
「まだ言ってなかったな。いろいろと長くなるから理由は割愛させてもらうけれど、僕は普通の人には認識されないんだ。いまもここにはいるんだけど、いない……ようになっている。たぶん彼は僕が乗っていたということを頭の中で整理して、いなくなったのを確認していたんだろう。ここのところは僕もよくわかっていないからなんとも言えないけど」
「まったく意味がわかりません」
「意味はわからなくていい。ただ僕の姿は彼らには見えないってだけわかっていればいい」
まだ意味がわかりかねぬといった顔をしていたので僕は大声で「おーい」と叫ぶ。
しかし隣にいた花蕾がびくっと身体を震えさせただけでだれも見向きもしない。
「いきなりなんですか」
「ほら、だれもこっちを見ていない」
言われて花蕾は確認するように辺りを見回した。
にわかには信じられないことだろうが、現実として突きつけられれば信じざるを得ない。
「とはいえ、どういうわけか花蕾にだけは見えるみたいだけど」
同じ境遇だからなのか、似た者同士だからだろうか。
どちらも言葉にすれば怒られそうだったので心の中にとどめておいた。
「そういえば先日起こった密室殺人事件なんですが」
「僕ではない」
決して、絶対に、神に誓って。
事件のことなど全然知らなかったし、僕ではないのは確実。これほどまでに犯人を見つけて欲しいと思ったことはない。名探偵さん、お願いします。
「そうですか」
どこかまだ疑っているような瞳だった。
いや、犯人かどうかではなく僕の言っていることが本当かどうかだろう。そうに違いない……というかそうであって欲しい。
「どうしてまた」
当然の疑問を投げかけられ、僕はふむと顎を触った。
「こういう人間だからだろうな」
冗談とも本気とも取れる僕の言葉に、
「なるほど」
と花蕾は納得した。
……いや、これは簡単に納得するんだな。なんかこうもうちょっとなかったかな。僕って彼女にどんなふうに映っているんだろうか。ものすごく気になり始めた。
「まあその……人には人の情事がありますから」
「あるだろうけれど、この場合は違うし、子供の花蕾が使う言葉ではない」
正しくは事情。
「漢字一文字、言葉ひとつで意味がまったく変わってくる……日本語は面白いですね」
「面白いというか一歩間違えれば危ないと思うんだけど」
「それもまた一興であり、吃驚であり、説教ですね」
「その段階でいけば、次は花蕾に説教をしなきゃいけないな」
「佐藤さんが私を?」
「…………」
まあ今日のところは許してやろう。
閑話休題。
「とにかくそういうことだから。気持ち悪かったらもう僕に近づかなくていい」
「見知らぬ成人男性が見知らぬ女子小学生に声を掛けた時点で気持ち悪いを通り越して一種の犯罪にも思えるのですが」
確かに。
「なのでまあ大丈夫です。これくらいの気持ち悪さ」
「気持ち悪いのは気持ち悪いんだな」
相変わらず平坦な口調の花蕾はブンブンと足を動かす。
なにやら楽しげに思えるが、気のせいだろうか。
「気持ち悪いと言えば、佐藤さん」
その言葉で思い出す話題なんてろくなもんじゃない。
「私、ちょっと……あげそうです」
「はあ、あげる? なにかくれるのか?」
「違います。……えーっと、戻しそうなんです」
「戻す? なにを? 僕たちの関係を?」
まったく脈絡のないことを言われ、僕は首を捻りながら聞き返す。しかしどれも花蕾の言いたいことではないらしく「これだから脳を使わない人は……」と頭が痛そうにしていた。なんだというのだろうか。
「ですから……目が回って、嘔吐を……」
「王都は日本にはないんじゃ」
「吐きそうなんです! ブランコに乗って! 目が回ったんです!」
悲痛の叫びでようやく花蕾の言いたいことを理解した。
ああ、だから気持ち悪いって――ってそんなのんきに解析している場合じゃない。
急ぎながらも花蕾の身体をいたわりながら水飲み場に向かった。
うう、なんてうめく花蕾の姿を見て、やっぱり子供なんだなあと再認識した。
今日、不思議なことが起きた。いや、些細なことと言えばそうだろうし、なんなら普通の人にとってはなんてことのないことだ。でも僕にとってはとても衝撃的だったし、その場に固まって動かなくなったのも事実だった。ここまで引っ張る必要すらないような出来事だ――ただ、自動ドアが僕に反応して開いた、ということ。正直な話、それが僕に反応したのか、僕の後ろにいた店員さんに反応したのかはいまいちわからないのだが、確かに僕が近づいたら開いたように見えたのだ。そんなわけないとその場を去ったのだけれど、思い返してみるとやはりおかしい。……ああ、べつにおかしくはないのだけれど。
「今日は一段と顔が変ですけど、なにかありました?」
ジャングルジムのてっぺんまで登り切った花蕾はジャングルジムの鉄パイプに手をつけたまま固まる僕を見下ろしながら言った。
「いつも変なのか?」
「はい。へんてこです」
傷つくことを平気で言われる。僕の顔は至って平凡なものだったように思うのだけど。
「もしかして女子小学生に振られました?」
「花蕾の中で僕という人間がどういうふうに見えているのかよーくわかったよ」
身体を伸ばし、空を仰ぐ。
いつもなら太陽が僕の身体を焼くようにして照りつけているのだが今日は雲が遮っていた。夏だからと言って雨が降らないとも限らない。予報はどうだっただろうか。
「午後から雨っぽいな」
「ふむ、確かに昨日から天気がぐずついているように思えますね」
「天気予報士みたいな言い方をするな。普通に天気が悪いと言えばいいものを」
「一般の人にとっては雨が降るのを悪い天気と思うのかもしれませんが農家や天気が影響する仕事をしている人にとっては恵みの雨ととらえる人もいるんです。ですから私はあえてこのような表現をしたんです。ひとつ賢くなりましたね」
得意げに言われる。
初耳だったけれど、それは全国ネットでの話であって僕らにとっては雨はあまり歓迎しないので悪い天気とそのまま言ってもいいんじゃないだろうか。
「それはなんです?」
「え、これ? スマホだけど」
僕が天気を確認した際に使用した携帯機器を見せると関心するように見つめてくる。
「見たことくらいあるだろ?」
「なんですか。私だって知らないことくらいあります」
「へえ。珍しい」
割とスマホはもう日本では携帯電話として浸透していると思うけれど、まあ花蕾はいいところの娘っぽいしそういうのは一切だめとかで見たことすらないのかもしれない。
「やけに静かですね」
「公園だけが遊ぶ場所じゃないだろうからな」
放課後という時間帯になっても公園には僕ら以外だれも来ていなかった。雨予報だし、今日は外でというよりも中でゲームやらなんやらで遊ぶのだろう。
「だれにでも飽きはくるだろうし」
「そりゃあ秋はくるでしょう」
「花蕾は飽きないよな」
「残念ながら商いの経験はないです」
頭いいくせに会話が成立しないよなあ。
真面目に勘違いしているのか、わざと間違えているのか。
ぽつり、と僕の頬になにかが落ちた。拭うとそれが雫であることがわかる。
「降ってきましたね」
「仕方ない。今日のところはこれまでだな」
「逃げるんですか?」
「なにからだよ」
戯言を聞いていられなかったので僕はすぐにジャングルジムから離れる。
しかし花蕾はすぐには下りず、渋るようにして鉄パイプをつかみ続ける。
「風邪引くぞ」
「……今日は無理そうですね」
観念したのか、花蕾はゆっくりと下りてくる。
そのまま僕らは今日のところは解散した。残念そうだったけれどこればかりは致し方ないことだろう。なんだか僕がいなかったらずっといそうな雰囲気だったな――と僕の思っていたことは当たってしまった。
翌日の公園。
僕はいつもどおり会社帰りに公園に寄ると、そこには花蕾がいた。
雨が降っているというのに、あの薄汚れた青いベンチに座っていた。
「なにをしているんだ?」
「ああ、佐藤さんですか。遅かったですね」
傘を花蕾の頭上にさしてやり、僕も隣に腰を下ろした。
「濡れるぞ」
「そうですね」
「傘は?」
「持ち合わせていません」
「いまはまだ小雨だからいいけれど、本降りになったら大変だ」説教をするように僕は強く言う。「帰れよ。本当に風邪を引く」
「風邪を引くだけで許されるのなら引きたいですよ」
またわけのわからないことを口走る。
「花蕾は一体、この公園になんの思い入れがあるんだ?」
「そんなものありません」
「じゃあなんで」
「帰ります」
答えず、追及を受けるのも御免だというふうに踵を返す。
「おい、傘持って行けよ。濡れて風邪を引く」
「いえ、大丈夫です」
断られ、僕は花蕾の背中を見つめながら、彼女のそれがどこか遠くに行ってしまいそうなほど儚く感じられた。
次の日も次の日も雨だった。それに休日だったということもあって僕は出かけることすらせず、有り合わせの食材で食事をし、適当に過ごした。公園には行っていないけれど、かなりのどしゃ降りだったのでさすがの花蕾でも馬鹿な真似はしていないだろう。
週明けの月曜日は嘘のように快晴だった。
電車に揺られて改札をとおり、出社すると僕のデスクに知らない案件の資料があった。
なんだろう、と思いながらメールをチェック。なんだか知らないが、会議の資料を作成するようにとのことで僕に仕事が来ていた。僕に……珍しいな。まあだれでもいいとかで巡り巡って僕のところに来たのだろう。こういうことはいままでになかったわけじゃない。別段おかしな現象でもないし、仕事が増えたといってもほんの少しだけ。
「資料作成終わりました。チェックお願いします」
言葉だけそう言い、僕は上司たる人物に声を掛ける。これでいい、これでだれかがやってくれたと彼の中で勝手に解釈してくれる――そう思っていたのに。
「おお、頼んで悪かったな」
「――――」
返ってきた。
確かに彼は僕に対して言葉をくれた。
いやなにも僕のほうを見て言ったわけじゃない。自分の仕事をしながら手だけを上げてそれだけ言った。ともすればそれは頼んだ相手に対して言ったのであって僕という人間に対して言ったわけではないとも取れる。
なにかが変わったその日、僕は少しだけ遅れて公園に向かった。
花蕾芽衣は変わらずいた。
待っていたのか、彼女はベンチから立ち上がって僕を迎え入れる。
「来ましたね。今日はうんていリベンジをしようと思っていたんですよ」
やることは決まっているようで、花蕾はうんていを始めた。初めてやった時のような危なっかしいものではなく、ちゃんとひとつひとつ棒をつかんで前進する。
しかし力がないのか、半分くらいの地点で「あう」と力をなくしたように落ちた。
「やはりこれは手強い――ん、佐藤さん。どうかしました?」
「ん? ああ、いや」言いながら僕は首を振る。「なあ僕ってなにか変わった?」
「またその手の話ですか。そんなこと言われても……」
じっと僕の瞳を凝視する花蕾。
「顔はいつもどおりな残念具合ですね」
「花蕾に聞いた僕が馬鹿だった」
「ただ」後悔したあとすぐに花蕾は続けた。「気持ち悪さ加減は……減ったかと」
「気持ち悪さ加減」
「失敬。不審人物感は薄まったかと」
言葉を変えたようだけれど、大した変化は見えない。
「代わりに」花蕾は花が咲いている場所を指さす。「花にはたくさんの色がありますよね。なんだか佐藤さんも同じようにたくさんの色がついたように思えます」
色。彩。カラフル。華やか。綺麗。
とかいろいろ頭に浮かんできた。初めて僕のことを褒めてくれたのだろうか。
落としてから拾い上げるのがうまいことうまいこと。
「花、か。なんだか、うん。……悪くはないな」
「シュウカイドウですけど」
「どういう意味かは知らないけれど、花蕾も素直なところがあるんだな」
シュウカイドウ。
花の名前で花言葉が「自然を愛する」「恋の悩み」「片思い」「未熟」とあった。
さて花蕾は僕に対してどの言葉を当てはめて言ったのだろうか。
花蕾芽衣と出会って二週間が経った。
彼女と僕の関係は相変わらずだ。僕が浅はかな知識を披露すると深い知識を持つ彼女がそれに対して講釈を垂れ、毎度僕を嘲笑するように「ひとつ賢くなりましたね」と言う、ひとつの流れというか一種の漫才のようにも思えてくるようなやり取りを続けていた。一度漫才番組にでも応募してみるかと冗談で提案したら「私たちの高尚な会話についてこれますかね」と割とノリノリで答えていたのを見るに、意外と楽しんでいるのがわかった。
僕自身の話は取り立ててない。ほんの少しだけ仕事が回ってくるようになったということと、コンビニで接客のようなことを受けたことくらい。ようなことと曖昧に濁したのは、それが僕に対して行っている接客であるかどうかわからなかったからだ。なんとなく客がいるからやっている――ともすれば怠慢な接客態度とも言えるようなことながらも、会計はしてくれるようになった。進歩と言えば進歩なのだろうけれど、さして気分のいいものではないのも確かであった。
「ずいぶんと遊具で遊べるようになってきたな」
逆上がりを見事に決めてみせた花蕾を見て、僕は率直な感想を口にした。
遊び方や乗り方、技などまったく知らなかった会った頃に比べて成長していた。
やはり学び、という意味ではかなりの吸収力があるらしい。ひとつ教えればすぐにでき、さらに応用までできちゃうのだから驚きだ。こういう子は授業を聞けばテストなんて楽勝とかいうタイプの人間であることは間違いない。
「佐藤さんに褒められたところで痛くもかゆくもないですね」
「恥ずかしがってくれたら少しくらい可愛げがあったものの」
という僕の期待を声に出して伝えたというのに、感情の起伏はまるでない。
「羞恥心は捨ててきましたから」
格好いいセリフに聞こえなくもないが、捨てて欲しくはなかった。
「なあ、楽しいか?」
「なにがですか?」
「鉄棒」
「見てわからないですか?」
「……楽しくはなさそう」
「当たりです」
ぱちぱちと拍手をされる。まんまだった。てか、楽しくなかったんだ。
「楽しくないのになんでやっているんだ?」
「楽しくない、わけではありません」
「はあ?」
矛盾した発言だったので思わず眉を吊り上げてそう声を逆立てていた。
またぞろ僕を小馬鹿にするような続きが聞けるのかと思ったがそうではないらしい。
「私は結構……楽しい、ですよ?」
「じゃあなにが楽しくないんだ?」
「佐藤さんは傾聴力がないんですか? それともただ単に会話ができないんですか?」
平時のやり取りに戻り、花蕾は鉄棒を再開させた。
ぐるんぐるんと回る――そのたびにスカートの中が見えそうになるのだけれど、彼女は果たして気が付いているのだろうか。もしも他の小学生たちが来たら(特に男子)それとなく鉄棒から遠ざけてあげよう。独占欲ではなく、親切心だ。
「佐藤さんは」鉄棒に足をかけ、手をクロスさせて身体をまるめながら、器用に首だけをこちらに向ける。「遊具で遊んでいませんけれど、楽しんでいますか?」
「それなりに」
「ふうん。ポーカーフェイクというやつですか」
「間違っているのに、すごくそれっぽく聞こえるのは気のせいだろうか」
ポーカーフェイスのポーカーってどういう意味なんだろう、なんて益体のないことを考えていると花蕾は見事に身体を翻して綺麗に地面に着地した。
「――なんで遊んでいるんだ?」
「なんですか藪から棒に」
「いや、前にも聞いたけれど答えは聞けなかったからな。……楽しくないんだろ? しかもこの前なんか雨の日だったのに遊びに来ていたし、なにかあるのか?」
「遊具で遊ぶだけが公園ってわけじゃないとだれかさんが言っていましたね」
煙に巻くように以前に僕が言った言葉を真似る花蕾。
「なるほど。つまり花蕾は遊具で遊ぶつもりじゃないと」
「揚げ足を取りますね」
「読解力があると言ってくれるか」
子供に対して大人げなく僕は言う。
「もしかして花蕾が公園にいる理由……あの、仲違いしたって子が関係しているんじゃないのか?」
「…………」
黙秘権を行使しているらしく、饒舌な彼女にしては珍しく黙ってしまう。
「約束を破ってしまったって言っていたけれど、そんなもの謝ればいいだろう。子供なんてものは喧嘩してなんぼだ。すぐに仲直りできる。それか夏休みが終わればけろっと忘れたーってなるかもしれない」
「謝って済むような簡単な問題だったら――私だって苦労していません!」
痛哭にも似た声を張り上げる。
いつもの冗談じゃない――単純な怒声が僕の鼓膜を叩いた。
「最近、やたらと元気ですし、公園にいる時間も短くなっていますけど、なんですか。友達でもできたんですか? それで自分のほうが上だとでも思って説教ですか?」
「はあ、そんなんじゃない。僕はただ花蕾のことを――」
「私のことを、なんですか? 私たちなんて会って間もない赤の他人ですよ。なにを偽善者ぶって……。よく知りもしないくせに、知ったふうに――自分と境遇が似ていたからってすべてが同じだと思っているんですか。言っておきますけど、私とあなたとでは違うんです。住む世界も、生きる世界も――なにもかもが違うんです。もう関わらないでください、私に話しかけないでください、私を――見つけないでください」
捲し立てるように言い募り、花蕾は猛然と走り去ってしまった。
追いかけようと思えば、簡単に追いつけただろう。
なんたって彼女は運動神経が悪いのだ、僕のような平凡な人間でも楽勝だ。
けれど、どうしてだろう。
その背中はとても遠く、薄く、消え入りそうなほど小さかった。
だから、彼女に追いついたとしても触れることなんてできない、と思ってしまった。
若干ではあるが、人に認識されるようになって僕は調子に乗っていたのだろうか。
いいや、決してそんなわけがなかった。
だって友達と呼べる人物はおろか、いまだに名前を呼ばれもしないのだ。ほとんど依然と変わっていないし、そもそも人に認識されて嬉しいとも思ってはいない。
もしかしたら僕は自分では気づかないだけで自然と浮き足立っていたのが、表情や言動に出て、彼女に気づかれたのかもしれなかったが、そうであったとしても、あそこまで言われるとは思っていなかったし、あそこまで言われる筋合いもない。
「いや」
あの話題。花蕾が仲違いしたという子のことだ。あの話をしたあとすぐに花蕾は気分を害したふうに思えた。だとすれば僕はなんてひどいことをしたのだろう。
公園にいる目的を述べなかったのは――仲違いした子のことを言いたくなかったから。
触れられて欲しくなかったのだ。
自分から話してくれたから特に問題ないと思っていたけれど、よく考えればわかったことである。言葉を濁さざるを得ないくらいに、嫌な思い出だったのかもしれない。
謝ろう。
そう決意するのに一週間を要したのは、僕という人間が弱いからに他ならない。
「いないな」
午後二時半。
仕事を終えて公園に来たのだが、花蕾の姿は見当たらなかった。
おかしい。いつもなら毒舌とともに登場するのに。
トイレか、はたまたまだ来ていないだけなのか。
望みは薄いものの、僕は僕の場所たる薄汚れた青いベンチに座って待つことにした。
しかし、一時間が過ぎ、二時間が過ぎても来なかった。周りは賑やかなのに、僕の隣でうるさくも楽しく会話をしてくれる小学生はいなかった。
翌日も、翌々日もいなかった。
ここでようやく僕は花蕾は夏休みが終わったのではないかと結論を出した。
ただそれでも、放課後になれば来てくれてもいいだろうに。
「お客さん?」
声が頭上から降ってきた。
「お客さーん?」
はっとなり、顔を上げると大学生らしきコンビニのアルバイト店員が困り顔でいた。
「これ、商品です」
「え、ああ。ありがとうございます」
「てか、大丈夫すか? ぼーっとしていましたけど」
「だ、大丈夫です」
答え、僕は逃げるようにしてコンビニを出た。
そのまま僕は走った。途中、歩行者にぶつかってしまい、謝りながら走った。
「――なんで」
なんで見える。
なんで話しかけられる。
なんで認識されている。
わけがわからない。
急なことではない。徐々に徐々に、それは気づいていたことだった。
でもそんな些細な変化、変化としてそこまで深く考えていなかった。
「――うっ」
怖くなり、僕は求めるようにして公園に来ていた。
「花蕾!」
見知った後姿を確認し、声を張り上げて両肩に触れると見知らぬ女の子が振り返った。
「あ、ご、ごめん。人違いだった」
「? うん……、お兄さん大丈夫?」
心配するようにしてその女の子が僕を見つめてくる。とにかく僕はなにか応えてなんでもないことを伝えないといけないと思い、「大丈夫だよ、悪いな」と言う。
「そう。なんだかここのところずっとベンチに座って暗かったから」
「え?」
言われて、思い出す。花蕾と会えなくなり、彼女を待つようになってからずっとベンチに座っていた。その時の僕たるや、どういう感じだったか想像するのも容易だろう。
「な、なあ。きみはいつもここで遊んでいたか?」
「え、うん。大体学校終わったら遊んでいるけど」
「ならさ、一週間以上前……ほとんど毎日ひとりでいた子、知らないか?」
「ひとりでいた子?」
「そう。女の子。たぶんきみと同い年くらいで同じくらいの背丈。髪の毛は長くて、表情はそんなに豊かじゃないけど、可愛らしい子で、胸のところに名札がついていて、名前は花蕾芽衣って言うんだけど」
身振り手振りで説明するも、女の子はぴんと来ていないらしく、首を傾げられる。
「どうしたの?」話していると友達なのか、女の子や男の子たちが寄ってくる。彼女はその友達に僕が花蕾を探していることを伝えてくれた。しかし、その子たちも心当たりはないらしく、難しい顔をしていた。僕は彼女たちにお礼を言ってからその場を離れる。
彼女たちを諦め、僕は違う子たちに聞いて回った。
しかし結果として、だれも知らなかった。
どうしてだろう。いくら目立たない場所でひとり、遊んでいたからってだれにも記憶されないなんてことあり得るのだろうか。
と、そこで僕はあることにようやく気づく。
「小田切川小学校……きみたち、小田切川小学校の三年生なのか?」
遊んでいた子の中に花蕾と同じく名札をつけた子を発見した。しかも同学年だ。
「そうだけど?」
「同じ学年に花蕾芽衣って子、覚えていないか?」
「花蕾芽衣?」
やはり同様な反応が返ってきた。友達はいないらしい、花蕾であるが、さすがに同学年の子のことくらいわかるだろう――って、おいおい。
「きみは三年二組じゃないか。同じクラスにいるだろう」
「え、いやいないけど」
「う、嘘だろ? 花蕾芽衣、いないのか? だってあいつも同じ――あれ、そういえばきみたちって夏休みいつまであった?」
「夏休み? 八月の終わりまでだけど?」
急な質問に疑問符を浮かべるも答えてくれる。
おかしい。だって花蕾は九月に入っても午後にひとりで公園に来ていた。
「ありがとう」
またわけがわからなくなった。
花蕾が学校をサボっていたわけがないだろう。そういうことはきっちりしている子である。それくらい、浅い付き合いであってもわかる。でもなんでいたんだ?
疑問が疑問を連れてくる――仕方ない、ならば確認する他ない。
そう決意した僕は、深夜、小田切川小学校に潜入した。以前までの僕ならば威風堂々となんの障害もなく昼間から行けただろうが、いまの僕はそうはいかず、こうして抜き足差し足忍び足で犯罪行為とも取れる行動を取り、花蕾のことを調べた。
「いない……? いや、そんなはずは……」
探す。探す。探す。在校生だけではなく、卒業生などを片っ端から探した。
職員室は資料の山となってしまっているが、いまはどうでもいい。とにかく花蕾のなにか手がかりはないかと探した。だってあれは紛れもなく、ここの生徒の証のものだったから。そもそも僕は花蕾とずっと一緒に――
「は……?」
物故者、花蕾芽衣。
ありったけの資料を隅から隅まで目を通していると、そこに彼女の名前があった。
見つけてしまった。
「なんだよ、それ」
花蕾芽衣という少女は、二十年近く前に亡くなっていた。
事実を受け入れることは案外すんなりといけた。
思い返せば、おかしな点はいくつかあった。
僕がまだだれにも認識されていなかった時、僕とあんなにも会話をしていた花蕾がどうして他の子たちから奇異な目で見られていなかったのか。スマホという現代人ならばだれもが知っているものを知らなかった。いつも同じ服を着ていた。雨に濡れていなかった。夏休みでもないのに昼間公園にいてだれにもなにも言われなかった。
などなど、考えてみれば普通ではなかった。
だから花蕾がこの世界にすでにいなかったのも頷ける。
「だからあの時、あいつはあんなことを」
然るべき人が然るべき時に過ごし、遊び、生きる――そういうものだと私は考えます。
あの言葉は、自分はもうこの世界に生きていてはいけないということを言っていたのではないだろうか。花蕾はだれよりもそういうことに厳しかった。
「そういうことに厳しい……?」
どうして僕だけは花蕾のことを見えていて、話せていたのだろうか。
逆にどうして見えなくなり、話せなくなってしまったのだろうか。
「僕は変わった……」
変わってしまった――そのことを花蕾は気づいていた。
だとしたら、彼女は。あのなんだかんだで他人想いの彼女がするべき行動は。
あの時の、あの言葉は。
僕のために、あったのだとしたら。
私を――見つけないでください。
「花蕾」
僕は深夜に家を飛び出して、彼女がいるであろう公園に向かった。
乏しい街灯が影を作る。
まったく影は薄くないし、それどころか、宵闇よりも濃いように思える。
影はない、のかどうかはわからないが、彼女はいた。
光の当たらない薄汚れた青いベンチに座る彼女の姿は、暗くてよく見えない。
「花蕾、久しぶり」
「――っ」
びくりとその矮躯が震える。
そこまで驚かれるほど静かに近づいたつもりはなかったんだけれどな。
「どうして」
「満月の夜は普段より目が冴える。ひとりの女子小学生の姿が見えるくらいにな」
ひとつ賢くなっただろ、と僕は嘯く。
逆の立場になったためか、花蕾は調子を崩されたように押し黙る。
「花蕾はあれだな。こんな時間に出歩くとか非行少女ってやつだな」
「…………」
非行を飛行とか肥厚とかにかけて面白い返しをしてくるかと思ったけれど、そんな余裕はいまの花蕾にはないらしい。口を開かない。
「どうして見つけられたのかって?」
疑問を汲むように僕は言う。
「そりゃあ花蕾、こんな堂々と座ってりゃあ、だれだって見つけられるさ」
「そういう意味じゃ――」
「正直、僕はいま花蕾の姿はぼんやりしていて見えにくいし、声だって耳を澄まさなければしっかりと聞き取ることができない。でも、ちゃんとそこにいるのはわかっている」
どうして花蕾は忽然と姿を消したのか。
それは前提から違っていて、そもそも花蕾は公園からいなくなどなっていなかった。
おそらくずっといた。僕が花蕾を探している最中もずっとここに。
けれど僕はそれに気づけなかった。
見つけることが――できなかった。
たぶん、それは僕の変化が原因だと言える。
僕はいるであろう花蕾の隣に座る。
「勉強だけしていました」
ゆっくりとそう告げた。
「両親に言われて、勉強をしていました。勉強さえしていればいいと、私の将来のためだと言われて、私は勉強をしていました。毎日毎日、来る日も来る日も、休み時間も放課後も休日も、それが当たり前のように勉強をしていました」
淡々と語るその花蕾の声は無機質で、感情が読み取れない。
「学校終わりにたまたまこの公園をとおりました。その時に、べつの小学校の子と目があって、一緒に遊ぼうと誘われました。ですがべつに遊びたくもなかったですし、家に帰って勉強をしなければならなかった私はそれを当然のように断りました」
その光景を思い浮かべるのは容易にできる。
花蕾はだれに対しても平等に、素っ気なく、あしらってしまうだろう。
「けれどどうしてか、彼女は諦めなかった。再度、ここをとおった時にも見つかり、断られたというのにまたしても誘われました。『楽しいから遊ぼう』と、なんの説得力もないのにそんなふうに感情だけで訴えかけてきました。根負けした私は妥協案として遊びの見学をしてから決めることにしました」
にっとそこで花蕾の口角が上がったように思えた。
「なにをしているのかわかりませんでした。なにに対して笑っているのか、なにに対して楽しんでいるのか。けれど全員が笑顔で、楽しそうで……勉強をしている私なんかとは全然べつの世界にいるようなそんな姿を見せられ、私はその正体を知りたくなり、次に遊ぶ約束をしました」
直後、悔やむように拳を握り、身を固める。
「楽しみだった、浮かれていた。そういうこともあったのかもしれません。でも私はちゃんと横断歩道を交通ルールを守って、渡ったんです。なのに、なのに…………」
交通事故。
それが花蕾芽衣の死因だった。
調べたところによると、車の運転手は連日の残業により疲れていたため、居眠り運転をしてしまったらしい。これは会社を責めるべきか、はたまた運転手を責めるべきか、それともたとえ青信号だったとはいえ車の動きを見ていなかった花蕾の自業自得だったのか、そんなものを議論したところで意味などないことくらいわかっている。
あんまりだ。
そんなもの――あんまりだろう。
「きっと彼女は私に裏切られた気分になったことでしょう。遊ぶと約束したのに、あの日に行けず、それどころか謝りもせずに……」
「だから花蕾はずっとここにいたのか?」
こくりと小さく頷く。
「遊びたかった、楽しみにしていた。謝罪だけでも伝えたかった」
花蕾は言う。
「けど、いくら待っても、来てくれなかった」
そのことを伝えるためにずっと花蕾はここでその子のことを待っていた。
どんな天気でも、どんな時間でも、休みだろうとなんだろうと彼女はずっと。
「それでも諦められなかった。だから私はずっとここでひとり、待ち続けました」
どれくらい待ったのだろうか。
二十年というのはそれはそれは長い年月である。
ひとりで。
心苦しかったり、寂しかったりしただろうに、ずっとひとりで。
初めての友達になれるだろう相手のことを待っていた。
「ですが、そんな私に佐藤さんは声を掛けてくれました。初めはとんだやばい人かと思ったのですが、話しているうちにそういう類の人ではないことがわかり、自然と一緒にいるのが当たり前のようになっていて、口下手な私の言葉を拾ってくれて笑ってくれて、その時間がとても心地よくなっていて」
息をつく。
「これが彼女の伝えたかったことなんだということがわかったんです」
楽しい、か。
勉強ばかりしていた花蕾は遊ぶということがわからなかった。
同い年の子たちがなぜ楽しんでいるのがわからなかった。
けれどそれが僕といることで徐々にわかってきた。
前に遊具が楽しいわけではないと言っていたのは、そういうことだったのか。
ちゃんと楽しんでいたのか。
「けどそれじゃあだめなんだと。私はここにいていい存在ではなく、また佐藤さんとも話すべきではないことに、佐藤さんの変化によって気づかされました」
息を飲む。
その行き着いたものの行動を僕は知っている。
「佐藤さんはようやくこの世界に戻ってこれたんです。私が邪魔してはいけません」
「違う、花蕾」
「なにがです?」
「僕がこうしてまた普通の人と同じようなことができているのは花蕾のおかげだ」
ここ最近起きた僕の変化。
だれかに話しかけられ、だれかに触れられ、だれかに佐藤として認識された。
それは花蕾といたからこその変化だ。
「僕は他人に無関心だったし、自分にも無関心だった。だから僕はこの世界から消えていた。それでも花蕾と出会って、話して、いろんなことをして、人のことをちゃんと見るようになって、自分のことを改めて考えるようになった。花蕾がいなきゃ僕はずっとだれにも認識されない人生だった」
「だから。この世界にいない私と一緒にいたらだめなんです」
その証拠に、と花蕾は微かに見える手で自身を指さす。
「見えにくくなっているんじゃないんですか?」
この世界の理から外れた花蕾芽衣と交流できていたのは、僕も同じだったから。
僕が一般人と同じになったら、花蕾のことは見えなくなる。
当然の帰結であろう。
「でも、それでも――」
「私は感謝しているんですよ」
花蕾は微笑んだ……と思う。
景色のように真っ黒なものへとなっているけれど、そうだと思う。
「遊具の遊び方やコツ、私の知らないことやわからないことを教えてくれて、そして人といることの楽しさを教えてくれました。私は友達もいませんでしたし、両親ともあまり話さなかったので忘れている人は多いと思います。けど、佐藤さんは忘れないでくださいね」
「花蕾」
声が、姿が。
触れようとするも、以前には触れられていたのに、触れられなくなっている。
「私を見つけてくれてありがとうございました。佐藤さんといる時間はとても楽しかったです。今度は、もうこっちに来ちゃいけませんよ。ちゃんと私以外の人を見つけて、自分から声を掛けて、自分から接して、自分から手を取るんですよ。そうすれば主導権はこちらのものですから、あとは勉強をして相手との優劣をつければ完璧です」
最後の最後までいらないことを付け足すなあ。
「そういえばあの世には天国と地獄があるって聞きますけど、私はどっちに行くんでしょうね。まあ私くらいの善良な人間はそうそういないでしょうから決まっているんでしょうけど」
「花蕾はもっと僕に対してしてきたことを思い出してみるといい」
そうしていつものようなやり取りが交わされ、公園内には一晩中笑顔の花が咲き乱れた。
「おーい、佐藤。このあと飲みにいかないか?」
「あー、悪い。ちょっと今日、用事があって」
「そうか。じゃあまたな」
同僚からの飲みの誘いを断り、僕は花屋さんでシュウカイドウを買った。
花なんてめったに買ったことがなかったため、よくわからなかったがまあいい。
あいつにはこれがぴったりだろう。
「……ここか」
あの時は、なにもせずにとおりすぎてしまったけれど今日は違う。
ちゃんと自分の意思で、故人の冥福を祈るために、僕はやってきた。
以前は枯れたような花がおいてあったけれどもうなくなっている。だれかが片付けたのかもしれない。まあいい。花を供え、手を合わせる。
「花蕾、そっちで元気にやっているか? 他の人を相手に毒を吐いたりしていないだろうな。あれは僕だから耐えられたのであって、僕以外の人にやったら九割方冗談ととらえてくれないから気をつけろ。あとはまあいいか、お前は頭がいいからな」
立ち上がって、家路に就こうとすると、そこにひとりの女性が立っていた。
もしかして僕がおかしなところに花を置いていったから苦情をしにきた近所の人か?
「ああ、すいません。これはその」
「芽衣ちゃんのお知り合いですか?」
「え?」
僕よりも年齢が下か、穏やかな印象を受ける女性だった。
明るさが滲み出ているように思えるが、瞳には痛切さが帯びていた。
芽衣――花蕾芽衣の、芽衣だろうか。
いやでもあいつ友達はいなかったって――
「もしかしてきみは、花蕾が約束をしたっていう」
「……どうして、そのことを?」
驚いたように目を見開かれる。
確か、その子とはべつの小学校で花蕾が亡くなったことは特に知らされてもいなかったはず……いや、あんな近所で交通事故があったんだ、知らないわけがない。
約束をすっぽかしただなんて思っちゃいない。
盲点だったというか、そういうことに頭が回らないなんて、僕も花蕾も馬鹿だ。
それに枯れていたとはいえ花が供えられていたのだから、だれかが花蕾を想って供えてくれていたと考えるのが妥当だ。
ひとつ賢くなった気分だった。
なんだよ、花蕾、お前、忘れられてなんかいなかったじゃないか。
僕と同じだなんて――とんだ嘘っぱちだ。
「私、芽衣ちゃんの……そこで交通事故によって亡くなった子の友達で。あなたは?」
「僕は……花蕾の初めての――いや、二番目の友達になるのかな」
「友、達……」
驚きと困惑が入り混じった瞳を向けられる。
そりゃあそうか。生前の花蕾も変わらず、花蕾だったのだろうから、友達、なんて関係の人間がいただなんて思わないだろうし、しかも異性ともなればそういうふうに見られても致し方ない。
「ごめんなさい。私が芽衣ちゃんを遊びに誘わなければ……こんなことには」
突如、声を震わせ、彼女は悔いるように言葉を落とした。
ああ、きっと彼女は間接的にではあるが花蕾の人生を奪ってしまったことに苦しみ続けていたのだろう。だからあの公園にも行けなかった――いや、行ってはならないと自分で決めていたのかもしれない。
自分のせいで人の人生を台無しにして。
自分だけ遊んでいることなんてできるわけがない。
「芽衣ちゃん、あんまり人と遊んだことないって言ってたから、それはもったいないって思って……勉強以外にも楽しいことあるってことを子供だった私は伝えようとして、無理やり誘っちゃって。本当に、子供だった……、私のせいなんです」
「――それは違いますよ」
僕は言う。
慰めでもなんでもなく、ただ事実であるから。
「花蕾はあなたとの約束を楽しみにしていました。ものすごく、それはもう周りが見えなくなるくらい……だからあなたのことを恨んでなんかいなかったと思います。むしろ花蕾は死んでもなお、あなたのことを考えていた……そういうやつです、あいつは」
「……そう、だといいんですけど」
最近まで花蕾に会っていたなんて言っても信じてくれないだろうから、言わず、
「今度、機会があったらあの公園に行ってみてください」
と言う。
「え?」
「花蕾が、待っているかもしれませんから」
その発言により、僕がおかしな人とでも思ったのだろうか、数秒沈黙が流れた。
「な、なんだったら僕もついていきますよ。成人女性ひとりじゃああれですし」
取り繕うように言うも、これはこれでやばい人だと思われるのではないだろうか。
花蕾、僕はきみ以外ともそれなりに話してきたけれど、やはり会話って難しいな。
頑張って歩み寄ろうと思ったけれど、もう少し練習が必要かもしれない。
「そうですね、行ってみます」
僕がいろいろと自分の発言に対して反省していると、彼女は決然とした面持ちで言った。
「その時は、お願いします。ひとりじゃあ……楽しくない、ですから」
笑みが咲く。
この人は綺麗に笑う。
まるで花のようだ。
もしかして、いやもしかしなくとも花蕾、お前はこの人に憧れていたのだろうか。
僕は負けじと笑顔を作った。
うまく笑えたかはわからないけれど、目の前の女性は僕を見て、さらに笑みを深めた。