7.一冊の本
ある日の午後、僕はカウンターに座りながら、午前中に回収した各地の図書室に返却されていた本の整理をしていた。
「あの……、すいません」
図書館でたまに見かける白髪の老人の男性が、僕に声をかけてきた。
「はい、どうしました?」
「以前、この図書館にお勤めになっていた家田さんが亡くなられたと伺ったんですが、本当ですか?」
「はい、先日お亡くなりになられました」
僕がそう答えると、老人は「そうですか」と残念そうに言った。
僕が黙ってその老人を見ていると、彼はゆっくりとした口調で話し始めた。
「実は以前、お世話になった事がありましてね」
「ああ、そうでしたか」
「毎年この時期になると、無理を言って本を借りてたんです。毎回同じ本を」
僕はそれを聞いた瞬間、以前除籍の話をしていた時に、家田さんがそんな話をしていた事を思い出した。
「家田さんが、この図書館を辞める時に聞いた事があります。あ……っ、少しお待ちください」
僕は、内線を鳴らして吉岡さんとカウンター業務を代わってもらった。
「地下1階に話しができる部屋がありますので、そちらで伺ってもいいですか?」
「ああ、それはどうも」
老人は微笑みながら、頭を下げた。
そして、僕は地下1階のミーティング室に老人を案内して、温かいお茶を湯呑に注いでテーブルに出した。
「ありがとうございます。私は権藤と申します」
「私は長谷川です。この図書館に来た時に、1から10まで全て家田さんに教わりました」
「そうでしたか。それは良い方にお声掛けしたみたいですね」
権藤さんは、微笑みながらそう言うとお茶を一口飲んだ。
そして、彼は湯呑を両手で抱えるように持って、それを見ながらゆっくりと話し始めた。
「昨年、うちの家内が亡くなりましてね。それまで長い間、認知症で……それは大変でした」
僕は黙って頷いた。
「うちの家内は、中学校の先生をやってまして理科の先生でした。頭を使い過ぎたんでしょうなぁ、学校を定年で辞めたとたんに発症しました」
「そうでしたか」
「すいません、余談が過ぎました」
「いえ」
僕は、小さく頭を左右に振った。
「それでね。生前の認知症の頃、家内は全然記憶に無いはずなのに、いつもこの時期になると同じ本を読みたがりましてね。読むって言うか見るだけなんですけど、それを見ると安心した様子になるんです。それが……理科の本でした。何か余程深い思い入れがあったんでしょうな」
「ああ、それで、毎年同じ時期に」
僕は、納得したように頷いた。そしてその瞬間、家田さんに言われていた事を思い出した。
湯呑を見ながら話をしていた権藤さんは頭を上げると、僕を見て言った。
「そう、そうなんです。買おうと思って本屋を探し回ったんですが、絶版になってたみたいでね。家田さんには毎年無理を言いました」
権藤さんは、当時を思い出すように話した。
——理科系の本というのは新しい発見があると、古い本は情報的に使えなくなり除籍対象になりやすい。権藤さんが借りに来ていた本も、除籍の対象として随分と前からリストに載っていたようだ。家田さんは、毎年借りに来る権藤さんの為に、この本を閉架に残していた。
そして、僕は家田さんがこの図書館を辞める時に、この1冊の本を引き継いでいた。
「それで、今年の家内の命日に仏壇に添えてやろうと思いまして。もし、あればお借りしたいと今日伺った次第です」
「分かりました。ちょっとお待ちください」
僕は閉架書庫に入り、奥にあった家田さんから引き継いだ1冊の本を取りだして部屋に戻った。
「この本、実は何年か前にもう除籍処分がされてました。それで、もし権藤さんが借りに来られたら差し上げてくれって家田さんに言われてました。どうぞ、受け取ってください」
僕はそう言って本を机の上に置いた。
「え……っ、あの人はそこまで」
権藤さんは、本を手に取ると目から涙が流れ始めた。
「僕もこの本を読ませてもらいました。理科の難しい用語をどう説明すれば分かり易いのかという事が丁寧に書かれた本でした。おそらく奥様は少しでも多くの子供たちに理科を分かってもらおうと、常々考えていらっしゃったんでしょうね」
「そうですか……。家内は、本当に真面目で責任感の強い女性でした。彼女らしいですね。長谷川さん、この度は本当にありがとうございました」
権藤さんはそう言うと、両手で僕の手を握った。
「一度、家田さんのお墓にもお礼に行ってきます」
「ええ、そうしてあげてください」
僕は、そう言って権藤さんに微笑んだ。
こうして、僕が家田さんから引き継いだ、1冊の本を紡ぐ物語は終わりを迎えたのである。




