〔1〕
美術室、西側の窓は開いたままだった。
透明で涼やかな秋風が運んでくる波の音は心地良いし、時折断崖を伝ってこの高台まで吹き上げてくる湿った潮の香も嫌いではない。
しかし、そろそろ風は冷たさを増し波の音も荒くなってきたようだ。
気が付けば窓から射し込む西日が、イーゼルの長い影を白いモルタルの壁に黒々と映しだしている。
秋本遼は、デッサン用の木炭を走らす手を止めた。
重なり合った灰色の雲の隙間が、血のように鮮やかな緋色で縁取られた水平線。
それは我が物顔で天空を走る太陽が、地の底に引きずり込まれる瞬間にあげる断末魔に思えた。恐ろしいほど美しい、この眺めが遼は好きだ。
椅子の背もたれに掛けてある制服上着の内ポケットから取り出した携帯は、四時三五分を表示していた。
文化祭のテーマに選んだ教室西からの光で陰影をつけたデッサン画は、製作時間に制限がある。いまさら悔やんでも仕方がないが、これほど日の傾きが早くなっては来月末の文化祭に間に合うかどうか。
後は記憶を頼りに進めて、仕上げで補正するしかなさそうだ。
デッサン画を丸めてケースに納め、イーゼルを壁際の定位置に置く。デッサンモデル「アキレス」は他の石膏像の並ぶ棚に戻さなくてはならない。
美術部顧問の教師、八街哲夫よりも備品の管理について口やかましいのはもう一人の美術教師、成田智子だ。使用したものを元の位置に戻しておかないと次に使いたいときに嫌みを言われてしまう。
本来土曜日は三時以降美術室の使用が禁止されているのだが、文化祭が近いため八街が責任者の成田に頼み込んで、ようやく五時まで開けておいてもらえることになった。
重い石膏像を両腕で抱え、壁に固定された八〇センチほど奥行きのある頑丈な木製の棚に戻す。
そのとき、つま先が何かを踏んだ気がして遼は棚の下をのぞき込んだ。
奥に黒い布に覆われた、胸像らしき物が置いてあるのが見える。棚の下から出ていたのは、その布の端だった。
新しい、備品だろうか? 見覚えが無い。
布の中身に興味をそそられ、棚の下に潜り込んで手を掛けようとした時。
『見ないで!』
誰かが頭の中で叫んだ。
突然、全身に冷たい戦慄が走り、全ての体毛が逆立ってゆく。
開いた毛穴から虫がはいだし体中をうぞうぞと這い回るようなこの感覚。久しく忘れていた、忘れていたかったこれは……。
……くる!
目の前が白く輝く。
ホワイトアウト。
フラッシュ・バックする音、場面。
女の子、制服、笑顔、困惑、恐怖、懇願、叫び。
ブラックアウト。
呪縛から開放された途端、冷たい汗が脇を伝い落ちた。
厭だ……、もう見たくなかった……。
蹲り膝に顔を埋める。目の奥が熱く、刺すように痛んだ。