妄想編
むかしむかしあるところになめくじたちが通う学校がありました。なめくじの子供たちは毎朝決まった時間に、のそのそと、けれど元気よく通学路を這って通っていました。
今日もまた、よく学びよく遊ぶためになめくじたちは、学び舎に向かって移動しています。のんびりと向かうその中に、一匹だけ、ひと際大きななめくじがいました。なぜならそのなめくじは何やら重たそうなものを背負っていたからです。
近づいてよく見てみましょう。重たそうなものの正体はなめくじには不釣り合いなほど巨大な殻でした。何重にも巻かれた螺旋を描く殻を背負っています。
あるなめくじならこの殻を見て、こんなのはでかいだけでただのハリボテだと笑うかもしれません、しかし別のなめくじが見れば重厚で立派な殻だと称賛するかもしれません。そういう不思議な殻を彼は背負っていました。彼の名はカタツムリくんです。
「おーい、カタツムリくーん」
ずるずると移動するカタツムリくんに、角をぴょこぴょこと動かして後ろから声をかけたのは、カタツムリくんの幼馴染、なめちゃんです。角と角の間には青のリボンがちょこんと乗っています。
「おはよう、なめちゃん」
カタツムリくんは動きを止めて頭だけで振り返ると、殻で息をしながら挨拶をしました。
「おはよう、カタツムリくん。今日もしんどそうだね……。大丈夫?」
「いつものことだからね。心配いらないよ。ただ殻のせいかな、最近肩が凝ってて」
「もう、何おじいちゃんみたいなこと言ってるの」
なめちゃんはくすくすと笑って、
「早く学校にいこ」
と、朗らかに告げました。
◆◆
カタツムリくんは学校が苦手でした
まず、殻が邪魔で椅子に座るのも一苦労でした。
座ると背もたれに殻ごと押し出されてしまいそうなので気が散ってしまいます。不安定な椅子の上で受ける授業は知識が殻の方に吸い込まれるようで、何を話しているのかちんぷんかんぷんでした。
そういう時にカタツムリくんは決まって妄想に浸っていました。妄想の中でカタツムリくんはみんなに尊敬されています。難しいことは何もなくて、知識はすいすい頭に入って、足を引っ張るだけの自分はいなくて、逆に勉強を教えて感謝されるのです。
ふわふわと漂うような現実離れした妄想に浸っている間は幸せでした。しかし、妄想の果てには終わりが待っていて、チャイムが鳴り現実に帰ると、僅かに濃く大きくなったような気がする殻を見つめては虚しくなり、この殻さえなければ全てがうまくいのにとそう結論づけるのでした。
座学よりも更に嫌だったのは運動の時間でした。授業はわからなくても黙って座っていればやり過ごすことができましたが、運動ではそうはいきません。無様な姿を晒してみんなから笑われるのがいつものことでした。
座学も終わり、今から始まるのは大の苦手なかけっこの授業です。
みんなスタートラインの前に一列に並んでいます。ゴールを見つめる視線は一直線、真剣そのもの。ただカタツムリくんただ一匹だけは、目標が定まらず、不安できょろきょろとしています。
揺れる視界の中、なめちゃんの姿が見えました。目が合うとなめちゃんはにこっと笑いました。カタツムリくんの心臓は答えるようにとくんとなりました。嬉しさの鼓動ではなく恐怖の鼓動でした。もしもここでびりにでもなったら、きっとなめちゃんに嫌われるに違いない。なめちゃんに見捨てられたらという不安が心臓から流れる血液を伝って全身に広がりました。
どうにかがんばって最下位だけは避けなければならない。恐怖で殻が重くなりました。
「それでは、いちについて」
グラウンドに先生の声がこだまします。
「よーい」
カタツムリくんの鼓動が体中にこだまします。
「どん!」
みんな一斉に動き出しました。
カタツムリくんも一生懸命、前へ這い出していきます。
レースが進むと、ぴたりと横一列に並んでいたはずのなめくじたちに乱れが出始めました。カタツムリくんは遅れています。このままのペースだと恐れていた最下位になりそうです。
背中が遥か遠くに見えます。どうせ最下位ならもうがんばる必要さえないじゃないか。そんな諦めが心をよぎったとき、
「カタツムリくん、がんばって!」
なめちゃんの声が聞こえたような気がしました。
応援で目覚めました。気力が全身にみなぎり、カタツムリくんは自分に活を入れます。
そうだ、ぼくは一匹じゃない。なめちゃんが応援してくれているのにあきらめちゃだめじゃないか。殻のことなんてどうでもいい。重いと思うから重いんだ。進むのに邪魔なものは全部捨ててしまえ。
カタツムリくんはぐんぐんと前へ躍り出ていきます。ひとつ前のなめくじと並び、ついには抜き去りました。抜き去られたナメクジは驚愕で目を見開いています。
更に速度を増すカタツムリくん。加速するたびに背中の殻が振り子のように激しく揺れます。
どしん、と殻が転がり落ちる音がしました。
殻さえなければ、こちらのものです。一匹、また一匹と前に塞がるなめくじたちを追い抜きます。
とうとう、先頭を進んでいた一匹と並びました。目が合います。クラスメイトの、つのっちくんです。カタツムリくんは凶暴な彼のことが苦手でした。
二匹で押し合うように先頭争いを続けます。
勝ったのはカタツムリくんでした。カタツムリくんは一位でゴールラインを突破しました。
ゴール抜け、肩で息をしていると盛大な拍手で迎えられます。
「すごいね、おめでとう!」
なめちゃんから笑顔と称賛が送られました。思わず顔がにやけてしまいます。
「先生はな、カタツムリはやればできるやつだって信じてたぞ」
「すげーな、お前にかけっこで負けるなんて思わなかったわ」
先生とつのっちくんからも認められる日が来るなんて考えてもいませんでした。
今まで辛かったことは今日この日のために――
◆◆
「カタツムリー、お前かけっこ遅いよな」
「へ?」
夢から覚めました。背中を見ると落下したはずの殻はしっかりと背中に張り付いていました。
「へ? じゃねえーよ。いっつもぼんやりしてるから負けるんだぜ。じゃあな」
つのっちくんの言葉に言い返す気力もなくうなだれてしまいました。ちらりとなめちゃんの方を見ると悲しそうな顔を浮かべていています。
輝かしい一位を勝ち取ったつのっちくんはなめちゃんに近づくと、
「なめちゃん、俺の雄姿見ててくれたか?」
自慢げに語りかけます。
「すごいね、おめでとう」
なめちゃんははにかみながら答えました。
◆◆
かけっこも残念な結果で終わり、今日のすべての授業が終わっても、カタツムリくんはかけっこの件を引きずっていました。クラスのみんなは帰る準備をしています。
そのときふと、噂話が聞こえてきて、聞き耳を立てました。
「立ち入り禁止の東の校舎裏に、やたらと眩しいところがあるの知ってる?」
「いや、知らないけど。なにそれ?」
「そこにいって光の中に入ったら勇者になれるんだとよ」
「ゆうしゃあ? そんな眩しいとこに行ったら干からびるだろ馬鹿」
「何言ってんだよ馬鹿、危険を乗り越えてこその勇者なんだよ、わかってねえなあ」
普段のカタツムリくんなら、荒唐無稽だと笑うところでしたが、今は藁にも縋りたい気持ちでした。それになんだか、カタツムリくんは、その場所に行ったことがあるような気がしていたのです。
勇者になろうとか傲慢な気持ちはありませんでした。ちょっぴり期待していたかもしれませんが、勇者にはなれなくてもこの殻を外すことはできるようになるのではなかという願望がありました。
カタツムリくんを悩ませるこの殻はいつからあったのか。物心ついたときにはあったのですが、それがいつからだったのかは思い出せません。何度も脱ごうとしましたが強くくっついていて引き離すことは叶いませんでした。無理に外そうにも激痛が走り、日に日に肥大するようになり、どうしようもありませんでした。
きっと、殻を脱ぎ捨てた世界は靄が晴れたかのようにきれいなはずなのです。殻さえなければすべてがうまくいくはずなのです。
校舎裏に行けば全てがわかるようなという淡い予感はすぐに確信へと変わり、カタツムリくんはその場所へ行こうと固く決意しました。急いで教科書やらノートやらの荷物をまとめて、まとめたはいいもののその荷物さえ忘れて教室を飛び出しました。
◆◆
「ここかあ」
カタツムリくんはまばゆい光に目を細めて呟きました。禍々しくも見える光に入って果たして無事に帰れるだろうかと不安が駆け巡ります。
光に入らなければここまで来た意味がないのですが、踏み込むのには抵抗がありました。なめくじは暗くてじめっとしたところで生活していて、光に当たると溶けてしまうからです。
光に入って死んでしまっては元も子もありません。カタツムリくんは右を行ったり左を行ったりと迷っていましたが、あきらめて背中を向けて元来た道へと引き返そうとしました。
でも、とカタツムリくんは踏みとどまります。ぼくにはこの大きな殻がある。ちょっと光を浴びるぐらいなら大丈夫、と。
「よし」
小さく気合を入れて大きく深呼吸をします。カタツムリくんは振り返り、降り注ぐ光をにらみつけます。目を閉じ、勇気を振り絞って勢いよく光の中へと飛び込みました。
光に全身を包まれた瞬間、カタツムリくんはあまりの痛みに叫び声をあげました。殻があるのにどうして、と思って目を開き背中を見ると、まばゆい光はカタツムリくんの殻という幻想を吹き飛ばしていました。
嫌でも痛みは現実を呼び起こします。なめくじに殻などないという現実は背中を容赦なく焼き焦がします。
早くここから出なければならないと痙攣しつつ外へはい出ようとした瞬間、幻想のような現実の声が頭の中に聞こえてきました。
『殻わあ、殻はいりませんか~』




