第二十五話 『ドッグデイズ』 3. 夕季の勇気
昼休みに楓は友人らと購買所に出向いていた。食後のデザートを購入するためである。
お気に入りの鬼饅頭を取ろうとしたところで、その手が別の手に触れた。
「あ……」
夕季だった。
じっと見つめ合う二人の後方で、友人達が軽く引く。
「……あ、古閑さん、こんにちは」
二人とも一瞬の硬直があったものの、楓がにっこり笑いかけると、夕季も眉を寄せながらお辞儀してみせた。
『芋ういろ』と書かれた鬼饅頭に手を伸ばし、また引き戻す夕季。やがて何かを決意した様子で口もとを引きしめた。
友人達と空きテーブルにつき、大口をあけた楓が鬼饅頭にかぶりついたその時、消え入りそうな夕季の声が横から聞こえてきた。
「……桐嶋さん」
鬼饅頭をくわえたまま楓が振り返る。
すると真顔で楓を見つめ、かすかに眉を震わせながら夕季がそれを口にした。
「また帰りにジョトを触りに行ってもいいですか」
突然のことにふいをつかれたように動きを止め、不思議そうに眺めていた楓だったが、すぐに嬉しそうに夕季に笑いかけた。
「いいよ、いつでも来てね。弟達には言っておくから」
「……。ありがとうございます……」
「今日来る?」
「う!」ほっと一息つく間もなく、夕季が嬉しそうにピクピクと顔をうごめかせた。「……お願いします」
「あ……」
「……」それから、はっとなり、凝視していた楓から恥ずかしそうに顔をそむけた。「……睨んでませんから」
「……あ、そう」
夕季が去っていくや、すぐさま友人達が感心したように楓に群がってきた。
「今の、二年の古閑って子だよね」
「うん」
「すごっ!」
鬼饅頭を口にくわえ何気なく頷いた楓に、二人が目を丸くして食いつき始める。
「先生達でも引いちゃって、おっかなびっくりしてるような子なんだよ。あんな子まで手なづけちゃったんだ。マジすご、さすが楓様」
「別に手なづけたわけじゃないし……」
「最近すっかりおとなしくなったかなと思ってたけど、やるね。さすが桐嶋ちゃん」
「そんなのじゃないって。だいたい彼女は私がどうこうできるようなレベルの人じゃないもの」
「あらら、楓様ともあろうお方が、随分弱気だねえ」
「でもさ、霧崎君といい、さっきの古閑って子といい、桐嶋ちゃんってやっぱりすごいと思う。てゆうか、怖い」
「……」
鬼饅頭をくわえたまま、複雑そうな表情で楓が眉を寄せる。
その時光輔が通りかかり、楓に手を振ってきた。
すかさず手を振り返す楓を眺め、友人達がうんうんと頷きながら腕組みをしてみせた。
「あんなどうでもいいのにまで手をさしのべてるし」
「……」恨めしそうに友人を眺める。「別に……」
「どうでもいいけど、いつまでそれくわえてんの」
「あ……」
規定の終業時刻となり、通常業務の職員達は帰宅の準備へととりかかる。
コントロール・センターでも交代要員や残業をする者達を除き、多くの人員が週末の職場を後にしようとしていた。
忍もまた、すれ違う同僚達と挨拶を交わし、煩雑で広大な仕事場からようやく解放される。
やや申し訳なさそうな様子で顔を向けた先に、仏頂面のショーンの姿を見かけ、挨拶に向かった。
「お疲れ様です」
「ん……」ちらと忍を見やり、ショーンが覇気のない声を発する。「お疲れ様」
そのぶすっとした面持ちに、忍が戸惑いの表情になった。
初対面の時から忍は、どうにもこの男のことが苦手だった。
「あ、小田切さんもみなさんと飲みにいかれるんですか。私もさっき情報処理班の人達に誘っていただいて。金曜ですしね」
話題合わせのために、たいして興味もないのに質問を投げかける。
するとショーンの仏頂面がさらにレベルアップしたようだった。
「どうして僕がそんなところに行かなければいけないんだ。誘われてもいないのに」
「……」しまった、という顔になる忍。
それからショーンは腕組みをしながらそっぽを向いて、あきれたようにため息をもらした。
「どのみち誘われても断るけれどね。それがわかっているから、彼らも何も言ってこないみたいだ」
「はあ……」
またちらとショーンが忍の顔を見た。
「君は行くのか」
「いえ。私は妹の世話をしなければならないので」
するとショーンの口調がわずかに軽くなったようだった。
「妹って言っても、もう高校生なんだろ。そんなの自分ですればいいじゃないか。君も奴らと一緒に行くのが嫌で、断ったクチなんだろ」
「いえ、そういうわけでは」
「じゃ、何」
ふいに忍が目を伏せてもじもじし始める。何度も拳を握り直し、やや自嘲気味にそれを口にした。
「私が妹にしてやれることなんて、それくらいしかありませんから。つらい時に、ずっと淋しい想いをさせてしまったし。本当に駄目な姉なんです。そんなことくらいで許されるとは思ってませんけど、私にできることなら、何でもしてあげたいんです。少しでも彼女の役に立ちたいから。たまには同世代の人達と飲みにいくのもいいかな、とは思ったりしますけれど」
「……」
「みなさん、ここにいるのも場違いな私にもよくして下さるので、断るのも心苦しいのですが」
「君が副局長と親密な仲だから、敵にまわしたくないんだろうな」
「そうかもしれませんね。でも、仕方ないですよね」
話題がなくなり、気まずさから忍が別の材料を引き出してくる。
「小田切さん、大学院出ていらっしゃるんですね」
「……」
「……」
「……それが何」
「……。いえ、すごいですよね」
「何がすごいの」
「……。頭が良くないと入れませんよね」
「ここじゃそんなの当たり前でしょ。本当にすごいとか思ってるの」
「はあ……」
思いのほか弾まない会話に、忍は話題のチョイスを誤ったことを痛感した。
しばらくして、真顔のままショーンが今さらながらの合いの手を入れ始めた。
「早慶明大って知ってる?」
「……七大学のですよね」
「そう。そこの大学院って、私大の中では東京一レベルが高いって言われてるの」
「そうなんですか」
「そこ行ってた」
「ええ! 本当ですか。すごいですね」
テンションを高める忍を、ショーンがジロっと見やった。
「本当にすごいとか思っているの?」
「ええ……」
たいして興味もないのに大げさなリアクションをしたことがバレたと思い、忍がバツが悪そうに作り笑いをする。
しかしショーンは、照れた様子で忍から顔をそむけたのだった。
ほっと胸を撫で下ろす忍。
「何を専攻してらしたのですか」
「君に言ってもわからないと思うよ」
「……そう、ですか」
いくら気を遣っても、必ずしも会話が弾むわけではないことを、忍は思い知った。
「どこの学校出てるの」
あまり興味がなさそうであろうショーンの質問に対しても、忍が丁寧に向き合う。
「山凌高校です」
「大学は」
「あ、私、高卒なんです」
「高卒! どんなコネクション使ったの!」
途端にショーンの興味指数がマックスまで跳ね上がったようだった。
「コネクションって、言うか……」ふいの転調に戸惑いを隠せない忍。「柊副局長に引っ張っていただいて……」
「副局長に! どういう関係なの!」
「いえ、どういう関係ってわけでも……」
「……。どうりで妙に余裕ぶっていると思ったよ」
「は、は……」
嫌な感じと、何とはなく打ちひしがれた気分になり、忍が表情をなくす。
いくら無神経なショーンとは言え、さすがにそれには気がついたようだった。
「……」ふんむ、とショーンが大きな鼻の穴から排気する。「どうしてアパートなんかで暮らしているの。自宅が遠方だというのならば、メガルにいればお金もかからないでしょう。失礼かもしれないけど、高卒の収入じゃ、正直つらいんじゃないの」
たいして心配しているふうでもないショーンに対して、それでも忍が少しだけ安心した表情を差し向けた。
「ええ。実を言いいますと、かなりキツいですね。妹のお金はもしもの時のために手をつけないようにしていますから、生活費でいっぱいいっぱいです。でも、メガルの宿舎は関係者以外は立ち入り禁止ですし」
「君は関係者じゃないか」
「私達はそうなんですが……」
「何が都合悪いの」
「もし妹の友達が来られないと困るかなって思って。まだ一人も来ませんけどね」
またもや自嘲気味に笑う忍に、今度はショーンが言葉を探しながら続けた。
「でも、随分と妹さんとは年が離れているんだね」
「は? はあ、まあ……」
「まだ高校生なんでしょ。君とはかなり違うじゃないか」
「かなりって、そんなに離れていますかね。五つ違いだと」
「そりゃそうでしょ。高校生と僕達だと……。……五つ違い?」
「……はい」
「……」
ポカンと見つめるショーンを、忍が不思議そうに見つめ返す。
「……。私まだ二十一なんですが」
一瞬の間があった。
「ええ!」突如としてテンパり出す、小田切ショーン、二十七歳。「いや、その、当然大卒だと思っていたから、どんなに若くても二十三歳くらいはと思ってて、でも結構顔も広いみたいだから、最低三、四年は勤務していると思ってて、だから、実際は二十五か六くらいなんじゃないかと思ってて、僕と同い年ってことはないにしろ、同世代なんだろうなっててて!」
「……さっき高卒だって言いましたけど」
「いや、前からなんだけど、そうなんだもんで、だから、どんなに若く思ってても! いや、しっかりしてるから!」
「いいんです」せつなそうに目線を流す忍。実にせつなそうだった。「慣れっこですから」
「いや、ほんと、しっかりしてるし……。背も僕より高いし。百七十くらいあるでしょ」
「七十はないですけどね……」
「……ないんだ」
「ええ……」
「……なんだか今日は暑いね」
「……そうですね」