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――その後もアルコールを摂取しなかった俺は、コインパーキングに待たせていた愛車にエンジンをかけて車内を温める傍ら……
助手席に散らばる充電ケーブルを後部座席に追いやり、内側からドアを開ける。
控えめに乗り込んだ葦原さんの道案内で俺は車を走らせ始めた。
……目的地は聞かなかった。いや、聞くに聞けない空気である気がして、聞けなかった。
車内のデジタル時計はまもなく二十二時を迎えようとしている。
こんな時間まで、二軒目の店など開いているのだろうか――俺の頭の中には猜疑心と期待感が競い合う。
繁華街を抜け、街を縦断する大きな川沿いを走り始めた頃、葦原さんは「あそこが良い」と目の前のビルを指差した。
予想はついていた、と言うか期待していた展開だったと称するべきか……目の前の光景には特に驚かなかった。
「あ、葦原さん飲みすぎたんじゃないかな……ここは流石に駄目だよ」
幾多の窓が規則正しく並んでいるが、そのどれもが光を閉ざす。
その代わりにブルーのライトが建物全体を妖しく照らしている。
看板に掲げられたお洒落な横文字の意味はよく分からないが、その横に派手派手しく踊る「休憩 1時間〜」の文字が“何をする施設であるか”を暗に示していた。
「“もう少し付き合ってくれる”んでしょう? 今だけでもいいから、下の名前で……“美希”って呼んで……お願い、独りにしないで……」
彼女の可憐な声が震え、縋るような瞳からは止めどなく涙が零れ落ちていく。
良い男なら、ここで上手い救いの言葉を与えて涙を受け止めてやれたのかもしれない。
今の俺に出来ることは何もなくて……
気がつくと俺は人生初の――駐車場の入り口に備え付けられた謎の黒いビラビラを潜っていった。
――そこからの展開は想像に容易いだろう。
詳細に描写してしまうと、どこのとは言わないが規約に引っかかってしまうので割愛させて頂くが、一言で言うとすれば“キモチイイ”に尽きる。
こういったホテルは勿論、なにもかも初めてだった訳で……彼女の気は収まらなかったのでは無いか。
一気に冷静さを取り戻してしまった頭をそんな不安が埋め尽くしていったが、キングサイズのベッドの真ん中で白いシーツを握りしめた彼女が――
――滑らかな曲線を保ったままの谷間に流れた白濁のそれに指を這わせ「こんなの初めて」とグロスの落ちた唇に確かな笑みを湛えていたので、きっと同じ気持ちでいるのだろうと思うことにした。
時計の針はちょうど日付が変わる頃を知らせる。
来た時は色々余裕が無くて気付かなかったが、よく見るとテーブルにはこれ見よがしに宿泊約款が置いてあったようだ。
そろそろ宿泊の料金に変わる頃ではなかろうか……
“フリータイム”に比べると格段に上がる価格表とにらめっこしていると、ベッドが軋む音が意識を削いだ。
「……私、圭さんと別れます」
相変わらず消えそうな儚い声。だが、確たる想いがこもった可憐な声に振り向くと、目が合った葦原さんは少し悲しげに笑った。
「だけど……独りになるのはまだ、怖い……ねえ、逢瀬川さんもう一つだけお願いがあるの――」
――彼女の願い。
それは俺にとって都合の良い話であった――
その日から、俺と彼女の“関係”は始まった。
とはいえ、表面上は何も変わらない。
俺はそれまで通り早朝に出勤してきては仕事に追われ、気が向いた時に圭はコーヒーをお供に手伝ってくれる。
いつもと変わらない日々を過ごす傍らで週末になると会社帰りに葦原さんと待ち合わせて、いつものおしゃれな居酒屋で腹と喉を満たし、その後はその時の気分で“休憩場所”を決める――
そう、彼女からの願いは“彼女にとって都合の良い関係”を受け入れてほしいというものだった。
葦原さんは、精神的に弱ってしまっていた。
一人になると自然と涙が溢れ、止まらなくなるのだと言っていた。
会社では職務の事、同僚の話、後輩の相談などで気を紛らわせる事が出来る……だが、家に帰るのが辛いのだと……。
相変わらず優しい言葉をかけてあげる事すら出来ない、不甲斐ない俺に出来る事と言えば、弱っている彼女の心に空いた穴を埋めるくらいなものだった。
圭からは直接聞いていないものの、葦原さんが言うには「すんなりと別れに応じた」らしいので、俺の予想通り圭は彼女に飽きていたのだろう。
今までと何一つ変わらず飄々と振舞う圭の姿を横目に、いつしか葦原さんに対する同情の念は“違う感情”へと形を変えていった。
それは、彼女も――美希も同じだったのかもしれない。
関係を持ち始めた当初の美希は、居酒屋の座敷に入るなりさめざめと泣いていたのだが、いつしか涙は止まり、徐々に笑顔を覗かせるようになっていった。
本来の明るさを取り戻しつつあった美希だが、その場限りの感情では無かったらしく“関係”は続いている。
近隣のホテルに飽きが来て俺の部屋や車中で、とレパートリーを増やしてしまう程までに俺たちはお互いの身体を味わい尽くしていた。
そう……好奇の感情は同情へと変わり、やがてそれは“恋”になっていった。
この恋は運命だと、思った。