雨の降る街(2)
俺はその時まだ学生で、大学受験に備えて学習塾に通っていた。
雨の中、傘を忘れた俺は、走って家まで帰ろうとした。
塾帰りで暗いこともあり、街灯の少ない道を濡れた前髪を顔に張り付かせたまま、走って家まで向かった。
暗い家に帰ると、俺は電気を点けて、真っ先にシャワーへ向かった。
冷えた体を温めると、いつもは帰ってきているはずの両親がまだ帰ってきていないことを思い出す。
携帯を確認しても、連絡も特に入っていなかった。
何かあったのかなと心配に思って電話をかけてみると、どうしてか繋がらない。
俺はその時疲れていたこともあり、そのままソファーで眠ってしまった。
いつもと同じ朝。
違うのは自分がソファーで寝ていたこと。
母が朝食を作り、父は新聞を読んでいた。
姉が食器を用意すると、そこに母が料理を乗せる。
家族揃って朝食を取ると、僕が最初に家を出る。
梅雨の時期。降水確率は60%
天気予報では午後にかけて天気が崩れていくらしい。
その日は忘れず傘を持っていった。
ソファーで寝ていたせいか、首が痛んだ。
駅で降りるとしばらく歩き、そしてようやく学校に着くと、ひどく退屈ですでに塾で学習済みの、眠たくなる授業が始まった。
代わり映えしない日常。
階級が青の俺には、そんな日常がお似合いだ。
今では、そんな日々が何よりも幸せだったんだと思う。
しかし、当時の俺はそんな日々を退屈を感じて、学校にテロリストが来ないかな〜とか、研究所の事故でゾンビのパンデミックが起きてゾンビと戦うことにならないかな〜とか、そんなことばかりを考えていた。
その日も塾で帰りが遅くなり、電車で最寄り駅まで帰ると、雨の視界の悪い中、黒の大きめの傘を広げて、車通りの多い道をのんびり歩いて帰った。
靴から雨水が染みてきて、嫌な気分にならながら、青信号の横断歩道を渡った。
その時だった。
一台の信号無視した車が、俺が歩く横断歩道に突っ込んできたのだ。
俺はそのヘッドライトに目が眩み、それと同時に頭が真っ白になった。
あまりにも突然のことで、何も考えられなかった。
その時俺は、天使に助けられた。
「てん……し?」
あまりにも現実離れした光景が、その時俺の目の前にあった。
死ぬはずだった自分は、助かった。
天使は車を消滅させて、俺を歩道まで運んだ
まるでそこには事故なんて初めからなかったかのような、しかしそこには、確実に事故があったんだと、俺の記憶が物語っていた。
なぜ天使が自分を助けたのか、そんな疑問が最初に浮かんで、俺はそんな天使から逃げるように背を向け走った。
非日常を望んでいたはずなのに、いざそれを前にすると、あまりの恐怖に逃げ出してしまう。
なんとも情け無い話だが、当時の俺には能力も体力も胆力も根性もなかった。
そして、毎日活動時間のほとんどを勉強に費やしていた頭でも、その状況を理解できなかった。
頭には自身があったのに、それすらも非日常は笑う、嗤う、嘲笑う。
俺は己の無力を知った。
俺は己の無学を知った。
気がつけば、俺の前には天使が立っていた。
その堂々たる様が、俺には笑っているように見えて、嗤っているように見えて、嘲笑っているように見えて、苦しくて、悔しかった。
その天使は語った、俺には可能性があることを。
その天使は語った、捕らわれた仲間がいることを。
その天使は求めてきた、俺への協力を。
その天使は求めてきた、俺の持つ可能性を。
俺は天使の誘いを断り逃げた。
背を向け、見苦しく、泣き喚きながら、逃げた。
家に帰ると、泣き続ける俺を母が優しく介抱してくれた。
そうして俺は日常に戻ったつもりでいた。
翌日。
ついにそれが訪れてしまった。
今ほどスマホが普及しておらず、まだガラパゴスケータイが主流だった当時、俺もそれを使っており、授業が終わると電源を入れる。
起動まで少し時間がかかるが、それでも便利に使われていた。
電源が入るとすぐに、メールの着信通知が入る。
それは父からのもので、仕事がちょうど俺の塾終わりの時間になるらしく、迎えに来てくれる、というものだった。
俺はそれに了解と返信すると、そのまま塾に向かう。
自販機で買った安いコーヒーで無理矢理目を覚まさせると、根性で授業を乗り切る。
そうして塾の授業を終えると、外が何やら騒がしいことに気付く。
俺は気になって窓から見てみると、沢山の野次馬が集まった先に、何やら赤い光のようなものが見える。
どうやら交通事故があったらしい
俺には関係ないか、そう思ってエレベーターで一階に降りると、いつものように駅へ向かおうとして、メールのことを思い出した。
俺は雨の中傘もささずにその現場へと急行した。
「どけッ!ジャマだッ!」
そう叫んでも、野次馬たちは退かなかった。
「通せ!通せよッ!」
そんな俺一人の声なんか、この喧騒の中では、誰一人として聞き届けやしない。
仕方なく隙間からその様子をみると、片方は大型トラックで、もう片方は父のと同じ車だ。
ナンバーまでは覚えていなかったが、運転席には気絶している父がいたので、俺はそれで野次馬たちを掻き分けて、暴力をも振るって、そうして野次馬の前へと出る。
トラックに運転手の姿はない。
逃げ出したかブレーキのかけ忘れか、ここは坂道が多いからそこで駐めるとたまにこういうことになるのだ。
よく見ると、車には母と姉も乗っていた。
母も姉もきっと仕事帰りで、少し残業して父と時間を合わせたのだろう。
しかしそのせいで、三人とも事故に巻き込まれた。
姉が目を覚ますと、母と父に呼びかけるようにして目を覚まさせた。
そのままこっちに、安全な場所へ、そう思っていた矢先にーー
燃料が漏れていたのだろう、引火して爆発し、車が炎に包まれた。
それから救急隊員が到着したが、すでにみんな焼け死んでしまった。
俺は濡れた地面に膝を落とす。
俺は納得できなかった。
こんな理不尽を許容できなかった。
きっと俺が、あの天使の頼みを断ったからだ。
そう思った。
自分のせいだと責めて責めて責めて……
違う……!
俺のせいじゃない!
あの天使だ!あの天使が何かしたに違いない!
頼みを断ったから見せしめにと、そうだ……!
あの天使のせいだ!
全部あの天使が悪いんだ!
俺は恨んだ。
恨んで、恨んで恨んで恨んで、恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで恨んで……
頭の中で何かが切れた。
そして俺は、天使を殺すと心に誓った。
「それで、俺にそれを話して、お前は何をしてほしいんだ?」
男は大降りの雨に打たれ、それが傷に染みるだろうに、その様子を一切見せずに、己の絶望の経緯を語った。
「何も望んでなんかいない。強いて何かを望んでいるとすれば、それは俺という人間の理解だろうな」
「悪いな。俺はそれを聞いて、お前に同情することがなければ、哀れむこともしない。到底理解なんて及ぶはずもない」
「だろうな」
分かっていたようでなにより。
「オマエは失う痛みを知らないんだ。俺を理解できるはずがない」
そうだな。
家族を失う痛みは知らないな。
「理解してやるつもりもないがな」
「理解してやる?随分と上からな物言いだな」
「当たり前だ。復讐なんてくだらないことを心に誓ったおバカさんには、それくらいがちょうどいい」
俺の物言いが気に入らないらしい男は、どうにも苛立っている様子。
やっぱり感情的なんだよなぁ。
「復讐をくだらないだと?これだけのことをされて、俺の行動をくだらないと言うのか?」
「そうだな」
「オマエを見込んだ俺がバカだったよ」
「俺がバカなのには違いないが、俺が復讐をくだらないと言うのだってそれなりの理由がある」
「……言ってみろ」
とりあえずは話を聞いてくれるようで。
「まずはお前に聞かせてもらおう。お前は復讐を遂げた後、何かやるべきことはあるのか?」
俺は復讐が嫌いだが、それでも一応許容する復讐もある。
全ての復讐を否定するのなら、俺は黒白凰の復讐も否定していただろう。
しかし、俺はそれを否定しなかった。
それはなぜか。
「心の拠り所もなく、ただ復讐するのみ。それではお前は、復讐を終えた後で死を選ぶだろうな」
絶望に直面した時人はどうするか。
「お前は絶望から逃げている」
怖い顔で睨んでくる男。
しかし気にせず話を続ける。
「復讐は一時的に絶望から己の心を守る手段だ。その後に目的がないのなら、再び絶望が牙を剥く。その時絶望は、より濃いものとなっているぞ?」
「何を根拠に……」
「お前は復讐を成し遂げた時、達成感を得られるとでも思っているのか?」
少なくとも、黒白凰はそれを得られないものと理解して、ブルグルフへの復讐の道を選んだ。
しかしあいつの一番は、ブルグルフではなく妹を守ること。
だから俺はあいつの復讐を看過した。
それでもあいつはあいつでいられる。
それにあいつには、フロストがついていてくれるだろうからな。
しかしこいつは?この男には何が残っている?
聞いた話だと家族全員死んでしまっている。
そんなこいつに拠り所なんてものがあるのか?
「復讐物語は人々から同情や哀れみをもらうだろうな。物語としては多くの人が好んで消費するだろう。だが、実際のそれは実につまらないものだよ。成し遂げたとしても、後には何も残らない。多くの命を奪って、得られるのが受け入れ難い現実のみ。実にくだらない」
「ならどうすればいいって言うんだ!」
「俺が知るかよ」
自分のこれまでを否定されれば、怒るのも無理はない。
「復讐は人を盲目にする。絶望から目を逸らすためにな。だが、それではいずれ絶望に呑まれるぞ」
「復讐を除けば、俺に生きている意味なんてない!」
「そうかな?お前は周りが見えてないだけで、きっとすべきことがあると思うぞ?」
「俺の……すべきこと?」
「現実を見ろ。絶望を知れ。そして思考しろ。そうすれば、きっと見つかるものがある」
「……オマエは何を知っている……?」
「さあな。自分が知っていることを認知し尽くしている人間なんていない。それこそ、天使にでも聞いてみるんだな」
「……何かが、掴めたような気がする」
俺の話が無駄に終わらなくてよかったよ。
「掴めたところで俺を倒せなければそれも無駄に終わることになるぞ?」
元々ここは戦場だ。
俺は戦いたくはないが、敢えて戦いに引き戻す。
何かを掴めたのなら、それを離しちゃいけない。
なら、その印象を濃くすればいい。
つまりは、その原因となった俺の存在を植え付けてやるんだ。
「俺は、死ねない!」
「そうか、なら、俺を倒してみろ」
「……そうだな」
歯切れの悪い返事。
挑発気味に言ったんだが……これは俺の思惑通りかな?
「俺は山斬一刀」
「派世広人だ」
一刀は剣を構えると、視線を大阪の街へと向けて……熟練の戦士ならそれを視線誘導だと思うだろうな。
しかし俺はその視線の先へと駆ける。
三段開門ももう長くは続かないことは分かっている。
だからといってここで追わないのは不自然極まりない。
「……っち」
「舌打ち聞こえてるぞー!」
すでに街へと向かっている男を追う。
不自然な移動だな。
距離が急激に近づいたり遠ざかったりする。
「俺は死ねない!生き残らせてもらうぜ!」
その声に、俺は一刀の希望を感じた。
「こんなことが……」
グレインでも驚きを隠せない。
それほどに、異質な光景。
二体の悪魔が一つになった。
「ヴァイス!」
カッコよくポーズとか決めてるヴァイス兄弟。
兄弟って呼んでいいのかもう分からないけど……
「色々試したいことがあるんでしょ?」
流石に身の危険を感じたあたしは、そう言ってグレインを焚き付ける。
「あれが相手だとそうも言ってられないな。流石の私でも、軽く力を込めなくてはならない」
軽く力をって……
あーもう!考えるのがバカらしくなってきた!
「合体があるならあるって先に言ってよ!」
「なぜ我々に怒る?敵に奥の手は言わないものだろ」
我々……やっぱり合体なんだ。
その力がかなりの強さのものだってことは、誰が見たって明らかだ。
あたしの今の全力では、あれを超える出力は、ない。
本当の奥の手を使えば、この程度はどうってことないけど、それはお兄ちゃんに禁じられてる。
「何かないの?」
あたしの力を分かっているはずのグレインに、多少の援助を求める。
「そうだな……あれは私が試した結果。私もいくらかは力添えするべきだろうな」
「試したって、何を?」
「話の途中で口を挟まないでもらいたいな。しかし、聞かれたからには答えてやる。私はあれらを特別車へとご搭乗させたのだ。口車という特別車にな」
「あ、はい」
「聞かれたから答えたというのに……まあいい。さて、あれを倒そう」
グレインがこうさせたなら、もうグレイン一人に任せてあたしは帰っていいような気がしてきたよ。
「相談は済んだか?我々も忙しい身分なのだ、終わってなくとも始めさせてもらうぞ」
まだ何も済んでなんかいないが、敵は待ってなんてくれない。
ヴァイスは右手を広げその平を空へと向けると、そこには光が集まり出して、小さなツバメを形作る。
白く発光するそのツバメは、手の平から飛び立つと真っ直ぐあたしへと向かってきた。
あたしはさらに高度を上げて、ツバメを躱して様子を伺う。
わざわざツバメの形にしたのだ、これで躱せたとは思っていない。
ツバメは素早く方向転換をし、再びあたしへと向かってくる。
しかしそれをただ見ているだけのあたしじゃない。
その間に放った雷が、ツバメの体に直撃する。
あたしは今度は高度を下げて、再び迫るツバメを避ける。
やっぱり効いてないよー!
再び方向転換に入ったツバメに、あたしは降ろす神さまを切り替える。
効かない力をいつまでも使うのは精神の無駄遣いだからね。
さっきの雷霆であたしの精神はかなり擦り減っている。
今は自我をなんとか保っているところ。
もってあと一撃ってところかな?
しつこく追い続けているツバメに対しあたしが力を使おうと構えると、そのツバメはあたしから狙いが大きく逸れて、あさっての方向で消滅した。
「何が起きた?」
理解が追いつかないのはあたしだけではないようだ。
ヴァイスもその急な展開に驚き、眉を寄せている。
やはりグレイン。
あたしの精神の限界が近いことに気付いているのだろう。
それならもっと早く止めに入ってよ……
グレインは鼻歌を歌いながら空気を蹴ってヴァイスを目指す。
その姿には余裕がある。
グレインが始めから今になっても保ち続けている余裕。
グレインにとって、ヴァイスも取るに足らない相手なのだ。
何せその姿からは、殺気も気迫も闘志も感じられない。
今のグレインは、少し力を込めているだろうが、それはそれで試したいことがあったのだろう、もはやこの場はグレインにとって戦場ではない。
グレインはここで試したいことを試している。
謂わばここはグレインのための実験場だ。
私に、そしてヴァイスに対する、これ以上ない冒涜だ。
しかしそれを通してしまうのが、圧倒的強者だ。
戦場における強者とはそういうものなんだろう。
悔しいが、今のあたしにはこの恩恵に与るしか、ヴァイスを倒す手段がない。
「もっと私を楽しませてくれ」
そうヴァイスの耳元で囁くグレインは、どこか狂気に満ちていた。




