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やがて季節は巡り、“春”と呼ぶにはまだ少し肌寒い三月の半ば――期末を迎えた俺の職場はそわそわと落ち着かない空気を漂わせていた。
当然、営業成績の事も由来するが……皆の心を惑わせている最大の理由、それは人事異動だ。
この時期になると、毎年本社からの出向者、昇格、移動の辞令が発表される。
別に俺自身についてはどうという事もない、移動の打診もなければ昇給の見込みもないのだから関係のない行事ではあるのだが……
俺も含め、営業課の多くが興味を持っているであろう事由は本社からの出向者でありエリート街道まっしぐらである圭の動向だった。
昼休み、外で食事を済ませた俺がオフィスに戻ると、既に戻っていたらしい圭を取り囲むようにして女性社員達が悲喜交々(ひきこもごも)の言葉をかわしていた。
辞令が発表されたのだろう、とピンと来た俺は女性社員を傍目に自席につきパソコンモニターの電源を入れる。
全社で共有されたシステムを起動させ、インフォメーショントップに踊る“人事異動に関する辞令”をクリックすると見知らぬ名前がずらりと並ぶリストを流し見ていく。
「佐竹、圭……あった」
俺の目に飛び込んできた文字――それは、圭に役職が付く事、そして本社勤務に戻ると言う旨を知らせる内容だった。
「――あー、キョウくんも見たんか?」
女性社員達から解放された様子の圭が隣の椅子にもたれかかり、俺のパソコンを眺めて言う。
友人の出世は素直に嬉しいものだ。
俺が「おめでとう」と拍手を送ると、圭は口を真一文字に締めたまま辺りに目配せし……何故か声を潜めた。
「……帰り、ちょっと時間ある?」
一瞬、“何故声を潜めるのか”と疑問に思ったが……周りには先程まで圭を取り囲んでいた女性社員達が噂話に花を咲かせているようだったので、恐らく気を使ったのだろうと納得し、美希と会う予定もなかった俺は圭の願いを二つ返事で了承した。
□■■□
定時で仕事を片付けた俺は、会社の駐車場で圭の到着を待った。
本社への移動が決まった圭は世話になった取引先への挨拶回りに駆りだされ、定時ギリギリまで車を走らせていたからだ。
少し待っただろうか、車が少なくなり始めた頃――速度違反気味な一台の車が駐車場内に流れ込み、中から普段より真面目な雰囲気の圭が飛び出し俺の方へ走ってきた。
俺を待たせた事を気に病んでいるのだろうか、それならば気にしなくても良いのに……
アスファルトを踏みしめる革靴の音が目の前に辿りついた、その瞬間――脳天に突き抜けるような衝撃が俺の思考回路をぶった切った。
揺らぐ視界に電気のような、星のようなものがちらつき……スローモーション映像のように白黒の世界が歪んでいく。
アスファルトに打ちつけた尻や背中の痛みより、まず先に俺の元を訪ねてきたのは口いっぱいに噎せ返る鉄臭い独特な風味。
コロコロとした固いものが舌の上を転がっていく……奥歯が数本、その役目を終えてしまったようだ。
遅れてやってきた頬の痛みを無事な手の平で温めながら、打ちつけた身体に鞭を打って起こす。
チラついていた星が消え始めた俺の視界には、ゆっくりと歩み寄る圭の足が見えた。
「――よお、エライ色男になったやんか?」
足が言う事を聞かない。
跳ね起きて、「気でも狂ったか」と一発お返ししてやりたい気持ちだけが心臓の奥で空回りしていて、声も出ない。
目線を合わせるように圭は俺の前にしゃがみ込むと、俺の前髪を鷲掴みに捉え、無理やり立ち上がらせようと持ち上げた。
「まさかな、と思っとったが……ミキが白状しおったで? ……お前がそんなクソやと思わんかったわ」
髪を掴んだまま俺の顔を見下す圭の顔には、いつもの飄々とした笑顔も、人懐こさも微塵も残っていない。
心臓が爆発してしまうのではないかと思うほど身体を打ち鳴らす。
髪を掴まれる痛さも、股を伝いズボンに広がっていく生温かい感覚も……気にしている余裕を与えられないまま、圭は俺をつき飛ばした。
「おいおいおいチビんなや……こんなしょーもない男に、ミキ寝取られたんか? 情けない……」
再び尻もちをついてしまった俺を見下すと、圭はため息を落とす。
……ミキ? 寝取る?
同じ日本語を喋っているはずなのに、よく知った単語のはずなのに……何を言われているのか、何を怒っているのかが理解できない。
“何の話をしている? 俺は分からない”
その一言を口にしたいだけなのに、口を開けばカチカチと前歯が音を立て、鉄の匂いが鼻をついた。
――俺の体は、口も、手も足も言う事を聞かないままだったが、耳だけは仕事をし続けていた。
遠くで「何をしているんだ」と呼ぶ誰かの声が聞こえた。
退社時刻を過ぎたと言っても、まだ社内に人は残っていたらしく、その誰かが俺のザマを見つけたんだろう。
刑事ドラマなんかでは、犯人は逃亡するのが常套的だが……圭は逃げも隠れもしなかった。
――その代わり。
「キョウくんは真面目な男や思うとったんに。目の前の快楽しか見えとらんやったんやな? 見損なったわ」
どこか悲しげな一言を置き去りに……圭はやってきた男性社員達に連れられ、どこかへ去っていった。
□■■□
――目撃者が少なかったとはいえ、今回の出来事はすぐに広まり、会社中の話題になってしまっていた。
俺は奥歯二本、背中の打撲程度で済んだ為、数日休んだ後に職場復帰した。
だが、俺を待っていたのは温かい歓迎でも、体を案ずる優しい言葉でもなく、白々しく冷たい視線だけだった。
伝え聞いた話になるが……今回の出来事の発端、圭が激昂した理由というのは「圭という彼氏がいる美希を、二人が付きあってると知りながら俺が寝取った」という事にあるらしい。
圭は、美希から別れ話を切り出されてなどいなかった。
圭側の言い分をまとめると、美希の様子がおかしいと感じ始めたある日、居酒屋に勤める元カノから連絡があったのだと言う。
“圭がこの前連れてきた新しい彼女さんが、他の男と親しげに飲んでいるけど大丈夫?”と。
別れた後も、友人の一人として良好な関係を紡いでいた元カノが悪辣な嘘を吐くとも思えず、また、美希が自ら進んで不埒な振舞いを重ねているとも思えなかった圭は、“相手の男とやらに理由があるのではないか”と考え始めた。
圭が疑惑を募らせる日々の中でも、俺と美希は件の居酒屋で心を通わせていた。
少しずつ固まっていく元カノの証言や、目撃されていたらしい“車中での行為”が決定打となり、圭は美希を問い詰めたのだ。
――そして。ここからは自分でも耳を疑ったのだが……
圭に問い詰められた美希の答えは、涙ながらのこの言葉だったらしい。
「圭さんとの関係を……社内でも人気のあるあなたとの関係をばらされたくなかったら、抱かせろって脅されて……怖くって、つい従ってしまいました」
美希は、“圭と別れる”と言い、“一人になりたくないから”と俺を求めた。
いや、そもそも圭の元カノが勤めているって言う居酒屋だって“圭と来た事はない”と言っていた。
どこからが彼女の嘘だったのか?
悪意の嘘なのか? その場限りの誤魔化しだったのか?
俺に見せていた笑顔と、圭に重ねた言葉……どちらが“美希”の心だったのか――
圭の証言だけが受け入れられた社内に居場所はない。
針のむしろ状態の俺は“被害者”である美希に近寄る事も許されず、真相を確かめる事は叶わなくなってしまっていた。