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古事記 〜神々の物語〜  作者: 野月 静
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黄泉の国

 イザナギがすぐそこに来ている。そう言われたイザナミは、御殿から戸を閉めて(、 、 、 、 、)イザナギを出迎えた。イザナギは呼びかける。


「イザナミ! ああ、本当にここにいたのか……」

「イザナギ……あなたはどうしてこちらに?」


 イザナミが戸を挟んですぐそこにいるという事実に、思わず泣きそうになったイザナギだったが、涙を堪えて言葉を続ける。


「愛する我が妻よ。私たちの国造りはまだまだこれからではないか。さあ、私と共に宮殿に戻ろう。どうか、その戸を開けて、出てきておくれ」


 イザナミにとってそれほど嬉しい言葉は無かった。死んでしまってもなお、自分の事を愛してくれているという事実がイザナミの心を包み込み、暖めてくれる。その温もりに自然と自分のほおが緩むことをイザナミは感じた。すぐにでもイザナギと共に宮殿へ戻りたい。数多の子供たちに囲まれたあの日々を取り戻したい。しかし……


「ありがとう存じます、イザナギ。死者のわたくしにそのような言葉を……。しかし、わたくしは既にこの国のものを食べてしまい、すっかり穢れてしまっています。このような姿、あなたや子供だちに晒すことなどできません」


 イザナミのその悲しげな声によって紡がれた言葉に、イザナギは絶望した。カムムスビが言っていた「黄泉の国の住人となる儀式」は既に終わったというのか。絶望して、イザナギはその場にへたり込んでしまった。


 イザナギの空気の変化を感じ取ったイザナミは、ハッとして言葉を続けた。このままでは心の距離(、 、 、 、)が開いてしまう。直感でそう思ったのだ。


 イザナギはわざわざこのように遠いところまで来てくださったのに……。


「で、ですが! せっかく迎えに来てくださったのです。わたくしも、あなたや子供たちともっと一緒にいたいと存じます。黄泉の神々と話し合ってまいりますので、しばらく待っていてくださいませ。……その間、決してわたくしの姿を覗かないでくださいね?」


 最後の言葉だけ、いつものイザナミの穏やかさが欠片も感じられなかった。イザナギは反射で了承した。


     *


 イザナミの気配が感じられなくなってから、長い時間が経過した。黄泉の国の住民が、葦原の中つ国に還るというのだ。黄泉の神々がそう簡単に了承するとも思えないし、普通なら即座に却下するはずだ。もしかしたら、イザナミは丸め込まれているかもしれない。許可が下りなければ、イザナミとはもう一緒に住めない。

 様々な予測が次々と浮かぶ。どんどん悪い方に思考が傾き、イザナギは遂にただ待っているだけという事が出来なくなってしまった。


駄目だとわかっていても、手は勝手に戸に手をかけていた。ギギっと音を立てて扉が開く。イザナギの目の前には真っ暗な世界が広がっていた。


「かなり暗いな……。灯り一つないのか? これでは歩くのも一苦労ではないか」


 そう言うと、イザナギは左側の垂れた髪に挿してある、目の細かい櫛を手に取った。そして、それの一番太い歯を折り、火をともす。心もとない灯りではあるが、無いより幾分かは良かった。

 すると、狭い視界の中に動くものがあった。近寄って見てみると、それは、


蛆虫(うじむし)か? しかし、何故ここまで大量に……」


 蛆虫の量に驚きつつ、一匹の蛆虫の動きを注視していると、視界に人の眼が入ってきた。想定外の事に思わずイザナギは悲鳴を上げる。すると、その眼の主が声を発した。


「イザナギ……? どうしてあの場で待っていてくださらなかったのですか?」


 怒りを滲ませたその声には聞き覚えがあった。恐る恐る、イザナギは問いかける。


「その声は……イザナミ? イザナミなのか!?」


 イザナミに再び会う事が出来た。その喜びで、思わず声が弾んだイザナギだったが、彼女をしっかりと見た瞬間、彼はまた叫び声をあげた。


 イザナミの体には蛆虫がたかり集まっているだけでなかった。頭から足先までのいたるところに、合わせて八柱の雷神がイザナミの体に付いていたのだ。


 イザナギは一目散に逃げだした。しかし、愛する人には己の醜い姿を見られたくないのが女というもの。それ以前にイザナギは、イザナミとの約束を破っている。イザナミは「よくもわたくしに恥をかかせましたね」とイザナギの背に向かって言った。


 イザナミの怒りを初めて買ったイザナギは、今まで聞いたことが無いような妻の低い声に縮み上がったが、直後、さらに強い恐怖を覚える。


 イザナミの声に合わせて、彼女の後ろから黄泉の国の醜女(しこめ)で死の穢れの象徴であるヨモツシコメが飛び出してきて、イザナギの後を追ってきたのだ。


 考えられない速さで迫ってくるヨモツシコメ。そこでイザナギは、頭についていた黒い髪飾りを後方に投げつけた。するとその髪飾りはヨモツシコメに当たる……のではなく、地に落ちてたちまち山ぶどうの気に変わった。目の前に美味しそうな山ぶどうが大量になっているのだ。ヨモツシコメ思わず山ぶどうの実に手を伸ばし、夢中で食べ始めた。


 狙い通りになったイザナギは、その隙にざらに逃げる。逃げる。逃げる。しかし、ヨモツシコメはあっという間に山ぶどうを平らげてしまい、すぐにイザナギを追い始めた。


「何故あの量をこのような短時間で食べきるのだ!?」


 考えるだけ無駄であろう疑問を払拭するように、今度は右側の紙に挿していた櫛を引き抜いた。そしてその歯を折り取ってそれらを投げる。すると今回は筍が生えてきた。その筍をヨモツシコメが引き抜いて食べている隙に、イザナギはまた逃げ出した。


 その様子を後ろで見ていたイザナミは、そもそも初めから苛立っているのに、すぐに食べ物に引っかかるヨモツシコメを見てさらに不機嫌になっていく。


「あいつには任せていられないわ……」


 そう言ったイザナミは、次に自分から成り出た八柱の雷神に加え、大勢の黄泉の群勢にイザナギの後を追わせた。


 黄泉の国と葦原の中つ国の境である黄泉比良坂はあと少しだ。イザナギは十拳の剣を引き抜き後ろ手に振り回した。向かい合って対決しては勝ち目など無い。とにかく運に身を任せ、近くにいる敵だけを排除し続けた。そして坂のふもとまで来た時に、イザナギはそこになっていた桃の実を三つ投げつけた。すると、どうだろう。桃の霊力に阻まれて、黄泉の軍は退散していった。


 その様子を見て、イザナギはハアと息を吐いた。そして、自分を助けてくれた桃ノ木と向き合う。


「桃の実よ。其方が私を助けてくれたように、葦の茂るこの豊かな葦原の中つ国の民が悩み苦しんでいるようならば、助けてあげておくれ」


 そう言ってイザナギは桃の木に、偉大な霊の力という意味のオオカムヅミノミコトという名を授けた。


 それから覚悟を決める。恐ろしい黄泉の住人たちが地上に来てはならない。これをすれば、きっと二度とイザナミとは会えなくなるだろう。けれど……。


 イザナギは、ただ一人まだこちらに向かって来るイザナミの方に向き直った。そして……――


「さようなら、イザナミ」


 イザナギは千人力でなければ動かせない程の大きな岩を転がし、比平坂を塞いだ。


 ギリギリのところで出口を塞がれたイザナミは、かなりの速さで迫ってきていたようで、勢いよく岩にぶつかる音がした。岩を隔てて二人は向き合う。そして、イザナギは契りを解いた。


「我が愛した貴女よ。これからはそれぞれの道を歩もう。私はこれからも、君との子たちと共に国を作ってゆく。さようならだ、イザナミ」

「ご自分だけやりたいようになさって、わたくしの気持ちなど考えずにわたくしたちの契りを解かれるのですね」


 イザナミの言う通りで、イザナギは何も言い返すことができず、ただ小さく「すまない」と言った。


「そうですか……貴方は、そういう方だったのですね。失望いたしました……」


 元妻の言葉が鋭い針や刃のようになって心に刺さる。自らの行いのせいでこうなっているわけだが、それでも痛くて苦しくて悲しい。イザナギは、自分の行いは棚に上げて勝手に苦しんでいる自分に腹が立った。強く拳を握る。爪が掌に食い込んで痛い。それでも手を緩められずにいると、岩の向こうから不敵な笑い声が聞こえてきた。思わず身構える。


「何が可笑しい。何を笑っている」

「愛しいイザナギ様。あなたがそのようになさるのならば、わたくしは地上の民を一日に千人、こちらにお招きいたしましょう」


 地上の、葦原の中つ国の民は我が子も同然。その人々が毎日千人、イザナミによって奪われるのだ。


 貴方もわたくしと同じ目に遭ってくださいませ。


 言外にそう言われているのがわかった。

 イザナミは怒りに飲まれ、恐らく自我がハッキリしていない。そうしたのが自分だと思うと改めて痛いが……その痛みに飲まれるわけにはいかない。


「ならば……ならば私は、一日に千五百の産屋を建て、民を増やそうじゃないか」


 イザナミは愛する人の言葉など聞かず、ただただ狂ったように笑い続ける。


 イザナギは妻のいない宮殿へ帰るため、踵を返した。


 その時、頬を濡らしていたことなど、誰も知らない。

これでイザナギとイザナミ、二人のお話はおしまいです。これからは、イザナギ一人で国を造ります。

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