頁54:俺『達』が生まれた日/封じた記憶 1
※このページにはきつい『虐待』『虫』『グロ』などの表現があります。読む場合は完全自己責任にてお願い致します。
いずれも御自身の精神防壁には耐えられないと感じた方は回れ右して読み飛ばす様、おすすめ致します。
どこに足を着地させたらいいのか考えるのも無意味になった床。何年も前に着た記憶のある服や食べ終わったコンビニ弁当のプラ容器を閉じ込めたビニール袋、雑誌、布団、小さい家具、通販で届いた段ボール。それらを丁寧に敷き詰めてスキマを埋めたまだら模様の『床』。
ヒドいニオイがするらしいけれどこれが日常になってしまえば何が『いいニオイ』で何が『ヒドいニオイ』なのかなんて分からない。自分にとってはこのニオイが変わらない日常だった。
ゴキブリが這い回っている。最初は生理的嫌悪感から見つけたら追い払っていたが、それが徒労だと悟ってからは小さな同居人となった。あいつらだって僕らに害を与えようとしている訳じゃない。生活してるだけだ。たまたまウチがあいつらにとって生きやすい場所だったに過ぎない。
頭と体をボリボリと掻く。ボリボリなんて軽快には掻けないけど。どこもかしこもベタつきヌルっとする。肌も、着ているボロ雑巾みたいな布切れも。あまりの痒さにのた打ち回った事もあったけれど、『対処してくれるべき存在』は何の手も差し伸べてはくれないという結論に至った時に自分の中の何かが感覚を殺したんだと思う。
掻いた後に何となく爪を眺めたが、白かった部分は余す所無く黒い。まあ爪だけじゃなくて全身そんな感じだけど。
寝心地の悪い『床』にする事もやりたい事も無くボーっと体を預け、唯一この部屋の原型を留めている天井を眺めた。ゴキブリが元気に横切る。
玄関の方から女のカン高い怒鳴り声が聞こえる。外からじゃない。内側からだ。自分の母親を称す薄汚い女が意味を考えるのも憚られる様な単語を並べて外側の誰かを罵っている。
その誰かが本当に罵られるべき存在であるのかは知らない。知らないけれどあの女はその誰かが僕と接触するのを拒絶している。その他の全てに無気力で怠惰なあの女がこれ程までに感情をあらわにするのだ、恐らくはそういう危険な存在なんだろう。
あの女が自称でも母親っぽく振舞うのはその時だけだった。僕にとっての『母親』ってのはその程度。その『母親』が漸く外の誰かを追い払う事に成功したのかデコボコの床を色んな音をさせながら踏みしめ蹴散らしこちらへと移動して来る。定期的に訪れるこのイベントの後はいつも不機嫌になっているから余計な事は言わない。痛みに対して鈍くなってるとは言っても叩かれるのは嫌だ。放っておけば勝手に機嫌は直るから何もしないが正しい。
女は寝転ぶ僕がまるで存在していないかの様に目もくれずに奥へ移動すると、斑の床をあさりテレビのリモコンを掘り出した。テレビの周辺だけは他よりも少しだけ空間が広がっている。
部屋によく分からないごちゃついた音が満ちた。暫くすると女が下品な笑い声を上げている。何が面白かったかなんて興味は無いしあの女を理解しようなんて気も無い。何もない時間が濁った喧騒と共にドブに流れていった。
「お…」
女が何かに気付いた声を出す。
「おいお前も見てみろよ、コイツ」
「なに…」
慢性的な空腹で体を動かすのも億劫なのに。でもあいつの機嫌を損ねたらただでさえ少ない食事をまた取り上げられてしまう。面倒でも生きる為に女のいる方へ『床』を泳いだ。なるべく急いだ振りを見せつつ。
女が指差すテレビ画面に写っているのは、偉そうな服を着た無表情の人々が並んで座っている長い机?のある冷たい雰囲気の空間。その机の前には向かい合う様に小さな机。その小さい机から少し離れた両脇には少し長い机がそれぞれ。よく見ると真ん中の小さい机を他の大きい机が囲む様に並んでいた。
「真ん中の一番偉そうなコイツな、お前の父親だぜ」
女が汚れた足の指でテレビ画面に映るある人物をつつく。
「………え?」
ボーっとしていた頭に水をかけられたみたいになった。父親については確かに女に質問した事はあった。でもその時ひどく怒らせて動けなくなる程に殴られた経験からそれについて知ろうとするのはやめたのだった。
それが、突然───。
「相変わらずお高く留まったツラしやがってよ。裁判官だか法の番人だか知らねぇけど裏ではせっせと愛人作りってか。全くもってクソ野郎だよな」
アイジン…。どういう意味かはハッキリとは知らない。知らないけれど良くない事だってのは何となく分かる。でもこの人物を見る限りはそういう良くない事とは無縁に思えた。サイバンカンって確か悪い事をした人を裁く仕事じゃなかったか。そんな人が僕の父親…? つまり、この母親を称する女と一緒だったと?
イメージがゴチャ付きすぎて頭の中で整理できない。
困惑している僕の顔を女が鷲掴みにして自分の方へ無理矢理向けると、泳ぐ僕の目を覗き込んでねっとりと吐き捨てる。
「なんでお前を生かしてるか教えてやろうか? 正義の味方気取りのコイツに最高の復讐をしてやる為さ」
さも楽しそうに言った女の目は、その言葉通りには笑ってはいなかった。
◆◇◆◇◆◇
雨の日が続いた。ツユという時期らしい。ただでさえ濁って汚れた部屋の空気が一層湿って濃く重くなった気がする。とっくに麻痺した不快感が叩き起こされそうにざわつくのが鬱陶しい。
───?
ふと気付いた。静かだ。いや、外から聞こえてくる音はいつもとそれ程変わらないけれど、内側が、だ。嫌でも毎日感じる女の気配がしない。たとえ寝ていてもそこに居るって分かってしまうのに。
まさか出かけたというのか? 今更? なぜ?
普段なら気にもしたくない事なのだが余りにも大きな違和感に不安にも似た感情が沸き上がって来る。
以前よりも更に複雑さを増した『床』をかき分けて女がいつもいる部屋の方へ移動する。
…いる。いつも通り。不機嫌そうに表情を歪めてはいるが。
なんだ、つまりはいつも以上に死んだ様に寝てるだけか。
それならそれで静かでいい。どうせならそのままずっと寝ていてくれればいいのに。
その願いがどこかの誰かに届いたのか、それ以来女は寝たままとなった。
◆◇◆◇◆◇
それからどれくらいの時間が過ぎていったのだろうか。
少しだけ困った事がある。
女が静かになってくれたのはいいのだけれど、食事も用意されなくなった。いつもなら女がどこからか持ってくる物を少しだけ分けてくれていたのだが、その女が動く気が無ければ当然食べ物にもありつけない。動くだけ空腹感が増すからなるべく寝転がったままで多分何日も過ごしていた。それも流石に限界が近かった。
「ねぇ…」
断腸の思いで寝ている女に話しかける為に移動する。隣の部屋までの距離が『床』のせいで恐ろしく遠く感じる。
天井の明かりはいつからか点かなくなっていた。太陽の光が入るのを嫌っていた女が張ったぶ厚いカーテンで暗く覆われてしまった空間を手探りで泳ぐ。途中、突然ブーーンという物凄い音が部屋中に鳴り響き、体中に何か小さい物がぶつかったり被さったりした。多分ゴキブリが増えたのだろう。薄暗くて良く見えないけど。
その時、ずっと麻痺していた感覚が異変を感じ取った。
「……くさい」
くさい、という感覚がどういう物なのかなんて知らない。今まで嗅いでいた空気がクサいかなんて分からなかった。でも明らかにそのニオイは頭が分析するのを拒絶する程の物だった。
何があったのだろうか。暗がりの中でも妙に肌が黒ずんだ気のする女の肩を揺すろうと手をかける。
ぐぢゅず。
指が服の布越しに深く刺さり、何かが崩れて落ちた感触。思わず手を引っ込める。手に付着した水とも油ともつかないねっとりとした液体が先程感じた臭さを纏っている。そこに次々と群がっていく小さい物達。ゴキブリよりも小さく、忙しく動き回っている。いや、暗くて見えないがそれ以外にも細かくうねうねと動く小さく大量の何かの感触が手の平から伝わって来る。その不快感に反射的にその辺の物で拭った。
ああそうか、この女はもう人間じゃなくなってしまったんだ。
そう判断するとこれ以上自分にとってプラスにはならない物体のいる部屋からずるずると移動した。一度気付いてしまったニオイは実はどこに行っても満ちていたらしい。
さて、それならそれでどうしようか。このままこの部屋にいてももう食べる物は手に入らない。ゴキブリは…流石にちょっと食べる勇気は無い。水はどこかの蛇口を掘り出して捻れば何とか飲めるけれど、どれだけ飲んでも『食べた』という気持ちにはならないしそれもいずれ限界が来るだろう。
試しに『床』を掘ってみるか?
…いや、もし何か見つかったとしてもきっとそれは食べられる状態じゃない。それで今まで何度も痛い目を見てきた。だとしたらもう後は…
『出るぞ』
でも外には僕を狙うヤツラがいるんだろう。あの女が言ってたし、唯一僕を守ってくれてた事じゃないか。
『本当にそうだと思うのか?』
違うって言われてもそれが正しいのかなんて分からないだろう?
その時、玄関ドアが激しく叩かれた。突然の事に胸が跳ねた。
ヤツラが来た…。でもどうする。もう母親を称する女はいない。
外側の誰かが大きな声で怒鳴っている。何を言っているのか分からない。いや、頭が理解しようとしない。だってヤツラは僕を狙っている。どんな言葉で惑わしてくるか分からない。聞いちゃ駄目だ。
『もう一度言う。本当にそうだと思うのか?』
外側の気配がどんどん増えていく。一人だけじゃない。何人も集まってきている。声だけじゃない。威圧的な大きい音も近付いてきた。そして近くでプツッと止む。バタッバタッという重い音がして、また足音がいくつも増えて向かってくる。何だこれ。怖い。怖い。こわい。
『恐れるな。良く聞いてみろ』
こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい!!!!!
ガチャガチャとドアノブから耳障りな音がした。そして間髪入れず開かれるドア。けれど内側に掛けられていた鎖が扉が開かれるのを阻止する。しかしそのわずかに開いた隙間から差し込まれる外の光に暗闇に慣れ切った目が焼かれ、僕は思わず悲鳴を上げた。
その声に外の気配がどよめいたがそれも一瞬らしく、誰かの声が飛びまた違う誰かの足音が近付き…バギン!という音と主に扉が大きく開かれた。
まだ光に眩む視界の端に現れる足、足、足。
「ひっ…!!」
誰かの息を呑む声がした。何に対してだろうか。それを知るよりも早く、誰かの大きな腕らしき物が僕を捉える。
「カクホ!!」
「やだ…やだ………いやだあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
考えるよりも先に反射的に口から飛び出した言葉はたったそれだけだった。
───ねえ、僕に話しかけていたの、一体……誰?
(次頁/55へ続く)
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