第2章:潮風と、目覚める魂
エリザベス・フォン・アルトマイヤーは死んだ。私はリズと名乗り、過去を捨てて生きることを決めた。
追放された私に与えられたのは、港町ポルト・マーレの労働者たちが寝泊まりする、安宿の薄暗い一室だった。天蓋付きのベッドも、ふかふかの絨毯もない。ギシギシと音を立てる硬い寝台と、潮風が吹き込む窓があるだけ。これまで過ごしてきた王宮の華やかな生活とのあまりの落差に、最初の数日は茫然自失とするしかなかった。
しかし、私の心を支えてくれたのは、蘇った前世の記憶だった。しがないOLだった頃の記憶は、貴族のプライドよりもずっとたくましく、現実的だったのだ。泣いていても腹は減る。生きるためには、動かなければならない。
夜が明けるのを待って、私は外へ出た。朝早くから活気に満ちた市場へ足を運ぶと、そこは私の魂を揺さぶる光景で満ち溢れていた。
「へい、らっしゃい! 今朝獲れたてのピチピチだよ!」
威勢のいい声が飛び交う中、見たこともないような新鮮で多種多様な魚介類が、無造作に木の台に並べられている。王都の食卓に上る魚とは比べ物にならないほど、その瞳は澄み、鱗は虹色に輝いていた。
だが、その売り方はあまりにも雑だった。締め方も保存方法もなっていない。そして、人々はそれをただ豪快に焼くか、塩辛いスープでごった煮にするだけ。
(もったいない……なんてもったいないの!)
私の前世の魂が、心の底から叫んでいた。日本という国がいかに魚の扱いと調理法に長けていたか、今更ながらに痛感する。
そんな中、私の目はある魚に釘付けになった。流線形の体に、キラキラと輝く銀色の肌。これは、前世の私が大好きだったアジによく似ている。新鮮なアジのたたき、アジフライ、そして、握り寿司…。想像しただけで、ごくりと生唾を飲んだ。
「あの、宿の御主人。このお魚、生でいただくことはできないのかしら?」
宿に戻り、なけなしの金で手に入れたアジ似の魚を見せながら尋ねると、恰幅のいい主人は心底気味の悪いものでも見るような目で私を見た。
「お嬢さん、あんた気は確かかい!? 魚を生で食うなんて、腹を壊すに決まってるだろうが。そんなのは海の向こうの野蛮人がやることだ。絶対にやめときな」
主人の言葉で、私はこの世界の常識を思い知らされた。魚の生食は、危険で野蛮な行為――それが、ここでの当たり前なのだ。寄生虫の危険性や、鮮度を保つための正しい知識が、この世界には全くと言っていいほど存在しないらしかった。
だが、それで諦める私ではない。前世の記憶が、大丈夫だと囁いている。
私は再び市場へ向かい、有り金のほとんどをはたいて、もう一匹の魚と、この世界で殺菌効果があるとされる数種類のハーブ、そして強い酸味を持つレモンのような果実を買い込んだ。
宿の共同炊事場の隅を借り、私は最初の実験に取り掛かった。前世の知識を総動員する。まず、魚の鱗を丁寧に取り、頭を落として内臓を素早く引き抜く。冷たい井戸水で腹の中を綺麗に洗い、三枚におろしていく。久しぶりの感覚だったが、体は驚くほどスムーズに動いた。
そして、最も重要な工程。切り身を光にかざし、アニサキスのような寄生虫がいないかを念入りに確認する。幸い、この魚には見当たらない。私は安堵のため息をつき、皮を引いて美しいピンク色の身を薄切りにした。その上に刻んだハーブを散らし、搾った果実の汁をかける。いわば、即席のカルパッチョだ。
恐る恐る、一切れを口に運ぶ。
その瞬間――衝撃が走った。
新鮮な魚が持つ、ぷりぷりとした弾力のある歯ごたえ。噛みしめると、舌の上で上質な脂の甘みがとろけるように広がる。臭みなど一切ない。後から追いかけてくる果実の爽やかな酸味とハーブの香りが、魚の旨味をさらに引き立てていた。
「……美味しい……!」
涙が、ぽろりと頬を伝った。それは絶望の涙ではない。何年も、何十年も忘れていた、心の底からの感動の涙だった。失ったものの大きさに打ちひしがれていた私の心に、確かな光が灯った瞬間だった。この味を知ってしまったら、もう後戻りはできない。
この宝の山のような海で、この美味しさを、私だけのものにしておくなんて、それこそ神への冒涜だ。




