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――それは、“運命の恋”なんて安っぽい言葉で片付く話では無かった――
まだ日も登り切っていない午前六時、重力と怠惰に沈みかけたままの体にガソリンを補給するようにブラックのコーヒーを流し込む。
カフェインの効果なんて微々たるものかも知れないが、サブ……なんとか効果だ。
信じるものは救われる的なアレで徐々に働き始めた指先で鍵を解錠すると、まだ暗闇が支配するオフィスに明かりを灯した。
俺の名前は逢瀬川 恭介。
難事件を次々と解決していそうな名前だが、別にそんなこともない。
ごく普通の……いや、それ以下かもしれない、しがない会社員だ。
自分で言うのも何だが、名前だけはイケメンだと思っている。
友達の結婚式の席次表で俺の名前を見たと思しき独身女性達が、挙って接触してくる程度にモテるのだから。
だが、現実は残酷なもので――
完全に名前負けした俺の姿を見るなり、出会いに飢えているはずの“良い年齢の”女性達でさえ、苦笑いでお茶を濁して挨拶もそこそこに立ち去っていく。
はたから見たら失礼極まりない待遇なのだろうが、学生の頃からのお決まりのリアクションであったのですっかり慣れてしまった。
それに、俺がもし女の立場だったら……例え一億円貰えるとしても“俺”とは付き合わないだろう。
それが分かるからこそ、俺は諦めていた。
ブラックな生活習慣に由来するのか、潰れてはまた復活する額と頬の吹き出物、生まれつきの一重まぶた、そして目つきの悪さを存分に演出してくれる皆無に等しいまつ毛……。
然程酷い顔ではない両親から悪い部分だけを集めて継承したかのような、どうにもならない醜悪なツラを誰が愛するものか。
――そう、それが俺の“運命”だと、諦めていたんだ。
「うへぇ、キョウくん今日もはっやいわ〜“プロ社畜”っちゅうやっちゃな!」
無心でデスク上に散らばる書類を案件毎に振り分けていると、聴き慣れた掠れ声がフロアに響き渡る。
朝っぱらから軽妙な調子のこの男は、佐竹 圭――生粋の関西人だ。
「“プロ社畜”なら、会社に寝泊まりしてるだろ……家に帰って寝る時間があるだけ、俺はまだアマチュアだよ」
「いやいやいやいや、キョウくんなぁ、それは君の家が徒歩圏内のマンションやからやろ? 似たようなもんやん!」
圭は関西の本社から出向して来ている役職者候補、つまりは出世街道まっしぐらのエリート中のエリートなのだが……
俺の席の右隣に席がある上、彼と気さくな性格が手伝ってかこうして早めに出勤する俺に合わせて出勤して来ては飲んだばかりのブラックコーヒーを差し入れては仕事を手伝ってくれる、近頃仲のいい男だ。
「――ありがたいけど、俺さっきコーヒー飲んだよ」
「一杯も二杯も変わらんで! 飲めるだけ飲んどきいや」
「はは、朝から圭は元気だなあ……」
「せやろ、最近新しい彼女出来てん」
「……また!? え、この前の居酒屋店員の子は」
「あれ、言ってへんかった? 別れたで」
関西のノリなのか、はたまた本人の気質自体がそうさせているのか……圭は俺と正反対でよくモテる。
軽妙なやりとりの中に垣間見える気遣いは勿論の事、整った眉毛に鷲鼻の彫りの深い顔の造形、二重まぶたにまっすぐ長いまつ毛……例えるならアイドルのような美しさではなく、イケメン俳優のような男も羨む出で立ち。
エリートである上に顔も良く、元々はサッカーをやっていたらしく引き締まったしなやかで男らしい姿。モテない方がおかしいというものだ。
俺が優ってる部分を上げるとしたら以前社員旅行で行った温泉で確認した男の象徴……いや、その話はやめておこう。
彼は俺と同じ業務をこなしているが、俺とは違い多忙な日々の中でも彼女が絶えることは無いのだ。
「本当に圭はモテるなぁ」
「いやー褒めても分けてやれんで」
「分かってるよ! くそうぜぇ」
圭は俺の背中をさすり笑い飛ばすと、スマートフォンを取り出し操作し始める。
アメリカ産アニメのキャラクターデザインのシリコンカバーで飾り付けた、持ちにくそうなスマートフォンを俺に向けると、圭はにんまりと笑った。
「――ほれ、この子。新しい彼女のミキちゃん。知ってるんやろ? ミキもキョウくんの事見たことある言うてたで、……どや、ミキの友達紹介したろか?」
圭に言われるがままに俺はスマートフォン一面に表示された画像に目を落とす。
付き合ってどれくらい経っているのか分からないが、“男女の一線”を超えていそうな距離感で密着した圭の隣で幸せそうに笑う女性に、俺は見覚えがあった。
「この子……同期の」
葦原 美希。
俺と同期入社で、経理課の女性だ。
同期とはいえ、別に大して話ししたことは無いのだが……俺は半ば一方的に記憶していた。
葦原さんは他の女性社員の中でも頭一つ低い、小柄な印象の女性。
小柄でありながら胸元は他の社員を圧倒する程にはっきりと主張をし、会社規定のワイシャツがはち切れんばかりの二つの山を“土砂崩れ”しないよう守る姿は、男なら誰もが目を見張る光景であろう。
……こればかりだと、俺がただの変態みたいに聞こえるだろうから補足させてもらうが。
葦原さんは顔も申し分なく可愛い。
咄嗟に思いつく芸能人はいなかったが、大所帯のアイドルグループに紛れていても違和感ないどころか、むしろ固定ファンがついてそこそこいい順位を張れるんじゃないかと思えるほどだ。
パッチリとしたタレ目がちな瞳に日本人らしい小ぶりな鼻、グロスで煌めくぽってりと膨らんだピンクの唇、穢れを知らない白い肌――
同期の男性社員はもちろん先輩社員や壮年の役職者まで……彼女に好意の視線を向ける男は少なくない。
だが、浮いた噂一つなく、今どきの派手な女性とは一線を画した美しさを兼ね備えた女性、それが葦原 美希なのだ。
当然俺も、好意が無かったと言えば嘘になる。
“あわよくば、一度だけでいいから”……邪な考えはあったが、無理だと諦めていたからこそ、圭の事を憎む気持ちは無かった。
美男美女カップルの誕生を俺は素直に願う気持ちになっていた。
「そそ、この前社外研修で一緒の班になって、意気投合してなぁ。キョウくんと仲ええって言うたら向こうも覚えてたっちゅうな!」
「そっかあ……」
圭が口にした社外研修――それは、関西の本社で年に一度執り行われる、会社の未来を担う若手の育成を目的にした研修のことだろう。
次の人事では役職が付くであろう圭は勿論だが、上からの評価の高い葦原さんも召集されて然るべきだろうと容易に納得できた。
スマートフォンのモニターの向こう側で笑う葦原さんの姿を眺めているうちに、入社当時のまだ学生気分の抜けていなかった辿々しい敬語に振り回される彼女の姿がフラッシュバックし……
圭の話は右から左へと頭をすり抜けていった。