第二十一話 『二人の記憶(かけら)』 12. 一人より二人
地下駐車場の奥の壁に身を預けるように、夕季は腰を下ろしていた。
横から心配そうに覗き込むみずきが、ハンカチでこめかみの傷の血を拭う。
正面からは折れた区画に位置どっているため、インプが来たとしてもすぐに見つかりはしないだろう。
極力物音を立てないよう心がけていたが、夕季は常に周辺への気配りをかかすことはなかった。
ふいに激痛に見舞われ、思わず顔をしかめる。
それに敏感に反応し、申し訳なさそうにみずきが謝ってきた。
「ごめんなさい。痛かった?」
「ううん……」平静を装い笑みを浮かべるその顔から、あぶら汗が滲み出ていた。
折り曲げた右足首を夕季がさする。
先ほどのインプとの接触で、甲の部分を骨折しているようだった。
それをまだ、みずきには告げていない。
「ごめんなさい、こんなことに巻き込んじゃって」
眉を寄せ、夕季が告げる。
するとみずきが同じ顔になって首を横へ振った。
「ごめんはこっちの方だよ。ほんとにごめん。古閑さんだけならいつでも逃げられたのに、あたしが足手まといになっちゃったからだよね」
「違う、そうじゃない」その瞳を静かに見つめ、夕季も首を振る。「あたしの判断ミスだった。考えが甘かった。篠原さんはみんなと一緒に避難するべきだったのに。あたしのせいで……」
「違うよ、違う、違……」
「……」
「……」
「……ありがとう」
「……」
「……」
「……うん」
二人が笑い合う。
最初はぎこちなく、やがてどちらからともなく嬉しそうに笑い始めた。
「あ!」着信に気づき、みずきが自分の携帯電話を手に取る。光輔からだった。「え、本当? もうすぐ来れるの? え? うん、無事。古閑さんも。うん、待ってる。うん、ありがとう」
通話を終え、じっと注目し続ける夕季へ満面の笑みで振り返った。
「穂村君、もうすぐ来てくれるって。よかったねえ」
「うん……」夕季も、ほっと胸を撫で下ろす。「……よかった」
「外の怪物達を先に退治しなくちゃいけないから、絶対に出て来ちゃ駄目だって。それまで待っててって。携帯もしばらく使えなくなるって言ってた。ほんと、よかった」
まとまらない言葉を羅列しながらも、心からの安堵をみずきが見せる。
と、その時。
ガタッ!
耳障りな雑音に二人が息をのむ。
確認するまでもなく、それは夕季らにとって脅威となるはずだった。
「どうしよう……」
またもやみずきが泣き面になる。
表情を切り替え、夕季が真っ直ぐみずきを見つめた。
「大丈夫。今の感じだと外の方で音がしたみたいだから」
「本当?」
夕季が頷く。
「でも念のためにとりあえず避難しておいた方がいい」先の液晶部分が分離した状態の携帯電話を、みずきに差し出した。かろうじて通話機能は残っており、液晶パネルがあった個所には細い板状のスピーカーと、裏面に発光用のストロボが見てとれた。「これを持って篠原さんは階段の方へ逃げて。扉を閉めておけばやりすごせるかもしれない。もし見つかったら、このボタンを強く押して。奴らが嫌がる光が出るから、うまくいけば十秒くらいは足止めできるはず。バッテリーの残量が少ないから二、三回しか使えないかもしれないけど、少しは時間稼ぎができると思う。特殊な光だから絶対に見ちゃ駄目だよ。使えなくなっても電源は切らないで。GPSで居場所を知らせてくれるから」
一方的に説明を続ける夕季を注視し、みずきが不安そうな顔になった。
「古閑さんは?」
「あたしはさっきので足が痺れてまだ動けない。動けるようになったらすぐに行くから、先に行ってて」
「一緒に逃げようよ。あたし、手を貸すから」
「二人だと動きづらい。もし奴らに見つかったら、二人とも助からなくなる。大丈夫、ここでじっとしていれば見つからないから」
「じゃあ、あたしもここにいる」
「駄目。万が一があるかもしれないから、篠原さんは先に行ってて」
夕季の真剣なまなざしに、ただならぬものをみずきは感じ取った。
「足、ケガしてるの?」
「!」夕季が眉間をひくつかせる。「……違う」
「嘘言っても駄目だよ。わかるから」
「……」
みずきの顔つきが先までとは違ってきていることに、夕季は気づいていた。
「古閑さんって、嘘つくのへただね。だからみんなに誤解されちゃうのかな」
そう言ってにっこりとみずきが笑いかけると、観念したように夕季が目線をそむけた。
「あたしもここにいる」
「駄目だよ。そんなの困る」眉に力を込め、みずきを見据え直す。「篠原さんがいたら、気になって何もできなくなる」
「あたしがいると迷惑なの?」
「……」夕季が苦しそうに顔をゆがめた。「……そう」
それでもみずきはバツが悪そうに笑いながら、穏やかに夕季を見つめ返したのだった。
「そうだよね。迷惑だよね。でも行かない」
「……」ぐむ、と口をつぐむ夕季。「このバッグの中には他にも……」
「教科書とかノートが入っているんでしょ。あとお菓子とか、はないか。そんなすごい武器が入ってるのなら、さっき使ったはずだよね」
「……」
そのとおりだった。みずきに携帯電話を手渡してしまえば、夕季は丸腰となる。
「お願い、篠原さんだけでも逃げて。でないと……」
「いや」
「……一緒にいたら、きっと私の方が足手まといになる。これ以上、篠原さんに迷惑かけたくない。お願いだから、……わかってほしい」
「古閑さん……」
「……。自分でも情けないと思う。でも、今の私には、何もできないから……」
「何もできないと諦めなくちゃいけないの?」
「……」
「ごめん、変なこと言って。でも、ちょっと安心したかも。古閑さんも、スーパーマンじゃなくて、同じ女子高生だったのかもって思って。それでもスーパー女子高生には違いないんだけどね」眉をハの字に寄せかけたみずきが、ムン、と口もとを結んだ。「ちっとも情けなくないし! さっきも、すっごくカッコよかったし。だけど、一人よりは二人だって、やっぱりあたしは思う」
心が爆ぜる。
その強い笑顔に。
「古閑さんって、他の人よりいろいろできてるから、何でもできちゃうように見えちゃうんだよね。何でもできちゃうのが当たり前だって思われてるから、普通にできててもガッカリされちゃう。期待されてないあたし達より、実は損してるのかもしれないね。大変かも。でも、そんなのぜんぜんだよ。何もできないからって諦めてたら、あたし達できない子は何もしちゃいけなくなる。何もできないけれど、ひょっとしたら何かできるかもしれないし」
みずきが涼しげに笑いかける。
するとようやく夕季が観念した。
「……階段までケンケンしていきたいから、できたら手を貸してほしい」
「まかせて」嬉しそうにみずきが頷いた。「あたし、めちゃくちゃ肩を貸してあげる」
「……。お願いし……」
「了解しました!」
「……」
一瞬あっ気にとられた夕季が、ふいをつかれたようにくすっと笑う。
それを見てみずきも心から嬉しそうに笑った。
その物音が近づくまでは。
「!」眉間に力を込め、夕季が振り返る。「……来た」
みずきがごくりと生唾を飲み込んだ。
「篠原さん、やっぱり……」
「あたし、囮になる」
「! 何、バカなこと言ってるの!」
たしなめる夕季に、しかしまるで臆することなくみずきはその先を口にした。
「このままじゃ二人ともやられちゃうよ。大急ぎで出口に向かえば、まだ間に合うかもしれない。外で時間稼ぎしていれば、そのうちきっと穂村君が来てくれるよ。穂村君は正義の味方だから、あたし達か弱い女子高生のピンチには絶対間に合ってくれるはずだよ」
「でも、それじゃ……」
「さっきは古閑さんがあたしを助けてくれたから、今度はあたしが頑張る番だよね。友達でしょ、あたし達」
「……」ゆるぎなきまなざしを受け、夕季は何も言葉にできなかった。
ふいにみずきが夕季に抱きつく。
戸惑う夕季に、みずきは落ち着き払った口調で告げた。
「ごめん。あたし、こうしないと駄目なんだ。誰かがそばにいてくれないと勇気がでないの。でも、これで大丈夫」
「……」みずきの身体が震えていることに夕季が気づく。
いくら強がっていても、恐怖を感じ取る心まではごまかせるはずがなかった。
「ねえ、やっぱり、ゆうちゃんって呼んでもいい?」顔を上げ、にっこりと笑う。「頑張ろうね、ゆうちゃん」
「あ……」
それから振り返ることもなく、みずきはそこから駆け出した。
「篠原さん! 篠原!……」