頁03:私とは
大学を卒業後、私は就職した。『正しさとは』を追求する為に公務員の道も考えはしたが、両親の迎えた結末、それを間近で見せられていた自分がいつか同じ道を辿らないとも限らないと思い選択肢から除外した。
就職先は大企業にこそ名を連ねてはいなかったものの、専門分野ではそれなりに名の知れた会社だった。
私は相変わらず人と深く関われず、同僚からは煙たがられ、粗ばかり目立つ上司からは疎まれていた。それでも会社としては有益な人材であると評価されたのか入社三年目にしてまさかの社長室付き秘書として抜擢された。
早すぎるという違和感は正直あった。
けれど限りなく会社の中枢に近い場所でこの会社の抱える歪みを正していける、という展望の方が大きかった為その違和感には蓋をした。
「社長、お召し物に皺が付いております。先方は外見に拘る方ですのでこちらにお召し代え下さい」
「社長、今週のスケジュールを纏めました。商談が長引く事を想定し詰め過ぎず且つ一件でも多く対応出来る様、効率も考慮しております」
「社長、○○部の××部長ですが、部下へのハラスメントが問題になっているとの報告が上がっております。社員全体のモチベーションに関わりますので然るべき対応を僭越ながら提案致します」
「社長、大変申し上げにくいのですが……とある収支報告書に不審な点を見つけまして…。その、該当案件を担当管理しているのが……奥様でした」
自分でも明らかに越権行為が徐々にエスカレートしているのは感じていた。けれど私の『正義』は振るわれる機会を得た喜びで暴走していたのだと思う。社長もいずれ私の暴走に呆れるか激昂して私を切り捨てるだろうと覚悟していたが、意外にも私の意見を受け入れてくれ会社の膿を出す改革に進んで取り組んでくれた。その対象が自分の妻であっても公平公正に。
私はそれが『自分の正しさが認められたのだ』と思い込んでいた。
だが、現実は善悪よりももっと陳腐な人間の泥感情の上で回っていたのだ。
壁際に追い詰められ、背中からスーツの生地越しに壁の冷たさが伝わる。追い詰められたというより自分で移動したのだが。
目の前には呼吸を荒くした社長が私の顔のすぐ横の壁に腕を立てて迫っていた。
「───これは何の真似でしょうか、社長」
どういう状況かくらいは恋愛経験が皆無な私でも容易に想像がつく。
私の冷静な言葉を虚勢と勘違いした社長は更に興奮したのか捲し立てた。
「分かってるだろう? もう限界なんだよ…! 君も人が悪い。いつでも君の方から来られる様にお膳立てしていたのに」
「何の事だか分かりません」
冷たくあしらった言葉をなぜか嬉しそうに噛み締めて社長は含み笑う。
「そうやって強がっている姿が実にそそるんだよ…! 本当は今すぐにでも僕の胸に飛び込んで懇願して少女の様に甘えたいのを必死に我慢してるんだろ!?」
想像力だけは作家級ですね。気持ち悪い。
実際の所恐怖は一切感じてはいなかった。別に後ろが壁でも追い詰められている訳ではないから。
私は無表情を崩さずため息を小さく一つ。
「奥様はどうされるおつもりですか」
その問いに社長は心底汚い物でも見たかの様に表情を歪めた。
「ハッ! 奴の事なんかもう用済みさ! 甲斐甲斐しく世話を焼く良妻の化けの皮を剥がしたのは君だろう!? 僕に振り向いて欲しいが故にわざわざ妻の不正を暴いたんだろう!? なあ!?」
「飛躍し過ぎです。私はこの会社を正しく───」
「うるさい!」
壁についた右手で社長が私のスーツの襟を乱暴に掴む。
その瞬間、頭の中が一気に澄み渡る感覚で満たされた。
お互いの立ち位置、部屋の間取り、周囲の家具の配置、床の硬さ、相手のおよその体重、重心。
───はぁ…、この会社で働くのもここまでか。
掴まれた襟を軸にする様に重心を低く体を反転させ懐に潜り込み、咄嗟の出来事に姿勢が崩れた社長の体を腰の浮き沈みによる力の流れでふわっと浮かし───その力のベクトルを利用し、肩に掛けた腕を支点に遠心力を増幅させ一気に背負い投げる。
普通に投げたら私が背にした壁に激突してしまうので、何もない床に落とせる様に少し向きに捻りを加えた。
傍らで見ている人間がいたとしたらその見た目の派手さの割に音も衝撃も小さい事に違和感を覚えるかもしれないが、受け身を取りやすい様に私がそう投げただけに過ぎない。
「………え?」
何が起きたのか理解が追い付いていない社長が間抜けた顔で私を床から見上げた。
「この場限りで辞めさせて頂きます。お世話になりました。必要でしたらば辞表は後日お届けに上がります。よろしいでしょうか」
「え……あ…? は、はい……」
わずかに乱れた服の歪みを正し、付いた訳でもない埃を小さな所作で払い落とす。
警察官だった父が護身の為にと自ら手解きしてくれた技術。
父の没後も父の同僚の御厚意で警察署の道場に通わせてもらっていた。理由など無い。惰性だ。相手が男性でも女性でも構わずに組み合った。磨く理由も無いのに上達していく技術が嫌だった。
それなのに、嫌で嫌で仕方なかった筈の経験にまた私は救われた。そんな事をふと思い油断していた。
背後から迫る小さな足音に気付くのが遅れたのだ。
「───あ───」
背中に燃える様な激痛。振り返った視界にいたのは…怒りに顔を歪ませ、手には赤く染まる包丁を握り締めた、知っている女───社長夫人。
「なんで……なんで邪魔するの…!!」
邪魔……? 私が?
現状に思考が追い付いたのか、社長が大声で叫ぶ。
「お前…馬鹿! 何て事するんだ!!」
「あなたのせいでしょ!! 私を捨てようとしたから!! だったらせめてこの女とくっつけてから離婚して慰謝料だけでも取ってやる心算だったのに!!」
それはそれは…ご説明ありがとうございました…。下らなさ過ぎるので座ってもいいですかね……。座りませんけど。
「観沙稀君! 大丈夫か!? しっかりしろ!!」
社長がどうしていいか分からずにオロオロしている。
私が倒れていれば抱きかかえでもしたのかもしれないが、生憎私はまだ自分の足で立っている。
倒れる前にこれだけは言いたかったからだ。
「実際にお会いするのは初めましてですね、奥様。───御機嫌、クソ食らえ、ですわ」
ですわ、なんて生まれて初めて言ったかもしれない。
「!!!!」
怒りに我を忘れた獣が1本の鋭く尖った爪を立てて突進してくる。
私にはそれを躱す力はもう無い。油断してしまった時点で私はもう終わったのだ。
ならば終わり方くらい、私が思う正しさで終わろう。
迫る死に真っ直ぐに立ち向かい、静かに目を閉じる。
直後に腹部から全身へと突き抜ける痛みと衝撃。体を支えられなくなった足を恨む事無く私は天井を仰いだ。
視界の下の方に見える、垂直に立って細かに上下する金属。ふるふるとした動きは私の痙攣か。
そんな物を観察している自分のシュールさに笑いと涙が込み上げた。
愚かな男女はまだ何かを激しく言い合っている様だが、もう意味も理解出来ないし良く聞こえない。
「───お父さん……、私も、間違っちゃった…みたい」
「え、何が?」
場違いに間の抜けた声が、私の呟きにまさかの返事をしたのだった。
(次頁/04へ続く)
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