序章
「陛下。客間に安萬侶様がお越しです。……ついに、完成したようです」
側仕えの感極まった様な言葉に元明は木簡から顔をあげる。跪く側仕えの頭と、書類や木簡が乱雑に置かれた机が目に入る。
天武天皇の指示により制作が開始され、三十年が経った。指示を出した本人が既にお隠れになられているのが残念でならないが、そうか。遂に完成したのか。
元明は心が浮き上がるのを感じた。
「すぐに向かいます」
手早く机の上の木簡などをまとめ、側仕えに手渡す。視界の端で所定の位置に片付けている様子を捉えながら、元明は側近と共に執務室を出た。
客間には、太安萬侶をはじめとする、編纂に関わった者たちがいた。元明が入室すると同時に、彼らは深く礼をする。客間は、良い緊張感と達成感で満ちていた。
元明は着席と同時に顔を上げるように言った。
「遂に、古事記が完成したと聞きました」
「はい。長い間お待たせいたしました事、お詫び申し上げますとともに、こちらを献上したく存じます」
安萬侶が、そう言いながら一冊の本を差し出す。元明の側仕えの一人が受け取り、主に渡す。その薄さに彼女が首を傾げたことに気付いたのだろう。再び安萬侶が口を開く。
「ご存知かと思いますが、古事記は非常に長い物語となりました。こちらは、ほんの一部でございます」
確かに全てをこの場で渡すのは大変だろう、と元明は何度か小さく頷く。早速、と彼女が表紙に手を掛けたところで「陛下」と安萬侶が声を発した。
「少しだけ、私に古事記の序文を語らせてくださいませんか」
「構いません。お願いします」
元明は本を側仕えに手渡し、姿勢を正す。
安萬侶の声が朗々と響く。
世界の始まりには、混沌とした根元がございましたが、それらが凝り固まっても、生命は一向に現れません。その時の事は誰も知り得ませんし、名付けようもございません。
しかしながら、天と地が初めて別れるとアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒという三柱の神々が誕生いたしました。そして、その神々が万物創造の初めとなり、後に誕生いたしますイザナギ、イザナミが万物創造の祖となりました。二柱の神はこの国で幸せな日々を過ごすのです。ですが、その幸せは長くは続きませんでした。
イザナミがこの世を去ってしまうのです。
イザナギは愛する妻が忘れられず、黄泉の国まで彼女を追いかけて行きます。しかし、残念な事にイザナミはもうこの国には戻れなくなっていたのです。イザナギは一人、黄泉の国から戻ってきました。そして、黄泉の汚れを払うための禊の際に湖で目を洗う時、日の神 アマテラスオオミカミと、月の神 ツクヨミノミコトが誕生し、海水で浮いたり沈んだりして体を洗う時に天上と地上に数多の神々を生み出しました。
この様に、世界の始まりは大変朧げではありますが、語り伝えによって、私達は国土や島々が生まれたときのことを知ります。また、元始の様子ははるか昔の事ですが、古代の賢人のお陰で、神々を生み、そして私達人間を生み出した世のことを知るのです。
これは、神武天皇が誕生するまでの神々の物語でございます。
多くの人に神話の、引いては古事記の面白さが伝わります様に。(そして是非宮崎へお越し下さい)




