第二十三話 『約束の丘』 8. スコクス消滅
コクピットで片持ちフォンを着用し、ケイゴはキャノピーに投影されるグリーンの数値に集中していた。
正面には旅客機に設置されているような、両手持ちの操縦桿がパネルに埋め込められている。これは通常時に使用されるハンドルであり、超音速飛行や特殊機動を行う場合には、両脇にあるボール形態の感圧スティックへと切り換えられることになっていた。
一方のスティックでコントロールを選択すれば、反対側では感応スティックとして、各種情報の伝達やスロットル設定へと自動的に割り当てられる。右ききのケイゴの場合は右側が感圧、左手が感応スティックという具合で、それは設定でいつでも切り換えることが可能だった。フェザータッチの感圧と、伝達効率に秀でた感応の使い分けによって、最新戦闘機と遜色のない立体機動をも可能とするのである。
竜王からのフィードバックがあってこその機構だった。
とは言え、感応スティックを用いた時の体力、精神力の消耗は、尋常ではないことも危惧されており、これらはあくまでも緊急時に短時間の使用を前提として設定されていた。
ケイゴはあえて通常運航を選択せず、メガルから飛び立って一時間近くそれを続けていた。突発的な事態に備え、頭ではなく体から反応できるようにと。
副パイロットが心配げに様子をうかがう中、それと同じ表情で後席の忍と木場が覗き込んだ。
遠方での作戦展開であるため、責任者として行動隊長の木場と、連絡係として忍を桔平が指名したのである。
本来ならば大沼の持ち場となるはずだったが、プレケースであることを考慮して、あさみもそれに賛同していた。
「ケイちゃん、大丈夫?」
心配そうな忍の声にケイゴが振り返る。汗まみれの顔に、無理やり笑顔を構築した。
「大丈夫だよ、しぃちゃん」
「でも、汗びっしょり。かなり疲れてるんじゃない?」
「ああ、三日前の酒がまだ抜けてないだけだよ。俺は酔えば酔うほど強くなるから、アリなんだけどね」
「今からそんなに無理しない方がいいよ。まだ先は長いし、交代の人だっているんだし」
「それもそうなんだけど、最初に限界を知っておいた方がいいと思ってさ」
「ケイちゃん……」
「やっぱりしぃちゃんはお姉さんだよな。嬉しいよ、そういうの。ありがと」
そう言って笑う。それからケイゴは前へと向き直り、余裕のないまなざしをひたすら空の彼方へ投げかけた。
忍と木場が顔を見合わせ、困ったような表情になる。
タオルを取り出し、横から忍がケイゴのこめかみの汗を拭った。
「ありがと、しぃちゃん」振り返りもせずに、ふっと笑い、すぐに真顔に戻る。「でも集中してるから、今はいいよ」
「……ごめん、ケイちゃん」
「……」
眉間に皺を寄せ、木場はその光景を見守っていた。
「目的地まであとどれくらいだ」
木場に問われ、ケイゴの表情がやや和らぐ。
「十分ちょいってとこですかね」
「そうか」忍へ顔を向ける。「そろそろ準備をしておけと彼らに……」
その時、予期せぬアラームが機内へ鳴り渡った。
携帯用端末で連絡を受け取り、すぐさま忍が木場へ報告する。
「隊長、たった今出現ポイントが変わりました!」
「何! どこだ!」
「太平洋上」蒼白になった顔を差し向ける。「ここから日本列島を隔てて、メガルのすぐそばです……」
急激な姿勢の変化に対応しきれず、後部スペースの光輔らが態勢を崩す。
床へ叩きつけられた光輔やクルー達を横目に、夕季と礼也は持ち前のボディバランスの良さで何とか踏みとどまった。
「うわあっ!」
「こら光輔、寝てんじゃねえ。このへっぽこ野郎」メロンパンをくわえ足もとの光輔を見下ろす礼也の手の中で、カフェオレが踊った。「あちちちっ!」
「あちちちっ!」
壁面パネルを這うように夕季が操縦室のドアを開ける。それはこの状況下においてはかなり危険な行為ではあったが、抜き差しならぬ緊急事態であろうと判断し踏み切ったのだった。
エアポケットに入ったわけではなさそうだった。乱気流に巻き込まれたのでもない。
急激な旋回を選択したことにより、速度の低下による落下、激しい重力移動における機体の制御不安を招いたのは明らかだった。
パイロットの意思によって。
空竜王を操る夕季には、それがどれだけ危険な状態であるかが充分すぎるほど理解できた。
おそらくは、並の輸送機ならば墜落、もしくは空中分解を免れないはずだろう。
「どうしたの、いったい……」
ゆがめた顔を差し向けた夕季に、同様にシートにしがみつくような格好で忍と木場が振り返る。
「夕季!」
「お姉ちゃん!」ようやく機体が安定し、何とか立てるようになった夕季が入室した。「何があったの」
「ポイントが変わったの」
「!」必死の形相の忍と向き合い、まばたきすら忘れる夕季。「どこに」
「メガル。もう残り時間は十分とないのに」
夕季の時が止まる。
「今まで一時間以上もかけて、やっとここまで来たのに……」
その表情が語るものは、木場や忍も同じだった。
「夕季、駄目だろ、ここに入ってきちゃ!」
声を荒げるケイゴに、そこにいた全員が注目する。
ケイゴは両手のスティックを握りしめ、正面を睨みつけるように操縦に没頭し続けていた。
「危ないから来るなって言ったはずだ! 何故俺の言うことが聞けない!」
感応スティックに力を込める。
機内の速度表示はマッハ一・五を指していた。警告灯とアラームが急加速による危険状態を訴え続ける。
「また何もなければいいんだがな」木場が顎の下の汗を手の甲で拭った。「このタイミングでメガルの近くに切り換えてきたことが、引っかかって仕方がない」
「心配しなくていいですよ。マッハ二で飛び続ければ半分の時間で帰れる」
上ずる声を張り上げるケイゴを、木場が畏怖するように眺める。
「そんなことをすれば機体が分解するぞ」
「大丈夫です。俺が保証しますよ」
困惑の忍と木場へ向き直り、夕季が口を結んだ。
「空竜王で出る」
「夕季」
「光輔達は間に合わなくても、空竜王ならぎりぎり間に合うかもしれない。お姉ちゃん達が来るまで、何とかしてみる」
「そうか、頼むぞ、夕季。すぐに桔平に連絡を……」
「駄目だ!」ケイゴだった。
全身汗まみれになり、血走った目で前だけを見続ける。操縦桿を持つ手は震え、周辺はケイゴのまき散らした汗でびっしょりだった。
「何故勝手なことばかりをするんだ。俺がやめろって言っているのがわからないのか。俺の言うことが聞けないのか。おまえはどうして…… !」
とり憑かれたように話し続けるケイゴの勢いが途切れる。
木場が銃を突きつけたのがわかったからだった。
「やめて、木場さん……」
泣きそうな顔で懇願する忍。
夕季は固唾を飲み、成りゆきを静観するだけだった。
「どういうことですか、これは……」
先とはうって変わって落ち着いた口調になったケイゴに対し、木場が重々しい表情を差し向ける。銃に込めた力はわずかにも緩めずにいた。
「速度を落とせ」
「そんなことしたら間に合いませんよ」
「夕季を行かせる」
「駄目だ。夕季は行かせない」
「ここでの責任者は俺だ。俺の判断に従ってもらう」
「嫌だと言ったら」
「君を今回の任務から解任する。力づくでも」
「墜落してもいいんですか」
「かわりのパイロットならいる」
そう言って木場が銃口をさらに確実にポイントする。
木場が本気であることを知り、ケイゴがギリリと歯噛みした。
「撃てばいい」
「!」
「俺は、あいつを守りたいだけなんだ。あいつを……。それができないのならば、生きていたって仕方がない……」
そう言いケイゴが速度を上げると、木場がさらに強く銃を握り込んだ。
はらはらと見守るだけの忍。
そして夕季。
夕季の脳裏に、幼い頃交わした約束が反響し続けていた。
『守る……』
『……を』
「待ってください、木場さん!」
夕季の心を呼び覚ましたのは、忍のかすれた絶叫だった。
「ケイちゃん、本気じゃないんです。こんなこと、本気で言うような子じゃないんです」
木場とケイゴの間に忍が割って入る。
「ケイちゃん、やめて。木場さんの言うことを聞いて!」
懸命な忍の訴えにも、ケイゴが耳を貸す様子はみられない。
「ケイちゃん!」
「……静かにしてくれよ。気が散るから」
「ケイ、ちゃん……」
もはや自分の知る人間とはかけ離れてしまったケイゴを悲しげに見下ろし、忍が口をつぐむ。
木場はまばたきもせずにそれを見届け、揺るがぬ決意を押し通そうとした。
「どけ、忍」
緩やかに忍が振り返る。
「彼はすでに正常な判断力を欠いている。このままでは全員の命に関わる」
「……」
「この機体にあるもの。そして人間。どの一つをとっても俺達の命で償えるような代物ではない。本来ならば猶予もなく撃ち捨てられてもおかしくないほどの重大事だ。彼はそれすらも省みようとはしなかった。これが最後の警告だ。俺が安全装置を解除するまでに速度を緩めなければ、他の選択はない」
「……。ケイちゃん!」唇を噛みしめ、忍がケイゴの説得を再開する。「今すぐやめなさい! お願いだから!」
「……」
「ケイちゃん!」
しかし忍の懸命な懇願にも、ケイゴは耳を傾けない。
誰よりも哀しみを色濃く宿したのは、執行者たる木場の瞳だった。
「どけ、忍」
「……」
「どくんだ」
「どきません!」キッとなって木場を睨みつける。「私が彼を説得します」
「邪魔をするな、邪魔をすれば……」
「もし説得できなければ、その時は私が撃ちます。そして私も罰を受けます」
「!」
衝撃を受ける。木場と夕季。そしてケイゴが。
「……。おまえは当たり前のように死を覚悟する。だが、すべての人間がその気持ちに応えてくれると思うな」
ケイゴから視線と銃口をはずすことなく、木場が忍へ向けて発した。
それを冷静に受け止め、忍が心の内をつないでみせた。
「わかっています。私は自分の信じた人の前以外では、覚悟はしません」
「!」
動かぬ心を揺り動かしたのは、忍の強い信念だった。
「私達はみんな兄弟なんです。家族なんです。間違ったことをすれば、それをみんなで正さなければいけない。でも、一人だけに責任を押しつけるようなことはしたくない。彼が間違いを犯して、それが許されないのだとしたら、私も同罪です。彼を止められなかった、駄目な家族の責任なんです。だから、それくらい当然のことですよね。私は彼のことを、本当の弟だと思っています。光ちゃんや礼也と同じように」
「……」
く、とうめく声が聞こえ、機体の速度が緩やかに低下し始めた。
わなわなと眉をうごめかせ、木場が銃を下ろす。
ぶはあ、と肺にあるすべての空気を吐き出し、木場が夕季へ向き直った。
「夕季、頼んだぞ」
夕季は答えることもせず、コクピットで放心したように前を見続けるケイゴと、それを涼しげに眺める忍の姿に視線を預けていた。
発動予定時刻ぎりぎりで、空竜王がメガル上空へと滑り込む。
マッハ六を超える速度で駆けつけた夕季の眼前には、またもや何も現れなかった。
ただ暗い空の彼方へ吸い込まれていく、不気味な笑い声を除いては。
そしてスコクスの反応は完全に途絶えたのである。
沈黙のプログラムの最期だった。