第十七話 『花・前編』 6. ドラグノフ
ドラグノフは誰もいなくなった竜王の格納庫へ足を踏み入れていた。
隣の倉庫ではロシアから持ち込まれた三体の試作品が数日後のプレゼンテーションのために陳列してある。竜王を模した、人型の直立歩行兵器。ただしコクピットの外側に機器を詰め込まなければならない都合上、サイズは竜王より二回り以上大きなものとなっていた。
すでに日も落ち、薄明かりの下、移動用のトレーラーにつながれたまま鎮座する三体のディテールが淡く浮き上がっていた。
音もなく歩み寄り、ドラグノフが三体の竜王を畏怖するように眺める。
隠蔽用のコンテナは整備のため両側とも跳ね上がっており、あらわとなった空竜王の下腕に静かに手を触れた。
その冷たい金属の感触がドラグノフに祖国の厳しい冬を思い起こさせた。
*
吹きすさぶ夜の嵐の中、一人の若者が旅立とうとしていた。
ザックに荷物をまとめ、ブーツの紐を固く結ぶ。燃え上がる暖炉の炎に照らし出されたのは、石よりも硬い鋼の意志をともすまなざし。
若き日のドラグノフだった。
気配に振り返ると、憂うような顔を向ける弟ニコライの姿があった。
「兄さん、自分が何をしようとしているのかわかっているのか」
苦しげに言葉を押し出すニコライを表情もなく眺め、淡々とドラグノフが受け答える。
「無論だ」
「ならば何故」
「この国の中枢は腐り切っている。無抵抗と傍観はあきらめとなり、裏切りを生み、我々の心をも腐らせる。誰かが楔を打ち込まなければならないのだ。荒れた大地をめくりあげ、再び豊かな恵みが得られるように作り変えなければならない」
「だが兄さんのやり方は間違っている」ニコライが一歩前へ出た。「あなたがしようとしていることは神への冒涜だ。何も省みない争いは新たな争いを生み、都合のいい理想論に感化された負の連鎖だけが繰り返される。互いを押しのけ、血にまみれた未来を奪い合うために。それでは何も変わらない。誰の心も満たされない」
静かなる男の握り込まれた拳を、ドラグノフが冷めた視線でとらえる。
「力のない理想につき従うのは弱い心だけだ。現実から目をそむけた者は肉体も精神も蝕まれ、やがて内なるともし火すら枯れさせられる。それでも心は満たされると言い切れるのか」
「兄さん……」
「この世に神などいない。我々は己の未来を自分自身の手で切り開いていかなければならない。誰の力もあてにせずに」
「神はいる」
訝しげな顔を向けるドラグノフを、ニコライが真っ直ぐに見つめる。
「信じようとする気持ちさえあれば、それは母なる祖国とともに誰もの胸の奥に確かに存在する」
「幻想だ。そんなものなど存在しない。あるのは都合のいい時だけそれにすがろうとする、ずるく卑しい心根だけだ」
「本当に満たされないのは兄さんの心の方なんじゃないのか」
「何だと」
「兄さんは自分を見つめることから逃げている。どうしてもっと自分自身と向き合おうとしない。本当のあなたは、僕達の知っているあなたは、そんなうつむいた心の持ち主ではない。誰よりも気高く、強く、まるで……」
「ざれごとはよせ!」
「……」
ドラグノフの一喝にニコライの心が後退する。
そのさまを苦しげに眺め、血を吐くような想いでドラグノフは言葉を積み重ねていった。まるで己の信念を雪で覆い隠すがごとくに。
「現実と向き合う必要があるのはおまえの方だ。いい加減に目を覚ませ、ニコライ。枯れない花などこの世にはない」
「僕の心の中にはある」
「!」
「何があろうと決して枯れない花がある。そしてどんな時もそれで満たされている。あなたやアレクシアの笑顔がある限り、僕の心は枯れない」自身の胸に手を当て、気遣うように微笑む。「あなたの心の中にも必ずある。気高く、尊ぶべき、信じるものが」
「……。そんなものなど、どこにもない……」
部屋の外から心配そうに二人のやりとりを見守るアレクシアの姿があった。
「あなたが言うように、この国の内情は心すら凍えるほどに寒いものなのかもしれない。だがこの冷たい大地にも花は咲く。確かに雪に埋もれる花もある。凍りつきしおれるものもある。しかしそれをかわいそうだと摘み取ってしまえば、あとは枯れるのを待つだけだ。どんな花でも厚い雲の奥にある太陽の光を受けようとして、精一杯伸び上がろうとする。美しい花びらを見て微笑む者のために、懸命に咲こうとする。なのに誰かが見守っていてあげなければ、育んでやらなければ、花は花であることすらわからなくなる。あなたがいなくなれば、アレクシアはどうなる」
眩しそうに目を細めるドラグノフ。ニコライ達の顔を直視することができなかった。
やがて何も言わずに二人へ背を向けた。
「兄さん!」
「アレクシアを頼む」
「イヴァン……」
ドアノブに手をかけ、ドラグノフが振り返らずに告げる。
「おまえ達は花だ。祖国を彩る花だ。俺はそれを草や木とともに覆い隠すことしかできない」ドアを開け、果てのない暗闇を見上げた。「この心すら凍らせる吹雪のように……」
幾つかの年月が過ぎ、久々にドラグノフが故郷の地へと赴いた時、知り合いからニコライとアレクシアが結婚したことを知らされた。
帰郷も告げず、車の中からその様子をドラグノフがうかがう。
ニコライとアレクシアの楽しそうに笑い合う姿が目に映った。それは花のような笑顔だった。かつて自分も交え、三人で同じ花を咲かせた頃のような。
もう一つ、新たに小さな花が咲いていた。
鮮やかで気高く美しい、二人が育んだ小さな命。
汚れなき花のような笑顔が自分の見失っていた太陽の光であることに気づき、ドラグノフは黙ってその場を後にした。
それがニコライの姿を見た最後の日となった。
ニコライの訃報を聞きつけ駆けつけた時、花は枯れきっていた。
「パパの嘘つき!」
大粒の涙をぼろぼろとこぼし、マーシャがアレクシアを睨みつける。
ドラグノフとアレクシアは何も言えずに、ただその顔を悲しげに見つめるだけだった。
「パパなんて大嫌い!」
マーシャが外へと飛び出して行く。
追いかけたドラグノフ達が見たのは、ニコライが大切にしていたプリムラ・ジュリアンを狂ったように踏みつけるマーシャの姿だった。
「大嫌い! 大嫌い! みんな、みんな、大嫌い……」
「そんな馬鹿な!」
黒づくめの使者の前でドラグノフが血も吐かんばかりの叫び声を張りあげる。
「ニコライが、そんな!……、でたらめを言うな!」
胸倉を両手で締め上げるドラグノフにも、顔色一つ変えず使者の男は告げた。
「残念だが事実だ。政府の要職として日本へ出向いたおりに、現地の反対派から話を持ちかけられたらしい。政府を通じて入手したロシア支部の情報をリークし、なおかつ反対派のすることを黙認する見返りに、彼は私腹を肥やしたのだ」
「だが、ニコライが……、……あの雪のように潔白な男が……」
「君にとっては信じ難いことなのかもしれないが、我々が事実を受け止めることに戸惑いはない。この国の実情を知る人間ならば誰もそれをとがめはしないだろう。だが、祖国を欺き、メガルへの過剰な便宜をはかった以上、国賊であることは疑いようもない。連絡が遅れたことは申し訳なかったが、その時点でもし君を呼び戻していれば、君自身の命が危うかったということをわかってほしい」
「ニコライが……」幾多の言葉も魂へは響かず、力なき両手を男へかけたまま、ドラグノフががっくりとうなだれる。「国賊として処刑されたというのか……」
「まだ公にはなってはいないが、政府は彼の家族を国外追放とする考えだ」
「!」ドラグノフが血相を変え、顔を上げる。「アレクシアは! ニコライの家族はどうなる! どこが受け入れてくれる!」
静かに男が首を振る。
「彼女らはすべてを失い、この国から追い出されることになるだろう。それを救えるとしたら、彼女の身内か協力者だけだ」
「貧しい田舎の生まれだ、協力者などいるものか! 彼女らには身内すらいない!」
「ならば、仕方がない」
「……」ドラグノフが震える拳を凝視する。キッと男を睨みつけた。「俺が彼女達を引き取る。俺の家族として彼女達を受け入れたい。メガル、ロシア支部の人間として」
「無理だ。彼女達の立場は我々がかばえる範疇を逸脱している。ニコライの血縁者として君もすべてを奪われ、裸同然で国を追われるだろう。彼らとのつながりを断ち、我々の同志でいることが、英雄である君を国から守る唯一の方法なのだ」
「俺の頼みでもか!」
「論外だ。どうしてもと言うのなら、ロシア支部は君を切り捨てるだろう」
「く……」ドラグノフが頭を抱える。ギリと噛みしめた口の中から血が流れ出た。
「反対派の工作は巧妙かつ狡猾だ。正当な理由もなく彼らをかばうことは、君以外の誰のためと受け取られるはずもなく、すべての成り立ちが我々自身の責だと公言するようなものだ。政府を敵にまわし、反対派にもつけこまれる隙を与えることになる。そんな大きなリスクを冒すことはできない」
「……俺には、彼女達を救うことはできないのか……」
「一つだけ望みがある」
ぼそりと告げた男の言葉に、ドラグノフが弾かれたように立ち上がる。
「なんだ、それは!」
「もし君に、祖国のためにその身を捧げるという覚悟があるのなら、我々は断固として戦い抜くつもりだ」
「……どういう意味だ」
「我々がニコライの潔白を証明する。すべて反対派によって仕組まれた策略だと暴いてみせる。彼は反対派に脅されやむをえず屈したものだと、必ず政府を納得させてみせる。それで彼の家族は罪を免れることだろう」
「……」
「これは罠だ。反対派と日本の反乱分子による、ロシアから君を引き離すためのな」
「……。俺が、……俺のせいでニコライは罠にはめられたと言うのか」
「そう考えることが賢明だろう。反対派や反乱分子の中でさえ、君の親派は存在する。祖国の英雄としての君の存在は、それほどまでに影響力があるのだ。目をそむけていては先へは進めない」
揺るぎなきまなざしで、ドラグノフは真っ直ぐ暖炉の炎を見つめ続けていた。
「俺は、何をすればいい……」
男の口もとがにやりとする。
そしてその男、マカロフがドラグノフへ一歩近づいた。
*
「ドラグノフ」
冷たく響き渡るような呼びかけにドラグノフが顔も向けずに答えた。
「何の用だ、マカロフ。不用意な接触は誤解を招く。彼らに怪しまれるぞ」
マカロフが冷めた笑みを口もとにたたえる。
「仕事だからな。君が滞りなく任務を遂行するためにも、私は君を監視し、サポートしなければならない」
「わかっている」
「ならばいいが、もしやこの国に情がうつったのではと勘ぐってしまってな」
「……そんなはずはない。私も一刻も早く、祖国へ戻りたいのだ」天井の薄明かりへと手を伸ばし、冷たい光を握りしめた。「この国は寒すぎる……」