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その日の仕事内容は覚えていない。
二つ返事で了承したあとすぐに葦原さんは仕事に戻り、圭も出社してきたと思う。
何も知らない圭はいつも通り俺に話しかけていた気がするが、正直どう返答したかも思い出せない。
もしも今日「お前、俺に借金したよな」なんて言われたら、言われるがままにその額面を支払っていただろう。
それくらい、うわの空だった。
退社時刻、デスクの上にはまだ仕事が……文字通り山積みだったが、明日早朝に出勤して片付ければ良いだろうと自信を納得させると、残業するつもりだったらしい圭に適当な言い訳を返し会社を後にした。
社員専用駐車場に戻ると、逸る気持ちを悟られないようゆっくりとアクセルを踏み……俺は会社を後にした。
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クリスマスは終わってしまったけど、街はまだイルミネーションが幻想的な煌めきで忙しない人々を照らしている。
コインパーキングに車を待たせ、駅前のモニュメントの前に走ると小柄な彼女の姿を探した。
「逢瀬川さんさえ良いなら……誰の邪魔も入らないところで話ししたい」
“あわよくば、一度だけで良いから”……
下衆な気持ちもなくは無かったが、友人の彼女なのだから……向こうもそんなつもりはないのだろうと頭の中で幾度となく反復し自身の心を落ち着かせる。
指定された待ち合わせ場所を見渡せども葦原さんの姿は見当たらない。
実は、テレビでよくある「ハニートラップ」で、物陰で圭が見張っていたらどうしよう。
そんな気持ちも同席していた俺は、見られていても恥ずかしくないように締まらないなりにも口を真一文字に結び、あくまで冷静に彼女を待つ事にした。
「――ごめんなさい! 終わり間際に仕事が入っちゃって……」
葦原さんが到着したのは待ち合わせの五分後だった。
経理課と言うが、外部からの電話応対も請け負っている部署だからイレギュラーな業務も日常茶飯事。
寒い季節であるにも関わらず額に薄っすらと汗を滲ませた彼女を、怒る気持ちになど到底至らず俺は首を横に振って笑顔を返した。
――俺達は挨拶もそこそこに、葦原さんがよく行くというオススメの居酒屋に向かった。
こういう時にお洒落なバーをサッと紹介出来たら格好いいのだろうが……御多分に洩れず牛丼屋くらいしか行きつけの店を上げられない俺は、彼女の先導で暖簾をくぐる。
居酒屋と言っても、俺が同期の仲間と行くような仕切りも壁もない雑多なチェーン店ではなく、洋燈の薄明かりと黒を基調にしたモダンな個室がズラリと並ぶ、葦原さんによく似合う小洒落た店だった。
若い店員に案内され個室の座敷に通されると、四人席の丸テーブルに向かい合い座る。
少し低めのテーブルに葦原さんは慣れた手つきでメニュー表を広げてくれたが……
身を乗り出した彼女の、たわわな二つの房がその身を休めるようにテーブルに乗っかっていた為、正直メニューよりそちらに手を伸ばしたい衝動に駆られてしまっていた。
お腹が空いている葦原さんの為に一品物の料理を数種類と自分用のおつまみと。そしてアルコールを注文し終えると、まずはドリンクの到着を待つ。
聞けば、約束したこの日に限ってイレギュラーな仕事が多く、待ち合わせ時間に間に合わせる為に昼食も取らずに仕事を片付けていたらしい。
そこまでして俺との時間を作ってくれた事……
その健気さやいじらしさには愛おしささえ覚え、同時にあんな悲しげな涙を流させる圭に怒りを感じた。
「あのね、圭さんの事で聞きたいこととかありまして……」
店員が運んで来たドリンクを受け取り、立ち去っていった事を確認すると葦原さんは消えそうな声でそう紡ぐ。
やっぱり、圭の事で悩んでいるんだろうな。
何かを思い出したように俯き涙を堪える彼女に、俺が出来ることといえばドリンクと一緒に添えられたお通しを勧めるくらいだった。
「ありがとうございます……あの、圭さんって、モテるんでしょ? 最近、中途で入ったうちの課の子がそう噂してるの聞いちゃって――」
葦原さんの大きな瞳が真っ直ぐに俺の不出来な顔を見つめている。
俺は「そうだよ」と「そんなことないよ」の二択の……そのどちらの返答が正しいのかすぐに答えが出せずに、逃げるように自分が頼んだノンアルコールを煽った。
「ああ、まぁ……あいつノリが良いから、年齢問わず女性社員に人気ありますよね」
店の雰囲気がそうさせるのか、ノンアルコールドリンクのはずなのに頭がぼんやりとするような錯覚に陥る。
ほんの少し軽くなった口でそう答えると、葦原さんはため息をグラスに白く溶かし、チェリーブロッサムを傾けていた。
「やっぱり……そう、ですよね。……出会った時も……研修の時も、他の支社の女性に囲まれてましたから。……その中で、私を選んでくれたって……そう思ったけど……私も遊びだったのかな……っ」
カクテルと言えど、そこそこアルコールが強いのかもしれない。
それまでの思い悩んだ日々を、溜め込んで来た感情を洗い流すように彼女の瞳からは止めどなく涙が溢れ落ちていく。
途中、店員が料理を運んで来たが人目を憚らず嗚咽を漏らす葦原さんの姿を見るなり、配膳もそこそこに逃げるように去ってしまっていた。
「そんなこと、無いと思います」
楽しい方が好きで、束縛を嫌う圭の事だから、“遊びだった”とかではなく、単純に飽き始めているのかもしれないと言うのが俺の見解だった。
それは本心からの言葉ではなかったが、彼女の気持ちを思うと、この言葉しか掛けられなかった。
「あ、葦原さんは真面目で一途な人だと思うから……圭のヤツ、安心しきってるんじゃ無いですかね」
“葦原さんは可愛いから”
喉まで出かかった言葉を飲み込み軽い調子で言ってみると、心なしか彼女も笑ってくれた気がした。
「逢瀬川さんって優しいんですね……同期なのに、今まで知らなかった」
向かい合っていた葦原さんが、姿勢良く座っていた足を崩すと俺のすぐ隣に肩を寄せる。
整髪料かシャンプーか、はたまた香水なのかは分からないが花のような可憐な香りが脳を刺激し、肩に触れる柔らかな感触はズボンの中を緊張させるには十分すぎる材料となっていた。
「ま、まずいですって葦原さん……こ、こんなとこ会社の人に見られたら」
近過ぎて顔も見ることが出来ない葦原さんから身を仰け反らせると、追いかけるかのように彼女も柔らかな四肢を寄り添わせる。
リキュール特有の甘い匂いを纏った彼女は「大丈夫です。社内では圭さんとのお付き合いは内緒にしていますし、このお店に圭さんと来たこともありませんから」と微笑んだ。
「ねえ……逢瀬川さん。この後もう少しだけ、お付き合い願えますか?」