6
――四月。
圭は本件の責任を問われ、昇進は取りやめとなった。
だが、同情的な意見も多かったらしい。それ以上の処分はなされず、予定通り本社へ席を移す運びとなり……営業課には太陽の消えた世界のような静寂が訪れていた。
一方俺の方はと言うと……表向きは“殴られた被害者”であるのだからと、処分などは一切下されなかった。
だが、その事も起因したのだろう。社内での風当たりは一層強まっていた。
傍から見れば、俺は“か弱い女を脅して無理やり手篭めにした不細工”なのだから、当然の事だ。
幾度となく「誤解だ」と説明もしてみたが誰も耳は貸してくれず、むしろその事が余計に火をつける結果となっていった。
美希にも会えないまま、このまま会社に居座り続ける理由も無くなっていた俺は、退社を決意した。
ブラックな部署だったはずなのに……誰も俺を引き留める事はなく、すんなりと退職届は処理された。
送別会も企画してくれる気配はない、いや分かってはいたが……“早く出ていけ”と言う、声なき声が俺の背中に刺さり続ける中――俺は長年過ごしたデスクを引き払った。
最後の出勤日。
滅多に立ち寄る機会もない総務部の扉を叩いた。
取りかえられたばかりの真新しい蛍光灯の光を反射する、鈍色のドアノブを捻りオフィスに足を踏み入れた刹那……それまで飛び交っていたであろう女性社員達の声が消え去り、好奇や嫌悪の視線を向けられた。
「業務上仕方が無い」と言わんばかりに目を背けた事務員に会社支給の品物を全て返すと、刺々しい空気から逃れたい一心で俺は廊下へ飛び出した。
――もう、ここへ来る事は二度とないだろう。
長い廊下をまっすぐに見据えると、俺は足早に立ち去ろうと踏み出した……その時。
「――恭介さん」
可憐な声が、俺の名前を紡ぎ、心臓をも掴む。
振り向いた先で待っていたのは――ぱっちりとした瞳でまっすぐに俺を見つめ、艶やかな唇に笑みを携えた葦原美希、その人であった。
あれだけ色々な事があったはずの……俺と同じ、針のむしろ状態であったはずの美希は憔悴した気配も微塵もない。
どこか清々とした風にも見える美希に駆け寄ると、俺はそれまでの疑念の数々を一気にぶつけた。
「美希! ……なあ、これはどういう事だ? 圭の事――」
「ああ。圭さん? あの人モテるからって調子に乗ってたでしょう? 惨めな思いさせたくって身体張ってみました」
“圭に詰め寄られて、怖くて。つい、出まかせを”
可愛げのある言葉ばかり想像していた俺の頭は、想定外の美希の笑顔に真っ白になってしまう。
俺が間の抜けた顔でもしていたのだろうか。
美希は一笑に伏すと、白い指先で膨よかな胸をその形に添い、手繰ってみせた。
「“女誑しのイケメンが隣の席の不細工に自分の女寝取られる”――つまり、男としての“技”で負けたと言う現実だけが残る……惨めだと思いませんか?」
形の良い胸の、その谷間に吸い込まれるように指先は柔らかい肉に包み込まれる。
美しく、そして妖艶に微笑み、美希は声を潜めた。
「そして、あんたは圭さんへの当て馬になってもらったって事。まさか殴る程怒るなんて思わなかったけど……私を慰めるつもりもなく、ただ“一度だけでいいから”ヤりたかったあんたには十分すぎる報酬は与えたわよね?」
そう、これは“運命の恋”なんて有りふれたものじゃなかったんだ。
全ては、彼女の――葦原美希が仕組んだ事。
友達、仕事、人間関係……積み上げたものが音もなく崩れ去っていく。
「――そもそも、大した気遣いもしようともせずただただヤる事しか考えて無いようなブ男に……ちょっと“アレ”がデカイってだけで全てを受け入れて愛するなんて、あり得ないでしょ? 都合のいい話よね」
汚い物でも見ているかのように侮蔑を隠さない冷たい瞳が向けられる。
愛おしかったはずの彼女が、違う生き物のように思えた。
……気がついたら、俺は昂ぶる感情のままに美希の両肩を掴み押し倒していた。
「お前……っ!! 知ってて――」
「ああっ! いや……誰か助けて……!!」
俺の声をかき消すように、美希が悲鳴をあげる。
しまった、この状況はどう見ても部が悪い――そう思い咄嗟に美希の肩を解放したが、時はすでに遅かった。
近くのフロアにいたらしい男性社員達が俺を羽交い締めにする傍らで、女性社員達は美希を守りその肩を抱く。
男性社員達に両腕の自由を奪われ、遠ざかっていく景色の中で――
――美希は、確かに笑っていた。