第二十七話 『傷』 3. 強くなる理由
「そんなの言いがかりじゃないですか! 助けてもらっておいて」
自分のことのようにヒートアップする忍を表情もなく眺め、桔平が小さなため息をもらした。
「おまえ、言葉でなじられるより、いっそ殴られた方がいいって思ったことないか」
「……それは」
「あるだろ、男だったら一度や二度」
「一応女なんスが……」
「俺は考えるのが苦手だから、そんなこと思うのはしょっちゅうだ。三雲はそういった部分でそれ以上のものを汚されたのかもよ。木場の優しさをほどこしとしか受け止められないで、死ぬより耐えがたい痛みを心のどこかに受けたんだろう」
「でも、そんなの……」
「誰にだって命と同じくらい大切なものの一つや二つあるだろ。もし俺にとってのそれがおまえの大切なものと違ってたら、俺はそれをそんなものって言うだろうな。たとえそれが、おまえや夕季の命だとしても」
受け入れがたいものと知りながら容認せざるをえない諦めのわけを、桔平が改めて思い知る。
それでも忍の真っ直ぐな心は、それを認めたくない様子だった。
「でもそんなの、間違っていると思います」
「そんなことはわかっている」
「はい……」
「おまえら、ほんとに似てやがるな」
「は?」
なんでもないと言わんばかりに、桔平が、ははは、と笑い飛ばした。
流れる雲に目をやり、ふいに真顔になる。
「一番わかりやすくて簡単なのが、抱きしめる愛情だ。そして一番難しくてわかりにくいのが、突き放す愛情。どっちがいいのかはわからんが、共通して言えるのは、使いどころを間違えるとどっちも伝わらなくなるってことだ。おまえならわかるよな」
「……はい」
思い出したくない何かを頭の中に描くかのごとく、目を細め外を見やる桔平の横顔を、忍は静かに眺め続けていた。
「桔平さんは何故強くなろうと思ったんですか」
忍に問われ、桔平がゆらりと振り返る。
その顔に表情はなかった。
「忘れちまった」
忍が受け止める。そして、桔平の答えがどうであれ、あらかじめ用意してあった変わらぬ想いをそこへつなげていった。
「私は大切な人を守るためです。それ以外の理由は、私には理解できません」
「大切なモノだって同じことだろ」
「……ええ、まあ」
「それが自分自身だってこともある。誰にも負けたくないという強い信念とプライドだ」
何気ない桔平の言葉に忍の心が削られる。が、自論を展開する桔平に対しても、その真っ直ぐな心情が折れることはなかった。
「だったらその人は誰とも接触せず、自分一人だけの世界に閉じこもっているべきです。他の誰かを攻撃したり、犠牲にしたりしなければ保てないようなアイデンティティなんて、私は認めません」
迷いのない忍の直視を受け止め、桔平が憤りのようなため息をもらす。その表情のまま、静かに口を開いた。
「こんな話、知ってるか」
「はい?」
「薬物投与が問題視され出した頃のことだが、それについてのアンケートの中でこんなようなのがあった。もしあなたに残されたほとんどの人生と引きかえに、勝利が必ず約束されるのだとしたらどうしますかって。おまえならどう答える」
「勝利の意味がよくわかりませんが、私なら断固拒否します。そんな質問、バカげていると思います」
忍の即答に表情を変えることなく、桔平が頷いてみせる。
「俺も同感だ。確かにバカげてると思う。当然それを質問されたほとんどの人間達は、俺やおまえと同じように答えたらしい。だが同じ質問をされたスポーツ選手の半数以上が、それに反してイエスと答えたそうだ」
「……」
「理解できないことじゃない。キレイごとなんて抜きで勝つことだけに心血を注いできた彼らにとって、何も結果の得られない人生は無意味だからだ。すべての努力や自分の歩んできた生き様が、価値のないものだと自ら認めなければならない。さんざん努力して苦しんで、最後の最後に自分のすべてを否定しなければならないってのは実際キツいだろうな。だから、たとえそれで残りの寿命がわずか数年になったとしても、彼らは勝利と名誉を選ぶんだろう。同じ立場になった時、俺がそれと同じ選択をするのかどうかはわからないが、俺にはそう答えた彼らの気持ちもわかる気がする」
「……私にもわかるような気はします」
「三雲にとっての勝利がそれならばどうだろうな」
「……。でも、それとこれとは……」
「引っかかってんのか」
その一言に、ようやく忍が顎を引いて踏みとどまる。
「……はい」それから愁いのまなざしを差し向けた。「本当に人は、それだけの理由で強くなれるのでしょうか」
「なれるよ」即答する桔平の表情もまた哀しみをたたえたものだった。「なれるけどその強さは誰からも求められない、何も作り出せない見せかけの強さだ。いくらどれだけ強くても、利用されて捨て去られるだけの悲しい力だ。俺が言えた義理でもないがな」
忍が口をつぐむ。それが諦めであることを知っていたからだった。
ふん、と鼻から息をもらし、桔平が再び空を見上げた。
「もしおまえが言うその大切な誰かが救いようのない悪党だったとしたら、おまえの強さはどっちだ」
「どっち……」
「……」
「……想いと選択は必ずしも一致しないかもしれません」
「だったら他人の考えなんて、わかりっこないよな」
「……そうですね」
「さっきの話だが、もう一つだけ確実にわかっていることがある」
そろりと忍が顔を向けた時、桔平は苦しげな表情で目を細めていた。
「もし自分達の命と引きかえにこの世界を守れるのだとしたら、夕季や光輔は間違いなくそうするだろうな。礼也もおまえも」
「……」
「悩むだろうが、おまえ達なら必ずそれを選ぶ。もちろん木場もだ。鳳さんも、きっと南沢や駒田達だってそうする。俺にはわかる」
「……桔平さんもですよね」
「そうかもしれない。だが俺がおまえ達と決定的に違うのは、そうしない可能性もあるということだ」
「私は桔平さんも必ずそうすると思います。今はそう言っていても、その時になったら必ず」
「違う」
「何故ですか」
「明確な理由がある。それが俺の中で最優先である限り、次の選択は条件次第だ」
「……。それが桔平さんにとっての譲れないものということですか」
「そうだ。たぶん、おまえには理解できない。三雲の考えと同じで」
「そ……」
「俺からしたら、三雲のこだわりも自分のそれも同じだと思っている。もちろん、おまえ達の考えも。そういうところを敏感に感じ取って、三雲はおまえ達と自分が似ていると感じたのかもしれないな」
黙り込んでしまった忍を振り返ることなくその心情をうかがい知り、桔平が眩しげに目を細めたまま天を仰いだ。
「本当のことをどれだけつきつめても、むしろ真実から遠ざかることなんてざらだ。だが嘘を重ねれば、それが真実になることもある。やっかいな生きモンだな、人間ってのは」
桔平にならって、忍も空を見上げる。
空高く吐き出された飛行機雲が、淡く広がりかけていた。
薄暗い通路の中央を三雲杏那は歩き続けた。
歩幅にわずかな乱れもなく、鋭い眼光を放ち、まばたきすらせず、ただ一直線に。
己を信じ、揺るぎない信念のもと、その過去はすべて肯定される。
ただ一つ、木場から受けたほどこしを除いて。
脳裏によぎる暗い影。
微笑みかける小さな影。
それすらも三雲の心根を揺らすにはいたらなかった。
そこにいたのは、小さく、弱く、何もできずに他者に救いのまなざしを差し向けるだけの、ひたすら脆弱な存在だった。
呼吸器を装着し、虚ろなまなざしを向け、疲弊しきった少女が苦しみから逃れようと助けを求める。
それを三雲はものも言わずに見下ろしていた。
その背中が動くことはない。
『弱いからだ』
心の中で三雲が呟く。
『弱いから、何もできない自分を受け入れるしかない』
救いを求め、少女が三雲に手をのばす。
が、それに触れようともせず、三雲は少女をただ見続けていた。
『諦めるしかない』
何も返らないことを知り、少女が手を下ろす。それから諦めたように小さく笑い、家族の見守る中、静かに息を引き取っていった。
『弱かったからだ』
三雲はそれだけを繰り返していた。
『弱かったから……』