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古事記 〜神々の物語〜  作者: 野月 静
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三貴子

命からがら黄泉の国から逃げ戻ったイザナギは、自分の(なり)を見て顔をしかめた。


「死者の国にいたからか、ひどく穢れているな。宮殿に戻る前に、禊でもすべきか……」


 そう言うとイザナギは、禊に最適な所を探して日本中を飛び回った。そして、筑紫の国の日向(ひむか)で一つの池を見つける。そこは、橘が青々と生い茂る、実に美しい所だった。


 禊の場所を決めたイザナギは、衣服も汚れているからと、服を着たまま池に入る。すると、何ということだろう。それだけで実に多くの神々が生まれるではないか。


 次に清めた衣服を脱ぎ、体を洗う。すると、まただ。腕を、脚を、腹を、背中を……。とにかく清めるたびに神が生まれた。


 意図せず子供を増やしたイザナギは、最後に顔を清める。すると、左目を洗ったときに日の神 アマテラスオオミカミが、右目を洗ったときに月の神 ツクヨミノミコトが生まれた。さらに、黄泉の悪臭を嗅いだ汚れを清めるために鼻を洗ったときにタケハヤスサノヲノミコトが生まれた。


 イザナギはこの三柱の神を見つめながら言う。


「黄泉の汚れをはらう清めをして、次々に子が生まれた。しかし、最後に生まれた君たちは特に尊い」


 この神々が、この先の葦原の中つ国を治めていくのだろう。そう直感で感じたイザナギは、首飾りを外してアマテラスに授けた。そして、


「アマテラス。其方は私に代わって高天が原を治めなさい」


と、命じた。


 続けてツクヨミには夜の世界を、スサノヲには海原を治めるように言った。


 イザナギは、統治を三貴子に完全に譲ったのだった。


 そうして彼は、子供たちにこの世界を治めてもらってのんびりと隠居生活を送る……ことはできなかった。




 比較的穏やかなアマテラスとツクヨミだが、スサノヲどうも野性的なようだった。加えてまだ幼いという事で、感情的になりやすい。そのような彼に海を治めさせたのは、間違いだったとも言える。


 スサノヲ付きの者がイザナギに泣きついてきたのは、三貴子に統治を任せてから然程経っていない時だった。


「イザナギ様……。もう、私たちの手には負えません」


 彼らなりに努力をしたことは、げっそりとした雰囲気から十分にわかる。


 ここのところの海の荒れは、確かにイザナギの耳にも入っていて気になっていたところだ。イザナギは、スサノヲの付き人たちと自分の従者らと共に、スサノヲのもとへ向かった。



「これは……」


 海原にはスサノヲの泣き声が響き渡り、それに呼応するように荒波が起きる。海岸は、海水の影響で草木が枯れている。波の大きさによっては、比較的海岸が近い畑にも海水がいっているようで、作物が育たなくなっているようだった。


 イザナギは、一つ溜息を残し、我が息子の元へ向かう。


「スサノヲ。スサノヲ、落ち着きなさい」


 普通に呼びかける程度では、スサノヲの泣き叫ぶ声にかき消されてしまうようで、彼の耳に届いていない。イザナギは、スゥッと息を吸って、腹から声を出す。


「スサノヲ! 落ち着かぬか!!」


 ビリビリと空気が震える。浜辺で側近たちが縮み上がっている様子が見て取れた。そこを怯えさせるつもりはなかったのだが、とイザナギは少し反省する。


 流石のスサノヲもこの声には気付いたようだ。泣くのを堪える様に、小さく嗚咽しながら、父親を見つめている。


「スサノヲ。私は海原を治めるよう、其方に命じたはずだ。だが、この有様は何だ」

「父上……。も、申し訳ございません」

「其方はどうしてそのように泣き叫んでいるのだ」


 少しずつ落ち着いてきてはいるが、まだ泣き止めていないスサノヲは、途切れ途切れに意見を言う。


「父上、ぼ……私は、母上に会いたいのです」


 イザナギの顔が一瞬、ほんの少しだけ歪んだ。


「どうして母上に会うことはできないのですか!?」


 そしてまた、スサノヲは泣き出した。同時に少し落ち着いてきていた海も荒れはじめる。


 スサノヲのその気持ちは、当然のものだとイザナギも思う。生まれた時にはすでに母親を亡くしている。イザナギの知る限りでは、イザナミと二人で成した子供たちとスサノヲの接触は無いが、知る限り(・・・・)の話である。弟妹に異常に構う子らも、少なくはない。恐らく、そこら辺から母を知り、その人がどういう人だったのかを聞いたのだろう。


――会わせられるものなら、私も会わせてやりたい。


 しかし、あの日を思い出すと、今も恐怖で身が固くなる。愛する人の変わり果てた、悍ましい姿。妻の周りを取り囲む鬼たち。

 何とか逃げ切れたものの、この幼子では黄泉の住民に捕まるやもしれない。

 何より……――あのような光景は、見せたくない。


 だから、理不尽と言われようと、嫌われてしまおうと……言うんだ。


 再びイザナギは大きく息を吸う。


「聞け、スサノヲ。そのような事、二度というのではない。其方に母などおらぬ! 其方を生んだのは私だ。イザナギノミコトただ一人である。其方は私の命を聞き入れ、ひたすらに海原を治めれば良い。余計なことなど考えるな!」


 今度はイザナギの言葉に合わせて海原が動く。スサノヲは、力の差というものを目の当たりにし、そして母の存在を否定され、再び涙を浮かべる。本当に、感情的な子だ。


「どうして、どうしてそのような事を仰るのですか……! 母は、イザナミ様は父上の愛した方でしょう!」

「どうしてだと……? それは愚問だな。少し考えればわかる事だろう」


 死者に会いたいなど、生者の身勝手な欲望だ。会えるようになっているこの世界もこの世界だが、長い時間を共にした相手の事を、ほぼ分身のように思っていた彼女のことを慮ることが出来なかった私は、この世界よりも歪んでいる。


 イザナギがスサノヲに言い聞かせているようで、いやそうであるのだが、それ以上に自分に向けて言っていた。

 スサノヲにあのような目に遭ってほしくないから我が子の事を思っての、というよりは、あの日の事を思い出させたことに対する怒りの方が大きかった。


「死者の国に行きたいなど、愚か者の考えることだ。二度とそのような事を口にするな」

「嫌だ! 会いたい、母上に会いたい!! 会わせてよ、父上……!」


 今までに無いほどの高い波ができる。耳がおかしくなる程の、気が狂うような泣き叫ぶ声が大陸中に響く。

 イザナギは、全ての怒りを込めて、言った。


「もう良い、黙れスサノヲ!! ああ、そうか。父である私の言葉が聞けないというのか! ならばもうここから出ていけ! 海原など治めなくて良い! 母の元にでもどこにでも、好きなところに行ってしまえ!!」


 スサノヲは一瞬、父の本気の怒りに怯えたようだったが、すぐにどこかへ飛んで行った。




「イザナギ様……、よろしいのですか」


 少しして、側近たちが近寄ってきた。追いかけなくて良いのかと言うように。そして、幼い子にあの言葉はきつ過ぎたのではないかと言うように。

 確かに、少し言い過ぎたかと後悔はしている。それでも……。


「良いのだ」


 これで、良いのだ。どちらにとっても、これが最善だと思う。


 スサノヲは、どうしても母に会いたいのなら母に会いに行けば良い。自分が強く望んだことが叶うのだ。幸せな事だろう。

 イザナギはイザナギで、悩みの種が減る。ここ数日の部下からのお悩み相談が無なるのだ。何より、親子とはいえ、性格的に合わないことだってある。人間の根本が違いすぎると、互いを理解できないものだ。父がいなくなっても、彼には数多の兄姉がいる。それだけで、きっと十分だ。


「それより、私は疲れた。暫くゆっくりさせておくれ」


 そうしてイザナギは淡海に宮殿を建て、隠居生活を始めたのである。

これでイザナギとイザナミのお話は終了です。

次からは子供たちが日本を治めます。

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