第二十七話 『傷』 8. 愚かなプライド
不定期な点滅を繰り返す御神体の中で、三雲はとげとげしい意識を差し向け続けていた。
自身が崩壊へ向かいつつあることすら認識できず、ただ引かざるプライドのためだけに。
「!」
ふいに点滅が終了し、三雲の顔が苦痛から解放され、みるみる人の色を取り戻していく。抗えない安堵の中、全身が背中からシートに押しつけられるように沈み、隆起していた胸が破裂寸前にまで膨れ上がっていたことを知った。
それは光の消滅でもあり、集束が解除されたことを意味していた。
く、と歯がみする間もなく、押し入ってきた大柄な影に肩から引き抜かれる三雲。
デッキで四つん這いになり顔を向けると、仁王立ちの木場が眼前に立ちはだかっていた。
「木場……」
「木場さん」
後ろから呼びかけられ木場が振り返る。
三雲も追ったその視線の先には雅の姿があった。
エレベーターの奥では、雅を連れてきた桔平と忍が、三雲達の方をうかがいながら救命機器を準備しているのが映った。
「頼んだぞ」
木場に言われ、雅が頷く。
その表情に笑みをたたえ、それでもひたすら強いまなざしで。
御神体の頭部にフェード・インしようとする雅へ、這いながらすがるように三雲が手を伸ばす。
「待て! そこは私の……」
「いい加減にしろ、三雲!」
雑事を振り払うがごとく、鬼の形相で振り返る三雲。
が、そこで三雲が目の当りにしたのは、これまでに見たことがないほどの怒りにまみれた木場の表情だった。
その激情は三雲の精神力を心胆から退かせるに充分足りうるものだった。
「木場……」
「死にたいのか、貴様は!」
「!」
木場の一喝に、ようやく三雲が自分の置かれた状況を把握する。
手足が激しく震え、全身の骨は軋んで悲鳴をあげ、一人で立ち上がることもままならない。口いっぱいに広がる血の味は、むしろ内蔵の奥から押し上げられてきたものだろう。
突き刺さる頭の痛みに、噛み切った唇の出血すら忘れ去られていた。
初めて己の死を意識し、しかしそれでいてなお、落ち着き払った表情を三雲が作り上げる。
どうしても譲れないものがある以上、死すら受け入れるしかない最期の覚悟を、今この場所で決めたのである。
「どけ、木場……」台車に手をかけ、すがるように立ち上がる。「……そこは、私の場所だ。私だけの、場所だ……」
死線を見据えたまなざしには、いかなる声も心も響かない。
それでも木場は、一歩足りと道を譲ろうとはしなかった。
三雲以上に強きまなざしを差し向けたまま。
「もういい、三雲」
「まだだ。まだ私はやれる……」
「おまえはもう無理だ」
押し殺した木場の声に、三雲の感情が爆発した。
「ふざけるな、木場! 私はまだやれる。やれる。こんなところで降りてたまるか!」
「本当に死ぬぞ」
「それがとうした!」
疲労困憊の三雲が、倒れそうになりながら木場にしがみついてきた。
血を吐き、顔をゆがめ、相手と刺し違えんばかりの表情で。
「今ここで退いたら、永久に落伍者のレッテルを貼られることになる。貴様、また私に恥をかかせる気か! そんな目にあうくらいなら死んだ方がましだ!」
「貴様、自分のエゴのためにオビディエンサー達まで死なせる気か」
「ああ!」
「彼らが死ねば間違いなく人類は滅ぶ。おまえの手で世界が滅ぶんだ。そんな烙印を押されてもいいのか」
「かまうものか! 私は……」
はっとなり、残された力を振りしぼって三雲が木場を押しのける。
向かう先は黒いアタッシュ・ケースだった。
怪しげな形の注射器を取り出した三雲を見定め、木場がそれを取り上げようとした。
「離せ、木場!」
激しく睨みつける三雲を、木場は表情もなく見続けていた。
乱れた着衣の隙間から左の肩口がのぞく。
その赤黒く爛れた皮膚を確認し、木場が、くわと目を見開いた。
「!」
一瞬の出来事だった。
木場に拳で殴りつけられ、数メートルも三雲が吹き飛んでいったのである。
背中から強化コンクリートの壁に叩きつけられ、ぐったりと脱力する三雲。
「何、何をする。あ……」
もはや立つことすらかなわず、朦朧とした意識の中、三雲は弱々しく手を伸ばすことしかできなかった。
厳しい顔で見下ろす木場の顔をぼんやりと眺めながら。
「その痛みで多くの命が救われたことをよく噛みしめろ」
それが哀しみであることを、誰よりも三雲は知っていた。
「何を、馬鹿な……」
もはや寸分の感覚もない。
『やめろ。そんな目で私を見るな!』
ただ心の叫びだけが、脳内を目まぐるしく駆け巡っていた。
『何故だ!』
『何故おまえは!』
『何故……』
『……私を』
『何故おまえは助けた。弱い私を』
認められない想いだけが、三雲の心の中で叫び続ける。
『傷を負ったのは自分のせいだ』
『弱かった自分の責任だ』
『弱者に手をさしのべる理由など、どこにもないはずなのに』
『まただ、また……』
『また、かなわなかった。……木場の強さに』
最後の意地で唇を噛みしめた。
『負けたのは、私がこいつより弱かったから、だ……』
そして三雲は静かに目を閉じた。
『……希望』
そう意識の奥で呟きながら。
*
医務室のベッドの上で三雲が目覚める。
周囲の静粛さから、すべての決着がついたことを悟った。
軋む身体を無理やり起こして立ち上がると、近くに木場の姿があることを知った。
ギリリと睨みつける三雲に、先までの激情はどこへやら、気まずそうに木場が目をそむけた。
何も言わず、表情を怒りで塗り固めたまま、三雲が医務室を出ようとする。
室外へ一歩踏み出した時、後ろから木場の声が追ってきた。
「顔を殴ってすまなかったな」
三雲が一瞬立ち止まる。
「恨みたければ恨めばいい。俺も女を拳で殴ったのは初めてだ」
申し訳なさそうに、そして慈愛を込めた口調で、木場が穏やかにそう言う。
しかし、それに何も答えることなく、三雲はまた歩き始めたのだった。
すべてのしがらみを断ち切らんとせんばかりに、その場から離れようと。
それを見守る木場のまなざしは、しごく優しげだった。
「いつか必ずおまえの力が必要になる時がくる。それまで内面を鍛えて待っていろ」
「……知るか」再び三雲が立ち止まり、今度は何とか言葉をしぼり出す。それは今にも崩れそうな、極めて脆い感情だった。「勝手なことばかり言うな。私には関係ない……」
「何かあったら責任はとってやる。いつでも俺のところへ来い。おまえは、俺達の仲間だ」
穏やかな木場の気持ちに灼かれ、くっとうめく三雲。
それから足を引きずるように歩き出した。
去って行く三雲の背中を、真っ直ぐに見守り続ける木場。
その凛とした顔つきの前に、突然複雑な面持ちの忍が立ちふさがった。
じっと睨みつけるまなざしから顔をそむけ、木場がバツが悪そうにこめかみをかく。
「軽蔑するか」女の顔を殴ったことを、と。
「いえ」
プレッシャーにいたたまれなくなった木場が、そろりと忍の顔をうかがい見た。
「……なら何故そんな不服そうな顔で俺を睨む」
「何故手加減したのですか」
「……」
「何故木場さんが責任をとらなければいけないのですか。悪いのは向こうの方なのに。木場さんが責任を取る必要はありません」
「……」
その時、横から桔平が湧いて出てきた。
ひゅ~、ひゅ~、と、おもしろそうに笑いながら。
「おい、やべえぞ、木場。なんだか怒ってるぞ、しの坊。なんだかわかんねえけど、すっげえ」
そんなことなどかまう余裕すらないほどに、追いつめられる木場。
「何を……」
「もし本心からそれを言っているのだとしたら、私は木場さんを軽蔑します」
「俺もえっちなゴリラえもん先輩を軽蔑してるぞ。ずっと昔からだけどな」
「桔平!」
「話をそらさないで下さい。私が言いたいのは!」
「ああ、ああ、ああ、ああ」
「ちゃんと聞いているんですか! だいたいですねえ!」
「ああ、ああ、ああ、ああ……」
鉛のような両足を引きずりながら、薄暗い通路を三雲が歩いていく。
目標も志も何もかもを失い、帰る場所すらわからないまま。
ぐらりと傾き、意識が薄らいでいくのを歯を食いしばって耐える。
交差する記憶が、脳裏で渦を巻き始めていた。
『杏那、杏那……』
それは母の呼ぶ声だった。