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第二十七話 『傷』 9. 杏那と玲奈

 


「……杏那」

 母親に呼ばれ、自宅の階段を上がりかけた杏那が振り返る。

 悲しげに眉を寄せた母親を、杏那も同じような顔で見つめ返した。

「何、お母さん」

「玲奈のお見舞いに行ってあげて」

「……」

 瞳を揺らした杏那が再び階段へと足を向ける。

 そこへまた母の声が追いかけてきた。

「一度くらい顔を出してあげてよ。あの子、喜ぶから」

「……」足を止め、ぶすりと言う。「私が行っても何も変わらないから」

「そういうことじゃないでしょ」

 振り返らずともその声に涙が滲み始めていることを、杏那は気づいていた。

「あの子はあなたのことを待っているのよ。あなたが来てくれるのをずっと待ってるの。あなたが嫌がると思って、そんなこと絶対口にしないけれどね。でも、そうなの。あなたのことが好きだから。行ってあげて。何が気に入らないのか知らないけれど、嘘でもいいから励ましてあげて。でないと、あの子がかわいそうで……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 崩れ落ちる母親の姿を静かに見下ろし、杏那は深く物憂げなため息を吐き出した。


 病室の前でノックをしかけ、思いとどまってそのままハンドルに手をかける。

 玲奈のリアクションが予想できなかったからだった。

 すっとドアをスライドさせると、玲奈の横顔が見えた。

 青白く精気のない顔。

 それは何の希望も持たず、ただ一点だけを見つめていた。

 過去の想い出が詰まった、家族のアルバム写真を。

 杏那の気配に気づき、玲奈が顔を向ける。

 ちらと覗いた写真は、ピアノの発表会で杏那と玲奈が楽しそうに笑いながら写っているものだった。

「……お姉ちゃん」

 信じられないといった様子でそれを口にし、玲奈が嬉しそうな顔をする。

 しかし改めて杏那と向かい合い、玲奈はその感情をすぐに心の中に封じ込めた。

「ごめんね、忙しいのに。無理して来てくれなくても、いいよ……」上ずる声でそう言い、涙を見られないように横を向く。「……ありがとう」

「……ば、か」

「!」

 玲奈が驚きの表情で振り返る。

 杏那が笑っていたからである。涙を浮かべながら。

「忙しいもくそもあるか」

「お姉ちゃん……」

『諦めるな!』

 それは杏那の心からの叫びだった。

「ごめん、ずっと来れなくて……」

「……うん」

 玲奈が笑った。涙を浮かべ、嬉しそうに。

『諦めるな、玲奈……』


 それから杏那は頻繁に、玲奈のもとへと足を運ぶようになった。

 残された時間のことなど関係ない。

 大切な存在、かけがえのない存在である妹と、少しでも多くの時間を共有するために。

 それをきっかけにまた玲奈に笑顔が戻った。

 杏那の顔を見て、玲奈が嬉しそうに笑う。

 たとえ病状が悪化していても、玲奈の顔は幸せそうに見えた。

 かつてのように。

 だがいつからかまた、玲奈は笑わなくなる。

 それは杏那がいくら元気づけようとしても、変わることがなかった。

 それでも杏那は通い続けた。

 せめてもの罪滅ぼしのために。


 そしてついに、運命の日が訪れる。


 病院から呼び出しがかかり、杏那が学校から急行すると、病室はすでにも抜けの殻だった。

 突然玲奈の容態が急変し、集中治療室へと運ばれたのだ。

 涙を堪えながら杏那が玲奈のもとへと向かう。

 そこではすでに最期の時を待つだけの空間が用意されていた。

 苦しげにあえぎ、今にもこときれそうな玲奈を、何もできずに見守るだけの集団が囲む。

 その最後列から顔をのぞかせ、ひたすら奇跡を願うだけの杏那。

 自分にはそれ以上距離を縮める資格はないと感じていた。

 朦朧とする意識の中、玲奈が何かを求めきょろきょろと視線をめぐらせる。

 杏那にはわかっていた。

 自分を探しているのだと。

 やがて玲奈が杏那を見つけ出す。

 その瞳にさらされ、杏那は悲しみを堪えることができなかった。

 洪水のようにとめどなく涙があふれ出る。

 杏那にはどうすることもできなかった。

 自分には助けを求めるその苦しみをぬぐい取ることも、和らげることもできない。

 何もしてやれない自分が情けなくて、濁流のように涙が流れ続けた。

 すると玲奈がかすかに笑った。

 何もかえらないことを知り、諦めたように。

 そしてそのまま玲奈は静かに息を引き取ったのだった。


 悲しみにつつまれるその場を杏那は後にした。

 そこに自分がいてはいけないような気がしていたからである。

 病室に足が向き、部屋の中を見回すと、一冊の日記帳が床に落ちているのに気づいた。

 玲奈のものだった。

 表情も立て直せない状態で拾い上げ、何気なく中を開く。

 死の間際まで玲奈が綴っていたであろうそれに目を通し、杏那の心が崩壊した。

 そこには杏那のことばかりが記されてあったからである。


 ×月×日 またお姉ちゃんが褒められていた。嬉しい。かっこよくて素敵なお姉ちゃんが大好き。お姉ちゃんみたいになりたい。私の自慢のお姉ちゃん。


 ×月×日 お姉ちゃんに嫌われたかもしれない。悲しい。自分のせいだから仕方ないかも。お姉ちゃんに嫌われたくない。何もできなくてもいい。お姉ちゃんと一緒にいたいな。できればずっと……。


 ×月×日 病気になって入院した。やだなあ……


 ×月×日 たくさんの人がお見舞いに来てくれた。嬉しかった。早くよくなってみんなのところへ帰りたい。お姉ちゃん、明日は来てくれるかな。やっぱり来ないのかな。許してくれないのかな。もう……


 ×月×日 お姉ちゃん、今日も来てくれなかった。私のこと、本当に嫌いになったのかな。悲しい……


 ×月×日 こわい。死にたくない。死にたくない。お姉ちゃん、助けて……


 ×月×日 今日、お姉ちゃんが来てくれた。嬉しい。だけど……。


 ×月×日 お姉ちゃん、今日も来てくれた。すごく嬉しい。


 ×月×日 お姉ちゃんと一緒にゲームをやった。楽しかった。またお姉ちゃんと一緒にいられるように頑張ろう。死なないように頑張るぞ。


 ×月×日 お姉ちゃんの悲しそうな顔を見た。あんなお姉ちゃんの顔は見たくない。あんな顔するのなら、もう来てくれない方がいい。つらい。苦しい。悲しい。私はお姉ちゃんの笑った顔が一番好き。


 最後のものはメッセージのようだった。

 家族への感謝の気持ちが順番に並べられた後に、杏那へ向けられたそれが続く。


 ×月×日 ……。

 お姉ちゃんへ。玲奈はお姉ちゃんのことが大好きだよ。美人で頭がいいお姉ちゃんが大好き。強くてかっこいいお姉ちゃんが大好き。優しくてすてきなお姉ちゃんが大好き。いつもみんなのことを考えていてくれてありがとう。迷惑ばかりかけてごめんね。何もできない私なんかとは違って、誰にでも自慢できる最高のお姉ちゃんが、玲奈は本当に大好きです。どんな時でも、いつだって、いつまでも。これからは……


 そこで日記は終わっていた。

 今日の日付で。

 玲奈は己の死期を悟り、最期の最期までそれを綴っていたのである。

 おそらくは次に添えるべき一言を探して膨大な時間を費やし、ペンを手にしたまま力尽きたのだろう。

 大好きな杏那への最後の想いを。

『何故、諦めた……』

『何故最後まで戦わなかった……』

『どうすることもできないことを知っていたから……』

『何もできない弱い存在であることを知っていたから』

『……私が』

 日記帳を抱きしめ、杏那が号泣する。

 それは馬鹿な自分を戒める、血を吐かんばかりの絶叫だった。

『逃げていたのは私だ』

『あいつの苦しそうな顔が見られなくて』

『つらくて』

『弱かったのは、私だ……』

「あああーっ!」

 そして心に刻みつける。

 玲奈は何もできない弱い杏那を信じたから、死を受け入れるしかなかったのだと。

 上辺だけの優しさを信じたばかりに、報われなかったのだと。

 もっと強い存在がそばにあれば、生きる力を与えるものがそばにあれば、或いはそれを信じることができたのではないのか、と。

「ああああああーっ!」

 弱さは人を傷つける。

 優しさは人を傷つける、と。

「ああああああーっ……」


           *


 胸を押さえ、三雲が、ぐ、と呻いた。

「……くそ」

 脳裏にはいつまでも玲奈の顔が浮かび続けていた。

 片時も離れず、いつも三雲の心を締めつけながら。

 心の中の玲奈が苦しそうな顔をする。

 そして笑った。

 それが三雲の胸の底に楔となって深く突き刺さった。

『何故笑った』

『何故諦めた』

『違う!』

『諦めたのは、私の方だ……』

 真っ青な唇を三雲が噛みしめる。

 無機質な電灯の明かりの彼方に、鏡のように過去が浮き上がりつつあった。

 玲奈を見つめる三雲の顔。

 涙でくしゃくしゃの顔。

 どうすることもできず、ただ泣くことしかできない無力な存在。

 それが自分自身であることは、三雲は痛いほどにわかっていた。

 そしてそれを見抜いたように、玲奈が三雲を諦めたのだと感じていた。

『自分がもっと強ければ、あいつを救うことができたかもしれない』

『もっと強い存在ならば、力を与えることができたかもしれない』

『何も変わらないかもしれない。だが、諦めではなく、せめて希望だけでも見せてやることができたかもしれないのに……』

『何もできなかったのは私の方だ』

『本当に弱かったのは、私だ……』

 積み重なる痛みが心を責め続け、激しく訴え続ける。

『あいつのことを認めてやれなかったせいで、追いつめてしまった』

『私があいつを殺してしまった』

『小さく弱い自分が』

『強くも優しくもなく、身勝手なばかりに』

『ちっぽけな自分のせいで……』

『またこの世界で生きていかなければならない』

『自分のことしか考えられず、傲慢で、愚かで、生きる価値すらない醜い私が……』

『……求められもしないこの世界で……』

 玲奈が最後に何かを告げようとしたことを思い出す。

 小さく動いた、笑みのわけ……

『ありがとう……』

 違う!

『ごめん……』

 違う!

『さようなら……』

 違う!

『何を!』

 違う……

『何を』

 ……何も伝えられなかったのは、

『何を……』

 三雲本人だった。

『……玲奈、おまえは、何を……』

 そして三雲はうずくまり、呻くようにしゃくりあげた。


           *


 ピアノ発表会の控え室で、手に触れてもリアクションのない三雲に、玲奈が泣きそうな顔になった。

 淋しげな玲奈の顔。

 諦めの顔。

 それ以上は何も求めようとはせず、己を知る玲奈が静かに手をほどこうとする。

 まるでそれが決別であるかのごとくに、見守るように少しだけ笑いかけながら。

 ふいにピクリと指先をうごめかせ、その手を三雲がぎゅっと握りしめた。

 大好きな妹の手を二度と離さないように。

「帰ろう」

 前を向いたまま三雲がそう告げると、玲奈が嬉しそうに笑った。

 口数は少なかったが、寄り添うように並んで歩く姉妹の姿はしごく楽しげに映った。







                                     了


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