第二十七話 『傷』 4. 三雲杏那
煌びやかなスポット・ライトの中心に三雲杏那はいた。
ピアノ発表会の場で、他の誰よりも多くの歓声と賞賛を浴びる。
まだ中学生だというのに、そのたたずまいは居合わせた大人達からため息がもれるほど優雅で、満場の心を魅了していた。
そこに一際大きな羨望を、輝く瞳に映し出す少女がいた。
杏那の二つ違いの妹、玲奈だった。
「お姉ちゃん、素敵だった」
興奮さめやらぬ様子で前のめりになる玲奈を横目で流し、杏那が淡々と礼の言葉を返す。
それすらもヒートアップの材料とし、玲奈がさらなる輝きを瞳に増した。
「ほんと、カッコよかった。最高だよ」
「……」
「みんな、お姉ちゃんのことカッコいいって言ってる。私とは大違いだって。でも仕方ないよ、ほんとのことだから」
まるで自分のことのように喜び、にこにこと笑顔を振りまく妹に、杏那がちらと目をやる。
背中を向けたまま帰り支度を整え、静かに告げた。
「行くよ」
平坦なその口調に、玲奈がクールダウンしていく。
それから歩き出した杏那を戸惑うように眺め、玲奈は勇気を振り絞って後ろから杏那の手に触れた。
「……」
何も言わず、杏那が拳をぎゅっと握りしめる。
かたくなな意思を持つ、強い塊。
それはまるで玲奈との接触を拒んでいるようでもあった。
やがて、反応のない杏那から離れるように、淋しそうな表情の玲奈が己の手の力を解いていった。
*
「いってきまーす」
ランドセルを背負い、玲奈が玄関から飛び出していく。
朗らかなその笑顔は、先を行く背中に追いつくと、さらに輝きを増した。
「お姉ちゃん」
満面の笑顔で杏那の手をつかむ。
顔立ちは杏那とはかなり違ったが、誰の目からも二人が仲のよい姉妹に見えたはずだった。
戸惑いながら振り返った杏那だったが、嫌そうな素振りも見せずにその手を握り返したのだった。
「早くしないと遅れるよ」
「うん」
嬉しそうに玲奈が笑う。
通学時間はいつもどおり、ほぼ玲奈のおしゃべりに杏那が相づちを打つ形で過ぎていく。
だがはしゃぐ玲奈を、杏那もまた嬉しそうに眺め続けるのだった。
玲奈は常に杏那の後を追い続けた。
杏那がすることすべてを真似、少しでも近づこうとする。
その都度杏那は玲奈に丁寧に手ほどきをした。
しかし飲み込みが早く何でもすぐにものにしてしまう杏那に対し、おっとりしていて要領の悪い玲奈は、何をしても姉の足もとにも及ばなかった。
だがそれでいいのだ。
玲奈にとって杏那は憧れの存在だった。誰にでも誇れる自慢の姉でいてくれるだけでよかったのだから。
それでも少しでも杏那に近づきたいと願い、懸命に練習する。
そんな玲奈のことが、杏那も好きだった。
杏那にとっては、玲奈はか弱く何もできない存在だった。自分が守ってあげなければいけない存在。それは見下しているわけでもなく、姉としてごく自然に芽生えた感情だった。
玲奈を守りたい。
そう杏那は心から思っていたのである。
ある日、二人にとって忘れられない出来事が起きる。
ピアノの発表会で、杏那を差しおいて玲奈が世代別のメインに選ばれたのだ。
誰もが杏那の選出を信じて疑わなかった。杏那はもとより、玲奈本人も。
手放しで喜ぶ両親を嬉しそうに眺め、笑顔で玲奈が振り返る。
途端にその表情が一変した。
祝福してくれるものと信じていた杏那が、無表情に自分を見つめていたからだった。
「お姉ちゃん……」
玲奈が言葉を失う。
すると杏那がふっと笑ってみせた。
静かにおめでとうと告げる。
それに笑みで返そうとした玲奈が再び顔色をなくした。
目を合わせることもなく素通りしていった杏那にショックを受けて。
玲奈の発表会は散々なものだった。
何度もミスを重ね、泣きそうな顔でようやく演奏を終える。
落胆の様子を隠せず、励ましの声をかける関係者から逃れた玲奈の前に、杏那が立ち塞がった。
失敗をおどけてごまかそうとした玲奈が、次の瞬間、ビクッと身をすくませる。
厳しい顔で睨みつける杏那に、激しく叱責されたからだった。
「何をやっている! だいなしじゃないか!」
唇をわなわなと震わせ、悲しそうに玲奈が顔を伏せる。
しかし杏那の追従は容赦ないものだった。
「そんな顔をしても駄目だ。おまえはみんなを差しおいて選ばれたのに、あんないい加減な演奏で全部ぶち壊した。みんなの期待も、信頼も、すべて。おまえなんかにピアノを弾く資格はない!」
「……そうだよね」玲奈が塞ぎこむ。意気消沈の中、震える声を何とかしぼり出した。「あたしなんかよりお姉ちゃんが出た方がよかった……」
「馬鹿!」
杏那の鉄槌に玲奈が弾かれたように顔を上げる。
「そういうことを言っているんじゃない! 私はそういう無責任な言い方が大嫌いなんだ。できないのなら何故その時に断らない。だからおまえは!……」
まばたきも忘れ、激高する姉の姿を悲しそうに眺めていた玲奈が、ぼろぼろと涙を流し始めた。
「……ごめんなさい」
顔をくしゃくしゃにし、玲奈がしゃくり上げる。
杏那の心の中で、それまでの感情が別の何かに変貌しようとしていた。
「もういい!」
憤慨する杏那が立ち去ってからも、玲奈はいつまでも悲しそうに泣き続けるだけだった。
嗚咽にまみれたその情けない顔のまま。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
玲奈から離れてからも、杏那の怒りはおさまらなかった。
杏那には玲奈の行為が許せなかった。
玲奈がわざとミスをしたことを知っていたからである。
杏那に嫌われないように、駄目な自分を装って。
杏那はそれが我慢できなかった。
今まで自分よりも弱いと感じていた妹に、ほどこしを受けたような気持ちがしていたからである。
選ばれなかった自分に情けをかけられたような気がしていたのだ。
それが杏那のプライドをひどく傷つけた。
己の弱さをまざまざと見せつけられたような屈辱感を味わって。
玲奈に対し、ふつふつとどす黒い感情がわき上がってくるのを、杏那は否定することができなかった。
それを境に、二人はしだいに言葉すら交わさなくなっていった。
どんなこともスマートにこなす杏那に対し、玲奈は失意の影響もあってか何一つものにできない状態が続いた。
当たり前のように褒められる姉と、結果が出せずにもがき続けるだけの妹。
杏那が信用とスキルを漏らさず上積みするのに比例して、玲奈の方は以前の明るさも消え去り、陰に埋もれていくだけの存在となっていった。
それを見下ろす杏那のまなざしは依然として冷たいままだった。
弱いのはあいつ自身のせいだ。
一人で何もしようとしない臆病さのせいだ。
べたべたとくっつき、人の後を追うことしかできない、ずるい性格のせいだ。
何もできないことをおかしいとも思わない、哀れな存在。
だからおまえは、何もつかめないのだ、と。
今思えば、自分の真似ばかりをしてつきまとっていた玲奈のことを、杏那は疎ましくさえ思い返していた。
自分にとって有益とならない存在、不必要な存在であると、結論づけるにいたるほどに。
やがて精気を失うことが原因であるように病気がちになった玲奈にも、杏那の考えが改まることはなかった。
入退院を繰り返す玲奈に対しても、特別な感情が込み上げることはない。
むしろその弱々しさを責め、冷ややかに遠くから眺めている自分に気がついた。
それが不治の病であることは聞かされて知っていた。
それでも心は動かない。
たまには見舞いに行けと親に言われても、杏那は淡々と受け答えするだけだった。
「私が行ってどうなる」
と。
玲奈がかわいそうだと母親に泣きつかれるにいたり、ようやく重いその腰を上げる。
何も言わずに病室のドアを開けると、そこにはまるで精気のない様子で一点を見つめる玲奈の姿があった。
振り返る玲奈が一瞬喜んだような顔を見せたものの、それはすぐに悲しげな表情へと変わった。
玲奈にもわかっていたからだった。
もうどうにもならないことが。
笑うことすら無意味であることが。
自分だけでなく、目の前の憧れの対象ですら、何もできない弱い存在であるということも。
何より杏那自身が敏感にそれを感じ取ったことを、玲奈は知ってしまったのだった。
そして玲奈は息を引き取った。
誰からも救いの手を差しのべられることなく、小さく弱い存在のまま。
弱さは何の意味も持たない。
それを杏那の心に深く刻みつけながら。