〔8〕
小さな入り江の船着き場から、小高い丘に続く坂道を登ったところにペンション『ゆりあらす』はあった。
シーズン中は親子連れの海水浴客などで賑わうが、この時期は、ひっそり釣りを楽しもうという年輩客が訪れるくらいである。食堂片隅のカウンターでは、そんな風体の男性客が一人グラスを傾けていた。
オーナーの田村が、優樹を預かっている理由。それは母親が田村の妹であり現在病気療養中で入院していることと、今は亡き父親がどうしても叢雲学園高等部に優樹を通わせたがっていたからだ。
横浜には優樹の父親の実家があり、一つ上の姉が祖父の元から叢雲学園の姉妹校に通っている。
優樹も事あるごとに呼ばれていたが、その祖父を嫌っているらしく、まったく応じようとはしなかった。
長い髪を綺麗にまとめ上げ、こざっぱりとした服装に黄色いエプロンをした三十代半ばの女性が、暖めなおした夕食を遼と優樹の前に置いた。立ち上る匂いは遼の好きなロールキャベツだったが、すぐに手を付けることが出来ない。
「お腹、空いたでしょう。お代わり、たくさんあるわよ」
田村の妻、小枝子が微笑んだ。
田村由起夫と遼の母である秋本千絵、そして叔父である大貫直人の三人は少し離れたテーブルで小声で何かを話している。
と、突然、千絵が顔を覆い泣き崩れた。
席を立った田村が、優しく千絵の震える背に手を置くと、遼と優樹のいるテーブルに来て座った。
「……二人に話すことがあってね。お母さんは反対したんだけど、もう君たちも子供じゃないだろうと解ってくれたようだ」
田村は沈痛な面持ちで、口を開いた。
「石膏像の中から見つかったあれは、おそらく遼君、君のお姉さんだ」
遼は、すうっと血の気が引いていくのを感じた。
首の後が冷たく、テーブルに置いた手には感覚がない。空虚になった心に言葉がぽつりと浮かび、朱い染みとなって広がった。
何故? どうして? 何が起きている?
失神してしまいそうなくらい、気が遠くなった。しかし踏みとどまり、目を閉じ深く息を吸うと、不思議なことに冷静な思考が戻っていた。
「僕に、姉がいたんですか?」
尋ね返した声は、自分でも意外に思うほどしっかりしていた。
少し驚いた顔を向けた田村は、気を落ち着けるように一呼吸すると言葉を選んで、ゆっくりと話し始めた。
「君のお父さんと出会う以前に、お母さんは一度結婚していたんだよ。事情あって別れることになったのだけど……実は、その人との間に女の子が一人いて、父親の方が引き取ることになったんだ」
既に千絵は泣いておらず、心配そうにこちらを見ている。しかし、自分から話すことはやはり躊躇われるようだ。
「お姉さんの名は、江里香。千絵さんが前のご主人と別れたとき、八歳だった。離婚から四年後、お母さんは今の御主人と再婚して君が生まれ、お母さんのところによく遊びに来ていた江里香も弟が生まれたことを、とても喜んでいたんだ。ところが……」
先を続けることを躊躇い、田村は口ごもった。すると変わって、後から席を立った大貫が口を開く。
「……遼君、お母さんは君が三歳になったとき江里香に、もう会いに来ないで欲しいと言ったんだ」
千絵は再び、顔を手で覆った。低く震えるような嗚咽が指の間から洩れる。小枝子がその肩を、そっと抱いた。
「江里香は十五歳……新しい家庭のことだけ考えていきたいという母親の気持ちが理解できる年齢でもあったし、何より優しい子だった。だが、やはり近くにいたかったのだろうね。高校は叢雲学園を選んだんだよ。そして江里香が二年生の時、事件が起きた」
大貫の口調は静かだが、激しい怒気を含んでいた。犯人に対する、抑えきれない怒りがあるのだろう。
田村が、千絵を庇うように続けた。
「もし自分が江里香を拒絶しなければ、叢雲学園に入ることもなかったと、お母さんはずっと後悔してきた。大人になった姉を、改めて君に紹介していたのに……と」
遼が江里香に懐つけば懐くほど、十二歳年の離れた姉の存在を説明することが難しくなると、千絵は心配していた。このまま二人を引き離し、遼が高校に入って物事を冷静に受け止められるようになってから話した方が良いと決断したのだ。
遼には、幼いときに遊んだ姉の思い出が無かった。
しかし、あのビジョンを見たときに感じた懐かしさは記憶のどこかに、その姿を焼き付けていたからかもしれない。
「もう遅いわ。食事を済ませて、お休みなさい」
小枝子が我が子を諭すような少し強い口調で二人に声を掛けると、素直に遼と優樹は食事に手を伸ばした。既に冷たくなってしまった料理を再び暖めようとした小夜子を断り、半ば無理矢理口にほおばる。
しかしいつもの味を感じることは、できなかった。