第二十一話 『二人の記憶(かけら)』 14. 別々の場所
決死の形相で、みずきは階段を駆け上がり続けていた。
踊り場でインプに追いつかれ、涙目状態のままフラッシュで反撃する。
インプが転倒するその隙に猛ダッシュで上を目指した。
足が重く、心臓もとっくに悲鳴をあげていた。
しかし立ち止まれば確実な死が待ち受けているため、必死で走り続けるしかなかったのだ。
あともう少しで屋上へとたどり着く。
それが天国か地獄かはわからなかったが、今はわずかな希望のためにゴールを定めてひたすら進む必要があった。
最後の鉄扉に手をかけた時、反応が急激に近づくのを察知して振り返る。
「!」
踊り場を強引なターンで折り返し、上り詰める異形の影が見えた。
耐性がついたためか、粒子の含有量が不足していたのか、一度目の半分ほどの時間でインプは行動を開始していたのである。
「ひっ!」
悲鳴もろとも、顔をそむけ、携帯電話を押し出す。
最後の最後、かすれたような淡い光が、ぎりぎりでインプを足止めすることに成功した。
鉄扉を閉め、屋上のスペースへと転がり込むや、すかさず後方から扉を叩きつける轟音が鳴り響いてきた。
視界の彼方へ、変形した鉄扉が弾かれて飛ばされていく。
足がもつれて四つんばいに泳ぎながら、何とか金網のフェンスへと貼りついた。
緩やかに顔を向ける。
闇夜の中、インプの赤いコアが爛々と輝いていた。
「やだ、怖い……」足ががくがくと震え、涙がじわりと滲み出した。「……穂村、君」
飛びかかるインプを咄嗟のダイビングでかわすも、退路を断たれたみずきは、ガシャンとフェンスに背中から叩きつけられることとなった。
もんどり打ちながらインプが横から迫り来る。
次の一撃を回避する安全地帯はどこにも存在しない。
「ひっ!……」涙がぼろぼろとこぼれ落ち、震える全身を抱きしめ天を仰いだ。「穂村くーんっ!」
「篠原ーっ!」
みずきの絶叫を飛び越え、海竜王が後方から屋上へと降り立ったのはその直後だった。
くるりとひるがえり、その鋭い眼光でインプを射程に収める。
瞬時に振り返るインプにもまるで機会を与えず、その体躯目がけ、ずぶりと海竜王が銀色の爪を突き刺した。
勢いそのまま、インプは激しくフェンスへと打ちつけられ、直後に煙が風に流されるように消滅していったのだった。
安堵の笑みにつつまれるみずき。
「穂村君……。……え?」
ふいに体勢を崩しみずきが表情を失う。
それからその涙を収める間もなく、フェンスもろとも、空を見上げるように背中から落下していったのである。
「!」
五階建てのビルから地上へ落ちるわずかな時間に、猶予はほぼない。
「……そんな……、やだ……」
受け入れられない現実から逃れようと、懸命に手を伸ばす。
交錯する想いの中から導き出そうとした大切なものは、とりとめのない日常ばかりだった。
『何を……。何が……。誰に……。何を……。どうして……』
やりたいことがまだまだある。
『わからない……。思いつかない……』
言いそびれた言葉は?
『ありがとう?……。さようなら?……』
伝えたかった気持ちは……
『……君に、会いたい……』
最後の言葉は。
『!……。最後の? ……言葉……』
みずきを追って海竜王がダイブする。
「!」
友人達の輪の中心から笑いかける光輔の顔が、その両眼に重なった。
確実に近づいてくる海竜王の指先を見つめ、みずきがほっと胸をなでおろす。
と同時に、何とはなしにだが、わずかにそれが届かないものだという気もしていた。
それでも心は妙に穏やかだった。
少しだけ近づくことができた。
ただそれだけを嬉しいと思った。
何故だか、海竜王の黄橙色の両眼が哀しみを帯びたように映る。
それを見つめるみずきのまなざしは優しげで、自然と満足そうな笑みを浮き上がらせた。
「……。……みんな、またね……」
そして精一杯手を伸ばす光輔の姿を海竜王をとおして想い描き、みずきは静かに安らかにその目を閉じたのだった。
「篠原さんっ!」
その声がかすかに聞こえたような気がして、みずきが眠そうな目を薄く開く。
果てなく広がる暗闇の中、何かが駆け抜ける影がちらと見えた。
衝撃に再び目を閉じる。
が、そのショックは落下による地面への激突ではなく、真横から滑り込んできた横殴りのものだった。
地面すれすれ、空竜王がみずきの身体を受け止めていたのだ。
体勢を崩し、路面を削り、白銀の翼を地表へとえぐり込ませる。
落下エネルギーを緩和させるために、空竜王が衝撃を引き受けるその振動が、わずかにみずきへと到達していた。
舞い上がり、風をまといながら、空竜王が柔らかくみずきを抱く。
「大丈夫、しっかりして!」
その声は心地よくみずきの耳を癒す調べとなった。
「……穂村君」
うわ言のようにみずきが呟く。
聞き取れるほどの声ではない。
しかしその口の動きで夕季は、みずきの心の内を知ってしまったのである。
みずきの無事を知り、ほっと胸を撫で下ろす夕季。
それから淋しそうに目を伏せた。
嵐の通り過ぎた長岡駅周辺に、救急車両の赤ランプが回転し続けていた。
担架に仰向けに寝かされ、眠そうな目をみずきが差し向ける。
「篠原!」
貼りつくように覆い被さる光輔の顔を見て、嬉しそうに笑った。
その光景を夕季は遠巻きに眺めていた。
正座状態でハッチを開けたまま置かれた空竜王のそばで、桔平に背負われ無表情に。
「……いい加減に降ろしてよ」
顔を戻し、ぶすりと告げる。
それに淡々と桔平が受け答えた。
「すぐ別の車が来る。もうちっと我慢してろ」
「降りて待つからいい」
「バカ野郎! 今がどういう状況だかわかってんのか!」
桔平の一喝に言葉を失う夕季。
それから桔平は説いて聞かせるような口調で続けて言った。
「考えてもみろ。俺達が女子高生をおんぶできる機会なんて滅多にないんだぞ」
「……」
「みっちゃんは女子大生になっちまったしな。こればっかりはなんともならねえ。だっこの方がいいってんのなら、またしてやってもいいが」
「……。変なおじさん……」
「……ひでえこと言いやがる」遠く月明かりを見上げ、淋しそうに笑った。「まだ三十前なのにおじさんはねえだろ」
「……」
「足はどうだ?」
「大丈夫」夕季の右足首には簡易的な添え木がしてあった。「乗る時にシートにお尻ぶつけて、死ぬほど痛かったけど」
「それで俺のこと睨んでやがったのか……」桔平がムッとなる。「おまえが早くしろっつってギャーギャーわめくから、ああするしかなかったんだろが」
「でもあんなに思い切り叩きつけなくてもいいのに。……ダンクシュートみたいになってた」
「おかげで間に合ったんじゃねえか。つべこべ言うな」
「……それは」
「ったくよ、人のこと、足の骨が折れろだの、マヌケだの言ってやがったくせに、てめえがなってんじゃねえか。ザマアねえな」
「……」
「?」
「……返す言葉がない」
「……いや、別に責めてるわけじゃねえからな」
桔平がみずきや光輔のいる方へちらと目を向ける。
「しっかし、まさか、おまえとみずぷーだったとはな」
「……。……? みずぷー?……」
「あっちに連れてってやろうか」
同じように目を向け、夕季が首を振った。
「あそこはあたしの居場所じゃない」
「またわけわかんねえこと言い出しやがって……。光輔もあの子も、おまえの友達じゃねえのか?」
「そんなのじゃない」
「どうしてだ。おまえが俺に目ぇ剥いてお願いするくらい大切な人間なんだろうが。だったら友達でいいじゃねえか。ま、向こうがどう思ってるかは知らないがな」
「……。一緒にいることで迷惑するくらいなら、いない方がいい」
「はあ? ほんと、メンドくさい奴だな、おまえは」
「うるさい」それから眩しそうに目を細めた。「……そんなことわかってる」
夕季にはわかっていた。
未完成の二人のパズルには、光輔というピースが欠かせないことを。
だがそれは共有する一つのパズルではなく、それぞれが持つ別々のパズルでの、まったく異なる形のピースなのだ。あてはめられるのは決してみずきや夕季の形のピースではなく、光輔という形のないパーツがただそのすき間を埋めるだけだということも。
「ん? どうした?」
黙り込んでしまった夕季を、桔平が気にかける。
「おいおい、ガラにもなく、センチになってんじゃねえのか。ええ?」
「……うるさい」
ふいに、ぼすっと桔平の背中に頭を押しつけ、夕季が顔をこすりつけた。
「?……。ふ、せつなくて涙でも出ちまったか。口じゃああだこうだメンドくせえこと言ってても、存外かわいいとこあるじゃねえか、おまえもよ。ま、泣きたきゃ泣け。俺の背中は女の涙を拭うためにあるようなもんだからな」
「違う、鼻水」
「……あ、やっぱりな……」
「……」
カウンターの反応が完全に消滅したことを確認し、司令室特設スペースで忍がほっと一息つく。
累計一万体以上ものインプが出現していた。
これがフィロタヌスの時点で起きていたことだったらと考えて、ぞっとする。
今回も、もしもっと対応が遅れていれば、実際どうなっていたかわからない。
「?」
肩を叩かれ、疲れた顔で忍が振り返った。
あさみだった。
「お疲れ様」
忍が背筋を正した。
「あ、お疲れ様です!」
「明日は休んでいいわ。手当てはちゃんとつけるから安心して」
「あ……」
「またプログラムが発動したら呼び出しがかかるかもしれないけれど、その時は我慢してね。ないとは思うけど」
「はい、それは」
「何もなければ小田切副主任だけでも大丈夫だと思うから。私はコーヒーを飲んできます」
「は、あ……」
あさみの後方で椅子に身を預け、疲弊しきったショーンの顔がむっとゆがんだ。
氷のような笑みを浮かべ、一瞥すらせずにあさみが部屋から出て行く。
その後ろ姿がどことなく淋しそうに、忍には思えた。
「古閑君」
押し殺した声に、おそるおそる振り返る忍。
仏頂面の小田切ショーンが、すわった目つきで忍を凝視していた。
「いつもこんな感じなのか」
「は?」
「いつもさっきのように噛み砕いて指示を伝えているのかと聞いているのだが」
「……はあ、まあ」
「そうか。しかし、今回のように君がよく知っている場所ばかりだからそういうことも可能だったのだろうが、もし知らない場所であの短い時間内に同じような指示を複数の相手に出さなければならないとしたら……」
「あの、何回かは行ったことがありますが、あまり自信がなかったので、データベースから立体表示の住宅地図を引っ張ってきて確認しました。でもそれだけだとあいまいなので、複数のスクリーンで角度を変えて、見比べながら地形の把握をしつつ、相互の位置取りを見定めて……」
「……」
「……駄目ですか?」
「……」ふるふると唇を震わせた。「君が有能なのは認めよう。見事な仕事っぷりだった」
「はあ……」
「しかしね。戦闘中にオビディエンサーを下の名前や愛称で呼ぶのはどうかな。仮にも仕事中なんだし」
「……はい。真摯に受け止めます」
「あとね……」
「……」
周囲から人影もなくなり、電気が消えたままの司令室別室で、あさみが椅子の背もたれに体重を預ける。
暗い窓からのぞく月明かりと、照らされる淀んだ波を眺めながら、長く深いため息をついた。
ふいに気配を感じ取り入り口へと目線を向けると、そこには神妙な様子で立ちつくす桔平の姿があった。
ものも言わず、互いに疲れ切った顔を差し向ける。
先に口を開いたのは、あさみの方だった。
「お疲れ様」
口もとに笑みをたたえるあさみにも表情を変えることなく、桔平がそれを受ける。
「死者はゼロだったんだってな」
「ええ」
「……おまえのおかげだ」
「!」瞬間、表情が途絶え、すぐさま笑顔を持ち直す。「誉めてくれるの?」
それに対する桔平の答えは、沈黙だった。
目を細め、先のあさみと同様に、ため息をもらしながら窓の外へと視線を投げかける。
「……もしリーダーが俺だったら、何人死んだんだろうな」
「……。あなたが言うと、嫌味にしか聞こえないんだけど」
「どうとでもとれ」
ふん、と息をつき、桔平が背中を向ける。
そのまま立ち去ろうとするところへ、あさみの声が追いかけてきた。
「お疲れ様」
「……。ああ……」
桔平の背中をあさみが笑みで見送る。
それから表情を完全に消し去り、再び窓の外へと奥行きの知れないまなざしを差し向けた。