第二十話 『絶望のトリガ』 6. 絶望のトリガ
広域の範囲を網羅した、メガルからの危険示唆の連絡が島の役場へ入ったのは、第一の犠牲者が出た時刻からかなりの時間が経過した後のことだった。
予期せぬ一報に連絡を受けた側が戸惑う。
が、その戸惑いは数分の後、すべて恐怖へと置き換えられることとなった。
島の上空に不気味な黒い影が浮かび上がっていた。空を覆い隠すほどの巨大な影。
遠くかすかに、そして連なって近づいてくる悲鳴を聞き取り、一人の島民が不安げに顔をしかめた。
その時だった。
それが現れたのは。
空から降って湧いた拳大の卵が地に落ちて砕け散る。その中から人の形を巨大化させた黒い影が現れたのである。
あらわになるや、間を置くことなく、影が人々を襲い始める。
最初に襲われたのは、顔をしかめた先の青年だった。
恐怖と驚きに目を見開き、わめき散らしながら一心不乱に彼が逃げ続ける。
周辺にいた人々は何もできず、彼と同じ表情でその光景を見守るだけだった。
自分達の目の前に卵が落ちてくるまでは。
卵が割れ、中から黒影の巨人が現れると、あとは恐怖にかられ逃げ惑うことしかできなかった。
黒い影は人々を追いかけ、追いつき、そして引き裂く。或いは押し潰す。
それを見た者すべての眼前に卵が落ち、もれなく黒い影が襲いかかってきた。
最初の一人を死に追いやった影が別の目標を定め、次は複数の影がその対象を追い求める。その数は追われる者の減少に反して、どんどん増えていった。
一つだった影が徐々に数を増していき、ある一点を境にその比率が逆転する。
そしてトータルにしてわずか十三分という短い時間の中で、三百名を超す島民すべてが命を奪われたのだった。
*
悪夢の上映会を終え、冷たいコンクリートの壁に囲まれた室内で、言葉を失った面々がやりきれない顔を見合わせる。
影一つ作らない照明だけが、その場にそぐわない無機質な明るさを主張し続けていた。
「……まあ、こんなところだが」
のっそりと立ち上がる、桔平の表情は暗い。
その心の内を礼也が代弁した。
「こんなところだがって、んなの見せられても対策の立てようがねえじゃねえか」
「……」
「こんなのインプの時と同じじゃねえか。戦ってみてわかったが、奴らたいしたことない。メックでも充分に通用する」
「そのとおりだ」重々しく頷く桔平。「むしろインプより脆い。殲滅するのもたやすいだろう。ただし、奴らの出現ポイントが特定できて、俺達がすぐに駆けつけることができればな」
「んなの無理だって。メックの行動範囲なんてたかが知れてる。とても日本中をカバーしきれるモンじゃねえ」
「わかってんだよ、そんなことは。だから頭がイテえんだ。それにねつらったように警察署も自衛隊も届かねえ場所絞り込んできやがった。いくら脆いっつっても、メック以外でどんだけ通用するかは定かじゃねえしよ。少なくとも、一般人が身近な武器を手にして撃退できるレベルではないことは確かだ。プログラムってだけでこっちの責任にされるってのに、厄介なことこの上ねえ」
頭を抱える桔平を眺め、木場が口を開いた。
「で、朴さんの仮説っていうのは?」
「おお、そうだった」桔平が振り返った。「頼む、朴さん」
「あいよ、桔平さん、ゴリちゃん」
「いや、それ、やめ……」
「お嬢ちゃんもお坊ちゃんもゴリちゃんも、さて、おたちあい!」
「……」
木場をさしおき、朴が自論を展開し始める。
それは常識者にとっては到底理解し難い見解だった。
「卵、見えたよね。小さいけど、バジリスクの産んだ卵。これたぶん、空から降ってきたはず。黒い影は一見無秩序に人を襲っているようだけれど、ちゃんと一つの法則を持ってる」
「法則?」
礼也が眉をゆがめ、隣へ顔を向ける。
バナナをくわえる光輔がぶんぶんと首を振った。
すると朴は面々を見渡し、あらかじめ予定していたように夕季を指名した。
「はい、夕季ちゃん」
「……」夕季が、ぐっと顎を引いた。「……新しく現れた影は、最初は必ず一人の人間に狙いを定める」
「ピンポン、さすが」
「……」
「今の、すごくいいところついてる。僕もそれ、おかしいなと思ってた。目標を達成した影が続けて襲ったり、新しく出てきた奴が合流したりして複数になることはあっても、最初は必ず一人だけを狙ってる。卵が割れた時、目の前にいた人間を」
「……だから何だっての」
「礼君、慌てないで」
「……。……まさか」
ぼそりと呟く夕季に顔を向け、朴がにやりと笑う。
「わかっちゃった? 夕季ちゃん」
「……。いえ、まだ……」
「たぶんそれ、当たってると思うよ。少なくとも僕の予想とおんなじじゃないかな」
「……」
「だからよ、二人で楽しそうに会話すんなっての」礼也があきれたように吐き捨てた。「こっちゃ……、光輔ごときにゃ、ちっともわかんねえぞ。なあ」
「わざわざ言い直さなくっても……」
「楽しそうじゃない」
「ああ!」
「礼君、ごめんね。ちょっと嬉しくなっちゃって。さすが夕季ちゃん。あっちのバカボ~ンな人達とは脳みその作りが違う」
「今のは問題発言だって……」
「……て言うか、俺達もバカボ~ンな人達の方に入ってんだよね」
礼也と光輔が情けない顔を見合わせた。
「バジリスクが卵を産み落とすタイミング、ここがこのプログラムのキモだね」夕季の顔を見つめ、朴が意味ありげに笑う。「ここに映っている人達、みんな顔がこうやって怖がった時、卵が落ちてきてる」
「て、ことは、あれか……」
「そう」礼也に頷いてみせた。「考えたくないけど、その時の恐怖や絶望といった感情が引き金になってる。これたぶん間違いない」
朴の後を追うように夕季が続ける。
「この報告書を見て不思議に思った。島の人口は全部で百五十六人。あたし達三人が倒した敵の数が百四十九。合わない分は、何らかの理由で恐怖を感じなかったとすれば説明はつく」
「そう。そしてこれは予想なんだけど、一度トリガーを引いた人間の前には卵は現れない。少なくともその発動の時だけはね」
「んじゃあよ」消化しきれない中、もっともな疑問を礼也がぶつける。「最初の発動の時、なんで助けに行った奴らの前にはあのバケモノがいなかったんだ。誰も一体も倒してねえわけだろ。んじゃ、発動の終了とともに奴らも消えちまうってシステムか?」
「違うね」
「はあ?」
「バジリスクの卵は不安や恐怖心を追いかけるの。動物が匂いや熱で獲物を識別するようにね。それの消滅はイコール、絶望を感じる心がなくなったということ。そこにいるみんなが希望に満ちあふれているのか、みんな死んで誰もいなくなったから存在することができなくなったかのどっちか。きっかけになった一人が死んだだけじゃその個体は消滅しない。最後に残された一人が不安を持ち続ける限り、何万、何十万になっても、その一人だけを彼らは追いかける。最後の最後まで絶望にまみれたその一人が彼らに引きちぎられたと同時に、そこにいた無数のゾンビ達もいっせいに消滅する仕組み。なんの証拠も残らないパーフェクトな大量虐殺成立だね」
「……えぐいこと、さらっと言いやがんな」
「バジリスクのメカニズムはガン細胞に似てる。倍々ゲームか十倍十倍ゲームかわからないけどね、最初は一つでも、それが二つになって、四つになって、ある時を境に数え切れなくなって、どっと押し寄せて来る。気づいた時には手遅れ。希望を持つ人間は増殖が押さえられるのも何だか似てる。僕の好きなゾンビ映画にも似てる」
「つまりこういうことか、朴さん」絶句する礼也のかわりに、桔平が乱入してくる。「例えばだ。絶望や不安といった感情がトリガーだとする。この中の一人が何らかの拍子に不安を感じた時に、奴らが一体だけ現れる。それを見た他の十人が絶望を感じたのなら、その数は十倍になる。絶望が絶望を呼び、あっという間に世界中は魔獣で一杯になるって寸法だ。奴らは倒しても倒しても、次から次へと湧き出てくる。誰かが絶望という感情を持ち続ける限りな。それを断ち切るための方法は、全人類から絶望という感情を取り除くか、或いは……」
「或いは、何ですか?」
バナナをくわえた間抜けヅラの光輔を、じっと見据える桔平。
「……絶望という感情を持つ人間すべてを排除するしかない」
「それって……」バナナをごくりと飲み込んだ。「ふんぐ!」
「自滅だ。うまくできてる。さすがはプログラムってとこだな」
「さすが桔平さん。だてにヌルヌルしてないね」
「ぬるぬる?……」気を取り直して、ボードに記された被害状況と朴の顔を見比べた。「大人達の悲観はすぐに子供にも伝染する。感情をコントロールできない幼い子供達が一旦絶望を覚えたら、世界はあっという間に闇に包まれるだろうな。てか、あんたゾンビ映画好きだったのか?」
「大好き。貸す?」
「いや、いい……」
「残念。名作多いのに」
「あの」おそるおそる忍が手をあげる。「私、観たいです」
「さすが忍ちゃん、わかってる」
「てめ、そんなん観て、また人前でげろげろすんじゃねえぞ」
「……しねえですってば……」
朴が楽しそうに笑った。
「まだ人の少ない島とかだから被害も少なかったけどね。もし本島の、例えば百万単位で人口が密集しているような場所だと、手の施しようがないよ。いくら夕季ちゃん達でも、一つ一つ目標の違う百万の敵を一度には相手にできない」
「確かにな」光輔のバナナを奪い取り、礼也が難しい顔をしてみせる。「俺らに向かってくる百万なら造作もねえ。だがちりぢりになった百万を一体一体追いかけるのはリアルにつらい。小さな島だからいいってわけじゃねえが、まだ何とかなった方ってことだな」
礼也のバナナを夕季が奪い取った。
「てめ!」
「その百万が新たな不安を介して一千万になり一億になり、さらなる不安を感じた世界中で人類の数と同じだけのモンスターが増殖する。あっという間に、世界は奴らに食いつくされる」物欲しそうにバナナを眺めている光輔に気づき、皮を剥いて差し出した。「……はい」
「あ、ああ、サンキューベルマッチョ」
「……」
もふもふと頬張る。「ウマ」
礼也が辟易顔を桔平に差し向けた。
「なんか方法はねえのかよ」
「その方法がさっき幹部会議で却下されたばかりだ。そこでだ、これからここにいる人間だけで、あらためて多数決をしようと思う」
「はあ? なんのだ? 俺らだけで何決められんだって」
「そんな権利、あたし達には……」
「権利ならある」
礼也と夕季を見据え、桔平がにやりと笑ってみせた。
「俺達はこの世界に希望をもたらすことができる、数少ない人間だからだ」
「俺もすか?」
桔平が振り返り、バナナをくわえた間抜けヅラをまじまじと眺めた。
「おまえは……」
「……ふんぐっ」