玉ねぎをすぱん
先輩はぱたりと本をとじてしまうやいなや、私は座りながらにして超大陸を右から左へ玉ねぎでも切るようにすぱんと横断してしまったのよという恍惚の表情をした。そうなのだ。先輩はいまなにもかも知ってしまった人とおなじだった。ほんのすこし寂しく、小さじ一杯の砂糖をどうしても欲するというような。
「後輩くん、私はここにいるかしら」と先輩は僕に問いかけた。「なんだかずっと深くに潜りすぎて、戻ってきているのかよくわからない。いまは何時何分?」
「きっと三時四十五分よりはあとにちがいない」と僕が答える。「そして先輩はちゃんと四十五分以上前からここにいて、一ミリだってこの宇宙からずれてしまうことなく、一グラムだって無駄にうしなってしまわなかった。ただ先輩は一冊の本を読み終えた。それだけです」
「そう。私は読み終えたのね」先輩はずっと遠くにカモシカの親子がいるのを見つけたようなやさしい目をして言った。その親子は湖面を揺らし、ゆっくり水を飲んでいるはずだ。「なんだかずっとシチューをかき混ぜていなければならないような義務を感じていたのに、それはもうない。ここに自由な私がいて、目の前にやさしさのためなら嘘をつけるいつもの後輩くんがいる。私は戻ってきた。そして日が暮れようとしてる」
「はい。暮れていきます」僕は確かにそう言った。「間違いなく、今日は終わろうとしている」
ついさっきまで、どこかで運動部が走る掛け声がしていたのだけれど、それはコウノトリの国に運ばれていったように上品に消えてしまった。屋外で練習していた吹奏楽部のトランペットも、同じ国か、それより南方に百二十キロあたりに消えてしまった。いまここにあるのは僕らをゆっくり包み込むような夕闇の重みであり、それがありすぎるために卵一つくらいなら割ってしまいそうな静けさだけだった。
「後輩くんはなにを読んでいたの?」
「なにということも。これより少なくとも八十ページはみじかくあるべきだった長編小説を、楽しくもなくつまらなくもない経験済みの感情で読んでました」
「そういう時間は大事だね。興奮ばかりだと、私たちはあっという間に、鳥か、少なくとも羽のあるなにかに進化してしまうだろうから」
それから僕たちは部室をあとにして、昇降口からするりと抜け出し、とても素晴らしい木曜日の暖かな夕空の下、あいだにオルゴールを挟んだ二つの機械式人形みたいに、ささやかな鼻歌を歌いつつ歩いた。すこしとぎとぎれに。世界にはもはやだれもいないみたいであり、法律で八十デシベル以上の音が禁止されてから三日目というようなありさまだった。もちろん、トランペットは重罪だ。
「明日も私たちはこうやって本を読み、それからすこしやさしい気持ちになって帰るのかしら」と先輩が独り言みたいに、あるいは空気にだけたずねるように言った。
このときに限って僕はとても空気だった。「たぶんそうなんじゃないでしょうか。僕たちのどちらかが余命十二時間であるとか、明日には地球が二つに割れて、僕たちがそれぞれの半球に住む敵同士にならない限りは」
「そうね。きっとそのどちらでもない明日が、興味のなかった映画みたいに知らないうちに封切りされるのでしょう」
僕たちは夕日を見下ろす坂道をゆっくり下っていった。先輩の家は西にあり、僕の家は南南西にある。会いにいこうと思えばいつでも行けるくらいの空白を挟んで、僕たちは寝起きする。片方がお茶碗を割ってしまうと、もう片方でもなぜか割れうる何かかが必ず割れるふうな。
僕たちが通り過ぎようとした木の下で八歳くらいの女の子が佇んでいた。高い枝の上には帽子が引っかかっている。いじめられたのかもしれない。風か、運か、もしくはこの子のことを実は深く愛している男の子や女の子によって。
その子はなんだか萎黄病に罹った余命八十年の女の子みたいに見えた。




