第十七話 『花・前編』 10. 花
昼下がり、ドラグノフは重い足取りで居宅のドアノブへと手をかけた。
その日アレクシアは、検査入院していた市内の関連病院から退院することになっており、何もなければすでに帰宅している予定だった。
明後日、マカロフらロシア支部の人間はメガルの専用機で祖国へ帰る手はずとなっていた。ドラグノフの頼みで、アレクシアとマーシャだけは体調が整うまでの滞在を許可してもらったものの、退院した以上は長く引き伸ばせそうもない。
その旨をこれからマーシャの前でアレクシアへ告げなければならなかった。
ドラグノフが遠い記憶をたぐり寄せるように想い返す。
それは、プリムラの花を抱きしめながらアレクシアの後ろへ隠れるマーシャの姿だった……
*
「……マーシャ、今日からこの人があなたのパパになってくれるの」
マーシャが身がまえ、ぐっ、と顎を引く。
「ご挨拶は?」
「……パパじゃない」
「マーシャ……」
「パパじゃない!」目に涙をため、マーシャがドラグノフを激しく睨みつけた。「こんな人、パパじゃない……」
「それでいい」
表情もなくそう告げ、ドラグノフが二人へ背中を向ける。
「早く身支度をすませてくれ。準備ができ次第この家を出る」
ドラグノフの背中越しにマーシャの泣き声が聞こえてきた。それを慰めるアレクシアの声も。
『それでいい』誰にも届かない想いを心の内でつらねていく。『いつまでもニコライのことを忘れないでいてくれ……』
*
ドアを開いた瞬間、それまで聞こえていた話し声が途切れる。
木製の椅子に腰掛けプリムラの花を眺めるアレクシアの背中に隠れ、マーシャが身がまえた。
ちら、と一瞥し、ドラグノフが二人に背を向けてキッチンへと向かう。それから抑揚のない声を押し出した。
「アレクシア、調子はどうだ?」
「いいみたい」
「そうか……」グラスの水を一息に飲み干し、深く息を吸い込んだ。「本国から要請があって、急遽帰らなければならなくなった。君の体調次第だが、いつ出立してもいいよう準備だけはしておいてくれ」
「ええ……」力なく微笑み、優しげなまなざしを後ろのマーシャへ向けた。「イヴァン」
「なんだ」
「マーシャが渡したい物があるって」
「……」
表情も変えずにドラグノフが振り返る。
アレクシアは穏やかな笑みをたたえ、それを迎え入れた。
「さあ、マーシャ」
アレクシアに後押しされ、顎を引いたマーシャが少しずつドラグノフへ近づいて行く。目の前で立ち止まると、後ろへ回した手をドラグノフの前へ差し出した。
プリムラ・ジュリアンの花束だった。
それは色とりどりの、そして綺麗なものや傷のあるものも混在した、不恰好だが心のこもった花達だった。
手渡された小さな花束を呆然と見続けるだけのドラグノフ。
するとマーシャはもじもじと手を組み、困ったようにドラグノフの顔を見上げてきた。
「……今日の夜、ママの退院のお祝いを三人でしたいの。だから早く帰ってきて……」眉をひくつかせ、口もとを震わせる。
しかしドラグノフにはわかっていた。それが彼女の精一杯の笑顔であることが。
やがてゆるやかに花びらが開くように、マーシャがぎこちなく、かすかに笑ってみせた。
鮮やかな花のごとく、優しく、柔らかく、彩り輝きながら。
「……」
ドラグノフの視界が滲んだ涙で白け出す。わなわなと両手を震わせマーシャの顔に触れようとしたが、寸前で思いとどまり、両拳を握りしめた。
ぐすん、と鼻を鳴らし、ドラグノフが静かに二人へ背中を向けた。
「すまない。今いろいろと片づけなければならない仕事が多くて、約束できない……」
その態度に、アレクシアはただならぬ何かを感じ取ったようだった。
マーシャが残念そうに顔を伏せる。
「何時なら帰れるの?」
「マーシャ」マーシャの手を取り、アレクシアが穏やかに諭す。「イヴァン、今日はお仕事で早く帰れないかもしれないの」
「遅くてもいい。待ってる」
「駄目。あなたは早く寝なさい」
「でも、待っててあげなくちゃ」
アレクシアがマーシャを抱きしめる。それから嗚咽が言葉を奪っていった。
ドラグノフは二人から顔をそむけたまま、ただそこへ立ちつくしていた。
「ママ、どうして泣いてるの? どうして……」
格納庫に収められた搭乗式二足歩行兵器の一体が起動する。
三体の中でももっとも重武装を施したその個体が、両眼を発光させ歩き出した。
予想だにしなかった事態に、パニック状態のクルー達が我先と外へ飛び出していく。
インフィニティのコクピット内で、ドラグノフが覚悟を決めたまなざしに光を宿した。
それは揺るぎのない信念となって、彼の脳裏から定められた結末だけをフラッシュバックし続けていた。
『私が死ねば、アレクシアやマーシャ達は助かるのだな……』
続く