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第十七話 『花・前編』 5. マーシャ



 マーシャは一人、プランターの前で花と向かい合っていた。鋏を手にし、時おり茎から切り取ってはプラスチックのバケツへ放る。

 十歳にも満たない子供にはおおよそ似つかわしくもない気難しい表情で、淡々と作業を繰り返していた。

 心に響くは懐かしき父の声。

『マーシャ……』


          *


 幼少のマーシャが振り返る。

 花のような微笑みを体ごと受け止めたのは、優しそうな満面の笑顔だった。細身だが力のあるまなざしを持ち、その奥にあたたかな光を宿す。

「パパ、おかえりなさい」

「いい子にしてたか」

「うん」

 笑みを絶やすことなく、マーシャの父、ニコライがミルクのような頬へキスをする。

 マーシャが笑いながらくすぐったそうに身をよじらせた。

 その後ろでは楽しげに二人の姿を見守るアレクシアの姿があった。

 マーシャとニコライは裏庭の花壇で色とりどりのプリムラ・ジュリアンに囲まれていた。

 ニコライがかいがいしく手入れをするのを、マーシャが横から見つめる。

 眩いばかりの太陽の光を浴び、それぞれの花が宝石のように輝いていた。

「ニコライ、マーシャ、お昼にしましょう」

 アレクシアの呼びかけも耳に届かず、二人は時おり顔を見合わせ、いつまでも楽しそうに花を眺め続けていた。

「今度はいつまでいられるの」

 マーシャの何気ない一言にニコライの手が止まる。ふっと笑い、花を見つめながら、ニコライは申し訳なさげに告げた。

「明日には戻らなければならないんだ」

 するとマーシャの表情が曇り出す。

「そうなの……」

「大事なお仕事なんだ」

「……次はいつ帰ってくるの」

「……。わからないな。一段落つくまでは何とも言えないから」

 マーシャが眉を寄せ、ニコライを見上げる。

「そんなに日本がいいの? 私やママより」

「そんなはずないだろう。パパにとってマーシャやママより大事なものなんて存在しない。でもね、パパにとってかけがえのない宝物であるマーシャやママを守るために必要なことを、日本の人達はパパに教えてくれるんだ。パパのことを助けてくれる。だからマーシャ達のためにも、日本の人達を大切にしなくちゃいけない」

「……。日本人なんてロシアより全然駄目なくせに……」

「そんなことはないぞ。日本にだって立派な人間はたくさんいる。パパのことを認めてくれる人達や、親切にしてくれる人達とかね。その人達と一緒に仕事をするのは、とても大切なことなんだ。わかってくれるね」

「……」

 マーシャが塞ぎ込む。小さな唇を震わせ、今にも泣き出しそうだった。

「でも心配はいらない」にっこり笑いかける。「マーシャとママに任せておけば、花は大丈夫みたいだからな」

 マーシャの頬がぷくっと膨らむ。

「パパったらお花のことばかり!」

「パパはね、花を見れば全部わかるんだ。マーシャやママが一生懸命大切に育ててくれていることや、苦しくてもつらくても元気に明るく頑張っているってこととか。マーシャ達がどんな大変なことにも負けてやしないってことも。パパはそれがすごく嬉しいんだ。だから約束するよ。マーシャ達がこの花を枯れさせない限り、パパもずっと元気で頑張る。ずっとマーシャ達のことを想っている。必ずまたすぐに帰って来る」

「本当?」

 目尻に涙をにじませ、マーシャが顔を向ける。

 ニコライは笑いながらそれを見つめ返し、花壇の中から一番鮮やかな花をマーシャへ差し出した。

 マーシャも嬉しそうにそれを受け取った。


          *


 人の気配に気づき顔を上げると、夕季が微笑みながらマーシャを見つめていた。

 頬を赤らめマーシャが立ち上がる。

 くるりと向けた背中に、夕季の声が追いかけてきた。

「マーシャ」

 おそるおそるマーシャが振り返る。

 すると夕季が楽しそうに笑って紙袋を差し出した。

「一緒に食べよ」


 メック・トルーパー事務所でバッグの中を漁っていた礼也が鬼の形相で振り返る。

「あら、俺のメロンパンがねえ! ガッコの後の楽しみが!」光輔をぐぐいと睨みつけた。「てめえ、ぶっ殺す!」

「ええ! なんで!」


 メガル敷地内にある海に面したドックでは大型船舶が行き交い、物資の搬入がひっきりなしに行われていた。

 海鳥が飛び交い白波打ち寄せる突堤に並んで腰かけ、夕季とマーシャが遠く広がる海を眺める。

 何も言うことなく、それぞれが手にするメロンパンにかじりついた。

 ちらちらと何度も夕季の様子をマーシャがうかがう。夕季が目線を合わせると照れたように顔をそむけ、もふもふとパンを口へと押し込んだ。

「おいしい?」

 微笑みながら夕季がマーシャの顔を覗き込む。

 しかしマーシャは何も答えようとせず、ただ黙々と口を動かし続けていた。

「パパのこと、嫌いなの?」

 その何気ない問いかけにマーシャの眉がピクリとうごめく。

 マーシャには日本語でたずねる夕季の言葉が理解できない。だがパパという言葉に反応したようだった。

 途端に堰を切るがごとくにロシア語でまくしたて始めた。

『イヴァンなんて大嫌い。パパでもないのにパパみたいにするし。イヴァンのことをパパみたいにしてるママも嫌い。日本人はもっと嫌い。私達からパパを取った。みんな、みんな嫌い。大っ嫌い』

 おそるおそる顔を上げると、心配そうに見つめる夕季と目が合った。バツが悪そうにマーシャが顔をそむける。

『でも、ユーキのことは、好き……』

 ぼそりと呟き、探るように夕季の手に触れた。

 それから二人は何も言わず、互いの手を結び合ったままいつまでも海を眺めていた。


 翌日、メック・トルーパーの事務所前で夕季と礼也が睨み合っていた。

 その様子をオロオロしながら見守る光輔の姿もあった。

「てめー、勝手に人の宝モン奪っていきゃあがって! 俺がどんだけ切ねえ思いしたのかわかってやがんのか! おかげで無人島サバイバル、観損ねちまったじゃねえか! しの坊が間違えて録ってたからいいようなものをよ!」

「おなかすいてたから。ごめん」

 夕季が憮然と言い放つ。

 その態度が礼也の炎に油を注いだ。

「んだ、てめえ、本当にわりいと思ってんのか!」

「思ってない」

「んだあ! その態度は!」

「意外とおいしそうだったから、つい」

「おお! ……お、おお、う」複雑そうに眉を寄せる。「……意外と?」

「まあまあ、落ち着けって」

 頃合いを見計らい、光輔が二人をなだめにかかった。

「今のは夕季が悪いよ」

「弁償する」

「いや、弁償するとかそういうことじゃなくてさ」

「……」

 光輔に諭され夕季がそっぽを向く。

 光輔が、はあ~、とため息をついた。

「礼也に謝りたくない気持ちはわかるけどさ」

「んだ、てめえ、光輔!」

「礼也に謝るのだけは嫌」

「てめえ……」

 その時、どこからともなく現れた小さな影が、光輔の向こう脛を蹴りつけた。

「だっ!」

「マーシャ……」

「いててて。なんで俺が……」

 夕季の後ろへ隠れ、眉をVの字にしてマーシャが顎を引く。

「なんかそっくりだね……」

「にくったらしそうなとことかな……」

「……うるさい」

 怪訝そうに見下ろす光輔と礼也を睨みつけ、マーシャがまくしたてた。

『ユーキをいじめるな! あんた達なんか、大っ嫌い!』

 ぽかんと間抜けヅラを向ける光輔ら。

「……なんつったんだ、今」

「……とりあえず怒りは伝わってきたけどね」

 夕季がマーシャに目をやる。それから光輔と礼也を表情もなく眺めた。

「とてもおいしかった、って」

「……いや、嘘だよね」

「ああっ! ふざけんなてめえ!」礼也が顔に険を浮き上がらせ睨みつける。光輔を。「そういうことなら仕方ねえだろうが。所詮ガキなんざ、メロンパンの魅力にかかりゃイチコロだからな」

「いや、何言ってんの……」

「グローバル・うふふふうぅん……、だ!」

「無理しなくてもいいよ……」

「あれだ!」

「……」

 ピクピクと顔の筋肉をうごめかせ、礼也がふんぞり返るようにマーシャを見下ろす。

「フレールのメロンパンは世界一だからな。誰もが虜になるのは仕方ねえ。決してさからえねえ。ボルヒチだかボルハチだか知らねえが、敵じゃねえってことだな」

「ボルシチなんだけどね」

「うますぎて思わずゴリア人もビックリだって」

「ゴリア人って誰……」

 礼也がごそごそとバッグから紙袋を取り出す。

「とっときのアイテムだがメロンパニャー初心者のおまえらには特別に拝ませてやる」にそにそと得意げに笑った。「極上メロンだ。一日限定二十個の激レア商品で、俺のような超常連でも三個までのシバリ入れられるビップなシロモンだ。桐嶋ですら滅多にお目にかかれねえってボヤいてやがったほどだ。ガッコさぼる覚悟がねえと買うのはまず無理だろうな。みてくれのよさだけじゃねえ。中に果肉がゴッソリ入ってて、準備運動とかなしにいきなり口にしやがったら、うまさで心臓止まるかもしれねえ。一つ二百……」

 マーシャが紙袋を奪い取り、全力で走り去る。

「おい、ちょっと待て! 全部持ってくんじゃねえ! 俺の分まで! シャレんなってねえぞ! てめえ!」

 マーシャの背中を見送り、夕季が困ったように礼也を眺めた。

「……。どうもありがとう、って」

「おお……」

「いや、何も言ってないし……」


 建物の陰に隠れるマーシャの姿に気づき、夕季が足を止める。

 表情もなく注目する夕季に、マーシャがぐっと顎を引いた。

「やったね、マーシャ」

 夕季が笑いかける。

 するとマーシャの顔つきが緊張から解きほぐされた。

「……。ユーキ、ロシア語話せるの?」

「少しだけ覚えた。マーシャが簡単な言葉で話してくれればわかるかもしれない」

「……」

 マーシャが紙袋を差し出す。

 それを夕季が押しとどめた。

「いいよ、くれるって。一つだけとっといてくれって」

「……」

「食べよ」

「うん……」





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