第十九話 『プライマル』 3. 小川秋人
その日一年A組では本年度最後の席替えが行われていた。
眼鏡をかけた大人しそうな少年が、窓際の列の後ろから二番目の席へ腰を下ろす。何気なく後方を振り返り、その顔が硬直した。
古閑夕季の姿があったのだ。
目が合い、さっとそむける。
夕季はそれを別段何とも思わずに、いつもどおりつまらなそうに窓の外を眺めていた。
「おう、小川」少年のそばへ来た同級生が小声で耳打ちした。「古閑の前じゃん。よかったねえ」
「バカ」小川と呼ばれた少年が、ちら、と夕季を見やる。
夕季は気づいてない様子だった。
「なんでバカなんだよ。おまえ、前、古閑のこと、いいって言ってたじゃん」
からかうように笑う。その友人も眼鏡をかけていたが、温厚そうな彼とは違って目つきが鋭く、プライドも高そうだった。
するとその少年、小川秋人は情けない顔になり、本音を吐露した。
「そうなんだけど、古閑さんの前って、なんだかすごいプレッシャーを感じる……」
二人が夕季へ目を向ける。
夕季は相変わらずつまらなそうな顔で外を見続けていた。
授業中にも関わらず、秋人は集中力を欠いていた。
後ろにいる夕季のことが気にかかっていたのである。
この選抜クラスにおいて学業成績は二学期から独走状態にあり、身体能力でも学園全体の中で屈指のスペックをたたき出していた。担任の教師ですら一目おくほどの優等生なのだ。
なのに一向に周囲と溶け込むそぶりを見せない。
それを友人達は、お高いだの、大人ぶっているだのと、陰口を叩く。
しかし秋人は知っていた。
時々夕季が淋しそうに目を伏せるのを。
誰かに話しかけようとして、思いとどまるようにそれをやめてしまうのを。
それから、諦めた様子でつまらなそうに外の景色へ目を向けるのを。
好きというほどの感情ではないにしろ、以前からどこか惹かれるものがあったことは否定できなかった。
「小川、次やってみろ」
教師の声に秋人の心が引き戻される。が、時すでに遅く、慌ててページをめくるも、どの問題を指しているのかすらわからなかった。
「え、と……」
「二番」
「……」囁き声が聞こえ、秋人がちらと目線を向ける。
あいもかわらず、夕季は窓の外へ顔を向けたままだった。
「……二番」
「正解」教師が黒板へ向き直る。「ボーっとしとるなよ」
「はい……」席に座り、秋人が小声で夕季に礼を告げた。「ありがとう」
「……」
「……」
「……うん」
横を向いたまま、照れたように夕季が受ける。
秋人がほっと胸を撫で下ろした。
昼休みに秋人が教室へ戻ると、自分の席に他のクラスの生徒が座っていた。
見覚えのある顔。
G組の穂村光輔だった。
光輔は明るい性格で誰とでもわけへだてなく接したので、A組でもそこそこ知られた存在だった。
秋人の机へ背中を向けて座り、楽しそうに夕季へ話しかける。夕季からのレスポンスはそれほどではなかったが、時おり顔を向けられるさまに、秋人はうらやましさを否定できなかった。
光輔が夕季と何を話しているのか知りたかった。自分と夕季との接点をまるで思いつけなかったからである。
「でさ……」
「光輔」
「?」
夕季が軽く目配せをし、光輔が振り返る。
光輔と秋人の目線が合致した。
「そこ、その人の席」
「え、マジ」光輔が立ち上がり、申し訳なさそうに秋人へ笑いかけた。「ごめん。勝手に座っちゃって」
「いや、いいよ、別に……」低姿勢の光輔の態度に、かえって秋人が恐縮する。「いいよ、まだ座ってても」
「いやいや、そんな」
「次の授業、始まるよ」
「おお、そうだ。次は体育だった」ポンと手を叩き、夕季へ顔を向ける光輔。「その前も体育だったけど」
去り際に夕季へ念を押した。
「んじゃ、さっきの話、考えといてよ」
「……わかった」
淡々と返答し、夕季がまた窓の外へ目線を移す。
それを別段気にも止めずに光輔は、はは、と笑ってみせた。
席へ着こうとする秋人をおもしろそうに眺め、光輔が気さくに声をかけた。
「こいつの前ってさ、緊張するだろ?」
「!」
「光輔!」
「こうやってすぐ睨んでくるしさ」
バツが悪そうに夕季が顔をそむける。
秋人はどう対処したらいいのかもわからずに、苦笑いするだけだった。
「あ、穂村君」
女生徒の一人が光輔に声をかける。その隣の生徒も嬉しそうに手を振ってきた。
よそのクラスの人間なのに、光輔は秋人よりはるかにこのクラスにとけ込んでいた。
それをねたましげに眺める輩もいる。秋人の友人達もその一部だった。彼らは光輔を上から見下ろし、頭が悪いくせに、と虚勢を張る。だが秋人は素直にそれをうらやましいと感じていた。
自分にないものを持つ光輔を恨めしげに眺め、秋人が何も期待せずに着席する。
「あ」何気なく目をやった夕季の携帯電話に、思わず声をあげてしまった。
ゆっくりと顔を向ける夕季。秋人の視線の先がストラップのフィギュアであることに気づき慌てて手で隠し、照れたようにそっぽを向いた。
「……それって、エルバラだよね」
「……」振り絞るような秋人の声に、静かに夕季が向き直る。
秋人が真顔を向けていた。
「古閑さん、エルバラ好きなの?」
「好きってほどでもないけど……」夕季が消え入りそうな声で呟く。
途端に秋人のテンションが急降下していった。
「あ、そうか……。あれ少女マンガだけど結構おもしろいかなって思ったりしてたんだけど……」
気まずくなり秋人が前を向く。
すると時間差で夕季の小さな声が追いかけてきた。
「小川君も読んだことあるの?」
秋人がおそるおそる、ひくつく顔を向ける。
初めて夕季に自分の名を呼ばれたのが嬉しかった。
「……ってかさ、姉ちゃんが途中まで買ってたの、いらないからってくれてさ。捨てようかなって思ったんだけど、読んだら結構おもしろくてさ。で、自分で続き買っちゃったりさ。立ち読みとか恥ずかしいから、コミックスでしか読んでないけど。だから俺、今どうなってるか知らないし」
緊張のあまり舞い上がり、とっちらかってまとまりのないことばかりを並べ立てる。
それでも夕季は表情を変えることもなく、秋人の顔に注目し続けていた。
それが秋人へさらなるプレッシャーを与える。
「古閑さんも持ってるの?」
夕季が首を振った。
「コンビニで立ち読みしてるだけ。一度だけマンガ喫茶で全部読んだけど」
「ああ、ふうん……」真っ白けの頭のまま、考えるそぶりでふんふんと何度も頷いてみせた。「よかったら、あげよっか?」
「……」
何気ない一言に、一瞬にして場の空気が入れ変わる。
いきなり『あげる』はないだろう、と秋人は己の失策を痛感した。
「あの、どうせもらいものだしさ。俺、何回も読んでるし、結構たまってきちゃったし、捨てるのもったいないし、女の子が読んだ方がいいかもとか思うし、……別にいらないものもらってってわけでもないんだけど……」ボロボロだった。「ははは……」
「……」
「……は」
「……」
「……」
「貸してもらえるのなら、お願いしたい」
「!」
秋人の中で何かが弾けた。
「あ、明日持ってくるね」
「……いいよ、急がなくても」
「あ、じゃあ、忘れなかったら」
「……うん」
「……」うん、と気合を入れ直す。「オンドレって死んじゃったの?」
「……死んでないよ」
「そっか。ちょうどいいとこで終わっててさ。コミックスって半年くらい遅れてるし。俺みたいなのが少女マンガのコーナーとかいると、いかにもって感じだしさ。あ、ゴメン、ウザかった?」
「……別に」
「あ、よかった。でさ……」
「……」
「おーい!」
昇降口で夕季が振り返る。
走り寄る光輔の姿が見えた。
「夕季、一緒に帰ろ」
「……。今日はちょっと用がある」
「ええ! 友達もいないのに!」
夕季の目つきが険しくなる。
「……いや、いるよな、友達。俺とか、雅とか、あと……、礼也とか……」
「……」
「はは、は……」
「……。部活は」
「休み」
「休んでばかりじゃない」
「うちの部、確かにあんまり真剣さがないみたいだな。バスケ部やバレー部みたいに期待されてないし、体育コースの人間も少ないし。でも大会前にはちゃんと練習するよ」
「勝てるの」
「勝てない」
「……。それって駄目だと思う」
「でも今度のチームには俺がいるんだぜ」えへんと胸を叩く。
「……。レギュラーになれたの」
「まだ」
「……」
「んじゃさ、おまえがマネージャーとかになってビシッと……」
「……」
「……冗談だけどね」
「あたりまえじゃない」
「はは……」
そこへ光輔の友人達が現れた。
「おお、光輔」
スタイリッシュな優男、羽柴祐作だった。
「おう、祐作」
祐作が夕季に気づく。
「お、古閑ちゃんもか。おっす」
「……」
祐作の隣で、ツンツンすだれ頭の曽我茂樹が背筋を正した。
「あ、古閑さん、こんにち……」
「おう、光輔。今日部活ないんだろ」
「ああ」
「一緒に帰ろうぜ」
「ん、ああ……」
光輔がちらと夕季を見やる。
それを別段気にもせず、こともなげに祐作は重ねてきた。
「古閑ちゃんも一緒なんだろ。ちょっと待っててくれよ。すぐ来るから」
「あ、古閑さ……」
「あ、古閑ちゃん、また一緒に遊びに行こうな」
「あ、あの……」
「おい、行くぞ、茂樹」
「な!」
後ろ髪引かれる茂樹の手を無理やり引き、祐作が去って行く。
残された二人は、ぼう然とその姿を追っていた。
夕季が光輔を見つめる。
それに光輔が振り返った。
「何?」
「……。何も……」
「また一緒に遊ぼうって」
「……。ふ、うん……」
「あ、また……」
「そんな顔してない!」
「……どんな顔?」
「……別に」
「……。別に?……」
「……」
「夕季」
雅の声に二人が振り返る。
「あ、光ちゃんもいたんだ」
「おいっす」
「遅いから来ちゃった」
「今、そっちに行こうと思ってた」
「あ、なんだ。やっぱり雅か」
「何?」きょとんと光輔を見つめる雅。「やっぱりって?」
「いえ、何も……」
夕季が思いきり光輔を睨みつけていた。