第二十六話 『挟撃』 1. 夕季撃沈
放課後、夕季と光輔は、楓の兄弟らとともにジョトの散歩がてら、付近の公園へと繰り出していた。
光輔が一緒なのはテスト期間中で部活動が休みのせいもあったが、夕季について来てほしいと頼まれたからであった。
報酬は晩御飯である。
光輔が楓の兄弟達とプロレスごっこに興じる。
「まいったか!」
「うわ~、やめろ~!」
わんぱく坊主の楓の弟、洋一にネックロックをかけながら光輔が横に顔を向けると、夕季が嬉しそうにジョトと戯れているのが見えた。
遠目にもわかるほど、いつにない満面の笑顔だった。
「あんな、鼻息ふんふんしちゃって」
「とう!」
「あて!」
突然の衝撃に、涙目の光輔が後方へ振り返る。
そこには必殺のかまえのわんぱく少女、楓の妹、ほのかがいた。
「金蹴り禁止って言ったでしょーが!」
「とう!」
「いや、とうじゃなくて、どうしてそこばっかり狙うの!」
「いつかわかる日がくる!」
「……何言ってんの」
さんざん走り回り、満足した様子で夕季がジョトを引き連れて、光輔達のもとへと戻っていく。
息を切らしてしゃがんだところに、ジョトが飛びついてきた。
「こら、ジョト」
夕季の顔の汗をペロペロとなめる、桐嶋ジョトラッシー、オス一歳。
それを顔をゆがめながら引き、夕季が嬉しそうに受け止めた。
「!」
ふいに訪れた衝撃に、夕季が眉を寄せる。
振り向くと、ほのかが背中に抱きついているのが見えた。
「……ほのかちゃん」
ほのかはまるで母親にあまえるように、ずっと夕季の後頭部に顔をうずめたままだった。
みずきと同じ髪型の少女を眺め、夕季がふっと表情を和らげる。
くんくんと鼻をうごめかせるほのかの様子に、不思議そうな顔の洋一が近づいてきた。
「何、くんかくんかしてんだよ」
「……駄目だよ。汗かいてるから」
控えめに夕季が告げる。
が、ほのかは顔を離すこともなく、ずっと夕季の頭の匂いをかいでいた。
「ほのかちゃん……」
「……」くんかくんかすう~。「いい匂いがする」
「いい匂いなのか?」
「うん」
そのままの態勢でほのかが頷く。
夕季の心臓がドキッと音を立てた。
そんなことなどおかまいなしの洋一が、夕季の後頭部に顔をうずめ続けるほのかに手をかける。
「おい、どんな匂いなんだよ?」
「クワガタ!」即答。
「……」
「クワガタとりたい!」
「おう、また今度な」
「……」
缶ジュースを抱えて戻って来た光輔が、夕季の様子がおかしいことに気がついた。
「なんでヘコんでんの?」
「……別に」
「?」
帰りの道すがら、妙に距離を置きたがる夕季を不思議に思い、光輔が近づいていく。
すると、くわ、と目を見開いて、夕季がそれを拒絶した。
「来ないで!」
「……なんで」
あまりの拒否っぷりに、半べそ状態になった光輔が情けない声を出した。
それをやや申し訳なさげに眺め、気まずそうに夕季が顔をそむけた。
「……。ク……、汗臭いから」とてもじゃないが自分がクワガタ臭いからなどとは言えない。とりあえずは年頃の乙女なのだから。
しかし光輔はそんな意図など汲み取ることなく、情けない表情を向けた。
「マジ?」くんくんと自分の肩の匂いをかぐ。「そうなの?」
「……光輔じゃなくて」
「……」何気なく夕季に近寄り、くんかくんかと鼻をうごめかせた。
「やめて!」
身がまえるように咄嗟に退く夕季。
その決死の形相を不思議そうに眺め、光輔が首を捻った。
「別に匂わないよ。どっちかってえと……」
眉に力を込め、夕季がじっと光輔を睨みつけた。
「……なんでもないかな」
気まずそうな距離を保ち、二人が夕暮れ時の電車に揺られていく。
時々目が合うと、光輔が取り繕うように、ははは、と笑った。
「……」
部屋に戻り、どことなく元気のない様子の夕季を気に止め、忍がその経緯を聞き出した。
「汗かいてたんでしょ。そんなに気にしなさんなって」
こともなげに笑ってみせた忍に、夕季が口を尖らせて訴えかける。
「だって……」悲しそうにじっと忍を見上げた。「……クワガタの匂いって何?」
「……。あー。なんか、あのね……」かける言葉が見つからないようだった。「そーいうのあるのよ。タイミング的に。いいじゃない、いい匂いなんだから」
「お姉ちゃんも同じシャンプー使ってるんだよ」
「……。それは問題だよね……」
ふん、とため息をつき、夕季がやや赤みがかった伸びかけの後ろ髪に指で触れた。
「髪、切ろうかな」
「また切っちゃうの」
「短い方が動きやすいし」
「そう」
「うん」
忍が台所に戻った後で、鏡を前に夕季が後ろ髪をつかみ、今より短い髪型を想像してみる。
そこへエルバラを手にした光輔が現れた。
「しぃちゃん、ご飯まだ? 腹へっちゃって……」
動きを止め、煎餅をくわえたまま、夕季のうなじに注目する。
思いもよらぬその優美なラインに、光輔の目は釘づけとなった。
「ごめんね、光ちゃん。すぐだから……」
マーボ豆腐の盛られた大皿を手にした忍が、光輔の顔を見て絶句した。
「……どうしたの、光ちゃん」
「え?」
忍に問われ、光輔が妙な違和感に気がつく。
「あ、ヤベ……」
振り返る夕季。
その視界に、忍から手渡されたティッシュで鼻血を拭いている光輔の姿が入ってきた。
「……どうしたの」
すると突然忍の表情が一変する。
「夕季、あんたでしょ」
「?」
「どうして光ちゃん、ひっぱたいたの」
「叩いてない!」
「じゃ、なんで鼻血出てるの」
「知らない。勝手に出たんじゃないの。思春期だし!」
「そんなはずないでしょ。やっぱりあんた……」
二人のやりとりを、おろおろと見守るだけの光輔。無論、本当のことなど言えようはずもなかった。
「やってないってば!」懸命に濡れ衣を否定しながら、夕季が光輔へと振り返る。「光輔、何とか言って。何が原因なの。思春期なの!」
二人の目線が光輔に注目していた。
「あ…。……原因は夕季、かな」
「!」
「ほら、やっぱり。駄目じゃない」
「あたしじゃない!」
「ははは……」
「はははじゃない!」
「夕季!」
「だって!」
「……。しぃちゃん、ご飯……」
夕季はみずきと向かい合わせで昼食をとっていた。
楽しそうに話題を振り撒くみずきに対し、焦点の定まらないまなざしを泳がせながら、機械的に夕季が相づちをうつ。
「でね……」夕季のリアクションがいつにも増して乏しいことに疑問を持ったみずきが、不思議そうに首をかしげる。「どうかしたの? 何か心配なことでもあるの」
「……ん」みずきにまじまじと覗き込まれ、ようやく夕季が我に返る。「……別に、何も」
「そう?」
「……うん」
「でさ、ひどいんだよ。弟があたしの髪型見て、クワガタみたいだって……」
「クワガタッ!」
「?」
メガル本館大会議室では、多くの見慣れない制服が整列していた。
これから局長である進藤あさみから、彼らへ正式な辞令が交付されるところだった。
冷ややかな笑みをたたえたあさみが、一人一人の顔を見やりながら辞令を手渡していく。
底のうかがえぬ妖しげな瞳の光にほとんどの新参者が引かぬ心を押し戻される中、一歩足りと気後れすることなく、あさみの直視を受け止める輩がいた。
それも一人だけではなく。
「桐生藤鋼特佐」
名を呼ばれ、木場と遜色ない体格の偉丈夫が、鋭いまなざしをあさみへと差し向ける。眉間に刻まれた深い皺は、年齢以上の経験と数知れぬ死地を潜り抜けてきたことを如実に物語っていた。
それと同じ体格、同じ顔の隊員が後ろに二人。
裏自衛隊特殊部隊のエリート、桐生三兄弟だった。
「奴らの階級は確か……」
広大な室内の最後方で、まばたき一つすることなくやりとりの一部始終を傍観していた木場が呟く。
その横で腕組みをしながら内壁にもたれかかり、斜にかまえた視線で同じ方向を見守る桔平の姿があった。
「二尉だ。だが、このプロジェクトに参加している間だけ、特佐という極めて特異なポジションが用意されている。もしプロジェクトからはずれれば、また二尉に戻るがな」
木場がじろりと桔平を見やる。
桔平はそれに合わせるふうでもなく、同じ表情のまま先につなげた。
「特佐でいる期間に限って、奴らには幕僚長をも上回る権限が与えられることになっている。有事限定ではあるが、奴らの命令でこの国の軍事力がすべて方向を変えることになるだろう」
「……。このプロジェクトとは、それほどまでのものなのか」
ようやく桔平が顔を向ける。
そして畏怖するように眺める木場に対し、ギラつくまなざしを叩きつけた。
「結果次第で俺達はすべてお払い箱になるかもな」
「そうか……」再び目線を桐生三兄弟へと戻し、木場が少しだけ強ばる表情を解いた。「それがよりよい選択ならば、従うしかない」
「まあな」じっと木場の横顔を見つめた後で、桔平も前を向く。「俺達はともかく、光輔や夕季達はその方がいいのかもしれん」
「そうだな……」
そこで二人の会話が途切れる。
その視線の集中する場所では、あさみが桐生に最終的な通告を述べようとしていた。
「……に関わる範疇においては、包括的な権限をあなた方に委ねることとします」