第十七話 『花・前編』 3. システマ・マスター
メガル西館武道場に夕季とドラグノフの姿があった。他の隊員達はすでに格技演習を終え、次の訓練へと向かった後だった。
訓練服の夕季がドラグノフへ組みつこうとする。それをこともなげにかわし、ドラグノフはいともたやすく夕季を組み伏せた。
夕季が下唇を噛みしめる。
「君は優等生すぎる。もう少しクレバーにならなければ進歩は望めない」夕季を床へ這わせたまま、我が子を見つめるように微笑んでみせた。「だが、ここの誰よりも素質がある」
その様子を眺め、桔平が舌を巻く。
「夕季を赤んぼ扱いかよ。さすがシステマ・マスターってとこだな」
隣で光輔が畏怖のまなこを向けた。
「なんすか、システマって」
「ロシアの特殊部隊が使う格闘術だ。スポーツみたいな格闘技じゃなくて、確実に相手を仕留めるための殺人技だな。極めれば目隠ししてても相手を倒せるようになるらしい」
「……」情けない表情になった。「あいつ視力ニーゼロだから、今現在、俺百パー負けますね」
「ああ。二百パー負けるな」
「……二百パーすか」
「二百パーだ」
「……。もうちょっと、なんとかなんないすか」
「なんともなんねえな」腕組みをし、ふん、と鼻息を荒げる。「これであいつがより強くなれば、三百パーオーバー確定だ。帰省ラッシュの乗車率なみだな。情けねえ」
「そうすか……」
がっくりと肩を落とす光輔。
それを当然だと言わんばかりに桔平は続けた。
「陵太郎にでも教わったんだろうが、夕季もかなりの使い手だ。現役女子高生であんだけ必殺拳マスターしてる奴は、日本中探したってまずいやしねえぞ。やってる奴が他にいるのかがそもそもの疑問だがな。だいたいメックからして、各国の軍隊の中でもトップクラスの錬度だからな。それについていけてる時点で夕季も礼也もプロの軍人と大差ねえから、そこら辺のケンカ番長クラスじゃ歯が立たねえのも当然っちゃ当然だ。それがあのざまだ。俺が知っている限りじゃ、あのオッサンよか強いシステマ使いにゃ出会ったことがねえが、あいつに言わせりゃ一ミリ下にゃすぐ次にきてもおかしくない奴らがゴロゴロしてるらしい。おっかねえだろ、世界ってのは」
「そうすね……」恨めしげに桔平を見上げる。「俺も頑張ればケンカ番長くらいにはなれますかね?」
「無理だな」即答し、えへんと胸を張ってみせた。
「無理、すか……」
「五百パー無理だ。土産も潰れるレベルだな。情けねえ」
「五百……。まあ、いいすけど」
「そこの少年もどうだ? 見ているだけではつまらないだろう」
ドラグノフに誘われ、光輔が力ない指先で己の鼻っ面を指さす。
「どうだってよ」桔平がいじわるそうに笑いかけた。「礼也は仮病使ってとっととシッポ巻いて逃げちまったし、ここはいっちょ、あの白熊野郎におまえの強いとこ見せてやったらどうだ。無敵の光輔大先生よ」
「はは……」引きつり笑いしか出てこなかった。「ゲームの中なら無敵なんすけどね……」
「んだあ、情けねえ野郎だな」
「ええ、直前にあれだけ駄目出しされれば、どんな伝説の勇者でも仮病使っちゃうと思います」
「ったく、どいつもこいつも」
「おーい、キッペイ。久しぶりに組み合ってみないか」
「ほへっ!」
桔平の目が点になる。
するとドラグノフは、邪悪な笑みをまといながら追い討ちをかけてきた。
「昨日行った礼堂庵のしるこを賭けて一勝負どうだ?」
「しるこってツラか……」
「彼らに模範演技を見せてやりたいとは思わないか」
「そいつぁ、一興だな」挑発を捨て置けんとばかりに眼光を尖らせ、桔平がにやりと笑った。「だがあいにく今日はモチの食いすぎで腹が痛くて腹痛でよ。頭も頭痛で体調の調子が最も最悪な状態だしな。……たたたたた、ほあた!」
「そうか」朗らかに笑う。「相変わらず致命的だな、キッペイ」
「いや、何言ってんだかよくわかんねえんだが」
「ジョークのセンスが……」
「とっとと故郷へ帰りやがれ!」
「言われなくともそうするつもりだ」瞳の奥にかすかに悲しみの色をたたえる。「このミッションが終わればな……」
外の手洗い場で夕季が汗にまみれた顔を洗い流す。手足も擦り傷だらけだった。
悔しそうに下唇を噛みしめる。
完敗だった。
己の力を過信するわけではなかったが、ここまで圧倒的な差を見せつけられるとは思いもしなかった。彼が味方であることの安堵より、もし敵として対峙した場合、たやすく自分を殺すことができるはずだという事実を否定できない恐怖心がはるかに上回った。
もしもその強大な力が愛する者へと向けられたなら。
それを考えるだに、夕季は己の弱さを痛感せずにはおれなかった。
「迷いがあるようだな」
ふいの問いかけに夕季が顔を向ける。
含んだような笑みでドラグノフが見下ろしていた。
「君の強くなりたいという気持ちはよく伝わってくる。だが、もし私を負かしたいと思っているのなら、迷いを捨てるべきだ。迷いのない人間は強い」
「……あなたには迷いがないと言うのですか」
「君よりはな。君は追いつめられていない」
「……」
「誰かに勝ちたいと願うのなら、何か一つだけ大切なものを思い浮かべろ。それ以外はすべて切り捨て、それを命にかえてでも守りたいと思うことだ」穏やかな笑みの奥に厳しい眼光をちらつかせる。「君には自分の命よりも大切な人間はいるか?」
「……」夕季がドラグノフを真っ直ぐに見つめた。「……いる」
「ならば私に勝たなければその人間が殺されてしまうと強く信じろ。そうすれば君は、自分の腕を折り目を潰されても、私の喉元へ食らいつこうとするだろう」
「……。訓練なのに……」
「だったら何故そんな顔をしている」
顎を引いてかまえる夕季を好ましげに眺め、ドラグノフがやりきれない様子で口を開いた。
「何故悲しみしか生まぬテロ行為が、世界中で後を絶たないのかわかるか」
「……」
「彼らには他に手段がないからだ」
「でも決して許される行為じゃない」
その言葉がゆるぎない夕季の信念であることを見抜き、ドラグノフが少しだけ表情を和らげる。
「そのとおりだ。ではこう考えたらどうだ。君の大切な家族達が飢えと貧困で今にも死のうとしている。決して贅沢を望むわけではない。たった一つのパンがあれば家族全員の命が助かるのに、君達にはそれを買う金も、他に手に入れる手段もない。だのに、物乞いなどにまるで見向きもしない富裕層の手から、ほんのひとかけらのパンをかすめ取ることが、はたして神に背く行為だと言い切れるのか。数日後に君達の目の前で、カビが生え食べられなくなった大量のパンが、彼らの傲慢な力を誇示するように破棄されることを知りながら」
「……それでも許されないはず。詭弁に理解を示したり、非道な行為を都合のいい解釈で正当化してはいけないと思う」
にやりと笑うドラグノフ。
「もちろんこれは歪んだ解釈だ。彼らが本当に志を持つものかどうかさえ、私には疑わしい。だが人間は平等を望みながら不平等を許容する、この世でもっとも醜く愚かな生き物だ。人間が人間である以上、その矛盾は永遠になくならない。ならばどうする。私にできることは、己の信じた正義を貫くことだけだ」
「……」ぐっと顎を引く。「あなたにとっての正義って何ですか」
夕季のストレートな問いかけに、まるで戸惑う様子もなくドラグノフが眉に力を込めた。
「正しさを他人に押しつけることではなく、間違いを素直に認め、正すことだ。誰もが完璧な人間になれるわけではない。だが過ちを認め償うことで、少しずつだが近づくことはできる。それが私にとっての正義だ。あくまでも私にとってだがな」
「もし私達があなたにとっての間違った存在だとしたら、それを正すということですか」
「そうだ」夕季の顔を熱く見つめ、力強く頷いてみせた。「力づくでな」
「……。結局、力で相手を屈服させるんですね」
「ああ、それが一番手っ取り早い」
「……。それって、テロ行為に通じるものがあると思う」
「ものごとを一つの側面からしか見ようとしないからそうなる。もっと広い視野を持てば、思考の裏側から多様な考えが浮き上がってくるはずだ。かたよった考えを捨て、ことの本質を見極める目を養え。そうすれば、同じ意見を言う二人の人間の、まるで異なった思想や真理を認められるようになる」
「何が言いたいのかよくわからない……」
「政治家の答弁やインチキ占い師の予言と同じだ。それらしいことを言えば、相手が勝手につじつまが合う解釈をしてくれる。今の君の思考回路は、私とテロ行為を結びつけることに最適化されているだけだろう」
「それはちょっと違う気がする……」
「ふむ?」
夕季が複雑な表情で、その自信満面の顔を見返した。
「わかる気がする」
「何がだ」
「そっくりだから。理屈っぽいところが」
「……それはキッペイのことを言っているのか?」
「うん」残念そうに見上げる。「すぐに屁理屈を言うところとかも」
「……。心外だな……」
ふっと笑い、ドラグノフが視線を彼方へと投げかけた。
「キッペイは人間としての体術に秀でている。生まれ持ったものでもなく、他の誰かに習ったものでもなく、おそらくは彼自身の生き様がそれを作り上げてきたのだろう」
ドラグノフが夕季へ顔を向ける。
その熱いまなざしに夕季の心が退いた。
「互いを補足し合う間合いにおいては、私はいかなる相手にも遅れを取る気はしない。もちろん、彼に対してもだ。実戦ではなく、あくまで実戦形式という名の訓練においては、彼は永久に私を組み伏せることはかなわないだろう。彼も自分の腕には相当の自信を持っていたようだが、私の前では明らかにその自尊心が折れかけていた。挫折を知らないものが打ちのめされれば、その分立ち直るのも困難になる。そこで私は、自分だけ目隠しをするというハンデを与えてみた。決してなめてかかったわけではない。彼のプライドを刺激するためにだ。するとどうだ。彼は気負いや戸惑いといったマイナスの感情を一切露呈せず、ここぞとばかりに私を攻め立ててきた。そこで初めて、私は彼の本質を見誤っていたことに気がついたのだ。その凄まじさたるや、私とて手加減できるレベルではなかった。そのままでは最悪の場合、彼を殺してしまうことも考えられた。私はこう言うしかなかった。『やめにしよう。このままではどちらかが必ず傷つくことになるだろう。それは本意ではない』やむをえずだ」
熱く語るその横顔を、夕季がじっと見つめる。
「なめてかかったのに自分が負けるのが嫌だったから……」
「……それは」
じっと見つめ合う。ともに相手を哀れむような表情だった。
「負けず嫌いなところまでそっくり」
「心外だな……」
ドラグノフがすっと目線をそらした。
「君は幸せだな」
「?」
「本当の彼を知らずに、彼と普通に接していられる。彼は理屈でははかれない何かを持ち合わせている。多くの人間は彼を畏れながら、平然とつき合う振りを装っているはずだ。私もそうだ」
「……」
ドラグノフの表情が先とはかわってきていることに夕季は気づいていた。
「!」
ふと視線を感じ取り、夕季が振り返る。
建物の陰へ小さなシルエットが消えていくのが見えた。
「どうやら君は彼女に気に入られたようだな」
ドラグノフの声が聞こえ、夕季が顔を向ける。
「マーシャだ」
「マーシャ……」
「ああ、私の弟の娘だ。彼女は私のことを嫌っているようだがな」
「……」
「恨まれても仕方がない」ドラグノフが淋しそうに目線を伏せた。「あの子から笑顔を奪ってしまったのは、私だ……」