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第十七話 『花・前編』 7. プリムラ・ジュリアン



 その日もいつものように、夕季とドラグノフの居残り格技演習が行われていた。

 武道場の陰からじっとマーシャが二人の様子を見守る。

 それを横目で確認し、ドラグノフは夕季を解放した。

「今日はここまでにしておこう」

「はい」

 ぷふう、と夕季が息を吐き出す。

 ドラグノフがにやりと笑った。

「ユウキ、なかなかよくなってきたぞ」

 夕季が、ぐっ、と身がまえる。それから穏やかに笑った。

「どうもありがとうございます」

「ついでに言うと、ロシア語の方が上達が早い。私よりもペラペラになったようだ。どこかで習っているのか?」

「ん……」ちらと目配せした。「……いい先生がいるから」

 ドラグノフも同じく目を向ける。

「なるほどな」

 マーシャが照れたように、さっ、と身を隠した。


 柔らかな陽射しの下、プランターの前へ並んで腰を落とし、夕季とマーシャが色とりどりの花を見渡す。

 その後方からアレクシアが優しげなまなざしで二人を見守っていた。

 夕季が歩み寄り、アレクシアが抱える洗濯物へ手を伸ばした。

「ありがとう、ユウキ」

「中へ運べばいいの?」

「ええ」

 夕季へ洗濯籠を手渡し、アレクシアが目尻を下げ、黙々と花の世話をするマーシャを遠目に眺めた。

「本当にありがとう、ユウキ」

 日本語で語りかけるアレクシアへ、不思議そうに夕季が振り返る。

 するとアレクシアは嬉しそうに続けて言った。

「実の父親を失ってから、あの子は誰にも心を開こうとしない。私やドラグノフにも。でもユウキのおかげで今は何だか楽しそう。この国へ来てよかった」

「……。私は、そんな……」

 顎を引いて身がまえる夕季へアレクシアが笑いかける。

「夫のニコライは花を愛でるのが好きな心の優しい人でした。私とニコライとイヴァンは子供の頃からの知り合いで、二人とも身寄りのない私へも兄のように接してくれた。感謝しています。ニコライもイヴァンも自分達の生まれた国が大好きで、荒れてしまった祖国を建て直そうとそれぞれの道を選びました。愛する人間がずっと笑顔でいられるようにと。なのにニコライは道を踏み外してしまった。悪い日本人にそそのかされ、悪いことをしてしまった。己の力のなさを知り、未来に絶望してしまったからです。でも私もマーシャも知っています。ニコライが決して欲望に負けて誤った選択をしたわけではないことを」

「……」

「マーシャは日本人が父親を奪ったと思い込んでいます。その日本人達と密接な関係を持つイヴァンのことも許していません。イヴァンが自分とニコライを引き離したのだと勘違いしています。イヴァンは何も悪くないのに。イヴァンがいなければ私達は国を追われ、野垂れ死ぬところでした。イヴァンは私達のために己の信念を曲げ、つらい選択をしなければならなかった。私達を見捨て、自分の信じた未来をつかむこともできたはずなのに。私達を救うために、イヴァンは……」

「どうして私にそんなことを」

「ごめんなさい、ユウキ。不愉快な話をしてしまって」

「そんな……」

「あなたには知っていてほしかったの。マーシャとお友達になってくれたあなたには」淋しそうに目を伏せた。「ここには長くいられそうもないから」

「……」

「マーシャはまだ父親の影を追いかけています。ニコライの愛したプリムラの花を育て続けるのもそのためです。まだ心のどこかで信じている。花を育てていれば、大好きな父親が帰ってくるのではないかと。優しかった父親の笑顔がそこにだけはあるような気がしているのです……」


 花がらを摘み取る作業中、マーシャはふいにプランターの中の一本を根元から鋏で切り取り、バケツへと放った。

「どうしてお花捨てちゃうの」

 何気ない夕季の問いかけに、マーシャの眉がぴくりと反応する。

「……綺麗じゃないから」

「でもそのお花だって一生懸命咲いているんだよ」

「綺麗じゃないお花なんていらない。嫌い」

「じゃあ、あたしがもらうね」

 夕季がバケツの中から黄色いプリムラ・ジュリアンを拾い上げる。

 するとマーシャが不機嫌そうに眉を寄せた。

「……。……ユーキにはもっと綺麗なのをあげる」

「あたしはこれでいい。この花もとっても綺麗だから。マーシャが大切にしている花とは違うかもしれないけれど、あたしはこの花好き。素敵だと思う」

「……。勝手にして」

「勝手にする」

「……」

「……。ねえ、マーシャ」

 夕季の優しげな声にマーシャがそろりと顔を向ける。

 夕季は穏やかに笑いかけ、マーシャの顔を見つめていた。

「マーシャはとてもいい子なのに、どうして二人のことを認めてあげないの」

「……。二人って?」

「マスターとママのこと」

「……。嫌いだもの……」

「どうして。マスターもママも、みんなマーシャのことが大好きなんだよ」

「……嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「嘘だ!」

 目に涙を浮かべ、マーシャが立ち上がる。眉間に皺を寄せ、噛みつくように夕季を睨みつけた。

「そんなの嘘だ!」

「マーシャ……」

「嘘つき! ユーキなんて大嫌い!」

「マーシャ、何てことを言うの」

 心配そうな顔つきでアレクシアが歩み寄る。

 差しのべられた手をマーシャが振り払った。

「みんな、私のことなんか嫌いなくせに。邪魔なくせに。いなければいいと思ってるくせに! ユーキだって、ママだって、ほんとは私のことなんて好きじゃないくせに! ほんとはイヴァンと二人でいたいと思ってるくせに……。ママとイヴァンと赤ちゃんがいればいいって思ってる。私なんていらない。必要ない。絶対、そうだ。私が邪魔だって思ってるくせに……」

「マーシャ」

 大粒の涙をぼろぼろこぼし、マーシャが駆け出す。

 その後を追おうとしたアレクシアが突然腹部を押さえてうずくまった。

「アレクシア!」

 夕季の声に立ち止まるマーシャ。振り返ると苦しそうにあえぐアレクシアを夕季が介抱しているところだった。

 真剣なまなざしでマーシャを見つめ、夕季が叫ぶ。

「マーシャ、マスターを呼んできて。メックの事務所にいるはずだから。いなかったら誰でもいいから連れてきて」

 マーシャが戸惑いの表情を見せる。

「早く!」

 意を決し、マーシャが走り出した。

 どうすればいいのかわからず、闇雲にドラグノフを探そうとマーシャが駆け続ける。だがメガルの敷地は広大すぎて、幼いマーシャには位置関係すら把握できていなかった。

 きょろきょろと見回し近くの人間へ助けを求めようとしたが、誰もマーシャの言葉を理解できずに笑いかけながら素通りしていくだけだった。

 不安が波のように押し寄せる。

 その時、聞き覚えのある声を耳にした。

「お、ちび夕季じゃねえか」

 マーシャが振り返る。

 メロンパンを口にくわえた礼也がいた。隣には光輔の姿も見える。

 顔をゆがめ、マーシャが礼也の手をつかみ、引っ張っていこうとした。

「んだあ、またメロンパンが欲しいのか? そうそう簡単にゃやれねえぞ。世の中そんな甘かねえ」

「いや、違うみたいだよ」

「んあ?」

 マーシャの表情に鬼気迫るものを感じ取り、二人が顔を見合わせる。

「……なんか、ママンがどうのって言ってるみたいな」

「ママん? あの妊婦さんか?」

 ピンとくる二人。

「おい、光輔、専業医呼んでこい」

「おまえは?」

「俺はこいつと様子見に行ってくる。なんかあったらケータイすっから、いつでも取れるようにしとけよ」

「わかった」

 光輔が本館へ向かって全力で疾走し始める。

 マーシャを抱き上げ、礼也も走り出した。

「おお、結構重てえな、てめえは!」

 涙でくしゃくしゃになった顔でマーシャが礼也にしがみついた。


 数十分後、医務室のベッドには、落ち着いた様子で横になるアレクシアの姿があった。

 ドラグノフがその手を両手で握りしめる。

 二人の顔はともに安堵の笑みにつつまれていた。

 いたわるようにアレクシアを見つめるドラグノフの姿を、マーシャは複雑そうな面持ちで部屋の外から眺めていた。口もとを結び、淋しそうに眉を震わせる。

 ドラグノフが光輔らに顔を向けた。

「ありがとう、コウスケ、レイヤ、ユウキ。おかげで助かった」じわりと涙をにじませる。「もう少しで流産するところだったらしい。この子は弟の大切な忘れ形見だ。もしものことがあれば、私は彼に顔向けできない。助かって本当によかった。本当にありがとう……」

「あんでもねえってよ」メロンパンをくわえ、礼也が親指を後ろへ向ける。「あんたんとこのちびすけが必死こいて助け求めてきやがったからよ。行ってみりゃ、このバカがアホヅラ下げてアワアワしてやがって、えらいこっちゃだったっての。もっと早くケータイとか使っときゃいいのによ、ほんと、勉強ばっかで何の役にも立たねえ」

「うるさい……」恥ずかしそうに夕季が顔をそむける。「……電磁波が赤ちゃんに悪いかもってちょっと思っただけ」

「あのちび、こいつのことすげえ嫌ってやがったくせに、よっぽど必死だったんだろうな。でなきゃ俺らはスルーしておしまいだ」

「なんで俺だけ嫌われた感じになってんの……」

「俺らに礼言うんなら、ぷち夕季褒めといてやれって……」

 振り返る礼也。

 が、そこにはすでにマーシャの姿はなかった。


 マーシャは夕暮れ時の薄暗い空の下、うずくまるようにプランターの花を眺めていた。傷のある花を見つけ鋏を近づけたが、切り取ろうとしてからふと思いとどまった。

 背後から夕季が忍び寄る。

 それに気づいたように、振り返ることもなくマーシャは話し始めた。

「イヴァンは私のことを嫌ってる。ママが好きで、ママと一緒にいたいだけ。私なんかいなければいいと思ってる。ママもそう。だから私は、イヴァンもママも嫌い」

 夕季は心配そうにマーシャを見つめていた。

 鋏を放り出し、マーシャが振り返る。それから泣きながら夕季に抱きついてきた。

「みんな大っ嫌い。大っ嫌い……」

「わかってるよ、マーシャ」

 優しく笑いかけ、夕季がマーシャをそっと抱きしめた。

「わかってる……」







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