暑い夏と太陽の影
暑い夏が来た。来てしまった。
人を殺すかのような勢いで降り注ぐ日差し。こんな日はとても外へ出られない。
だが、方法はある。光あるところに影はある。日陰を通っていくのだ。
まずは玄関を出て外へ行こう。
「あっつ。人を殺す気か!」
俺は悪態をつきながらすぐさま近くの日陰へ突入。しばしの涼を取ってから家の壁に沿って、影の中を慎重に辿っていく。少しでも日差しのぬくもりに触れたらゲームオーバーになる気持ちで。
「よし、順調だな。だが、ここからは難度が上がるぞ」
やがて建物の密集した住宅街を抜けると、建物の数が少しまばらとなる。日陰が減って日差しを浴びてしまうことになるがやむを得ない。体力が削り切られてしまう前に次の日陰に飛び込んで回復を図ればいいのだ。
「行動は速やかにだ。行くぞ!」
俺は影から影へ飛び移るように移動する。まるで忍者のミッションのようだ。武器を構えて掛かってくる敵こそいないが、命がけであることに変わりはない。
やがて隠れ潜む建物の影も無くなって左右を田畑に挟まれた開けた場所に出る。一見、詰んだかのように思えるが方法はある。道路の脇に等間隔に並んだ電柱。あの影を伝っていくのだ。
太陽はやや角度を付けた斜め上から容赦なく照りつけてくる。コンクリートの道はもはや鉄板のようで、揺らめく視界が熱の凄さを訴えてくるかのようだった。だが諦めるわけにはいかない。俺は電柱の影に身を隠しながら次の影へと急いだ。
「次! 次!」
一つの影から次の影へ。まるでリレーのバトンを渡すように慎重に、しかし素早く移動する。
影から影へ移動する間に浴びたわずかな日差しだけでも晒された肌がじりじりと焼けてしまう。それでも進まなければならない。
「もう出かけてしまったからな。帰るわけにはいかないぜ!」
行程は順調かと思えた。だが、ここで問題が発生した。次の電柱の影に先客がいたのだ。あの男をどかさなければ俺が進めない。
電柱の影は二人が入れるほど広くはないのだから……
「邪魔なんだよ! あんたは!」
俺はやむを得ずその男の背後からタックルをかました。だが、男は踏ん張ってどく気配はない。狭い電柱の影で俺達はお互いにはみ出した部分が少しづつ日に焼かれていってしまう。
こちらを敵と認識した男の方も俺を睨んできた。
「まだ争いを呼ぼうというのか! 君は!」
「うるさいよ! 俺だって生きるのに必死なんだ!」
俺は「フン」と鼻を鳴らし、足を踏みしめると渾身の力で奴を影から追い出した。
「ぐわああああ!」
「どうだ! 思い知ったか!」
俺はやったかと思ったが、奴を次の影に移動させただけだった。奴は勝ち誇った顔をして、
「かかってこいよ。やるんだろう?」
そう言わんばかりの態度をして俺を挑発しているようだった。
「まったく、なんてしつこい奴なんだ」
俺はここで熱さに駆られて挑んでしまえばやられてしまうと認識する。これ以上の体力の消耗はやばい。奴を無視して次の次の電柱の影に飛び込むしかない。
「だが、やれるか? やるしかない。よーし、やるか!」
俺は覚悟を決めて目を閉じて深呼吸した。まずはクールダウンだ。気分を落ち着けてしなやかな猫のように次の影まで一気に飛び込む。そのイメージを頭に描く。影から影へ。飛ぶように移動する自分。できる。絶対できる。
「やれるわ!」
俺は思い切って地面を蹴った。体が宙に浮く。一瞬の浮遊感。そして眩しい日差し。焼かれる感覚とともに着地。すぐさま男の攻撃が来る前に次の影へと跳躍。
「くっ、冷却時間が足りないか! まだだ!」
俺は歯を食いしばり、何とか次の次の電柱の影に入れた。やった!
「どうだ! 為せば成るもんだ! 俺はやったぞ!」
俺は振り返るが、そこには男の姿なんて無かった。俺は愕然とする。
「まさか今のは夏の暑さが見せた蜃気楼だというのか!? それとも俺は知らず知らずのうちに仲間を求めていたというのか……!?」
俺はただ立ち尽くす。電柱の影にいるというのに全身から汗がまるで命という泉が吹きだすかのように滴り落ちていく。喉がカラカラだ。目が揺らぐ。
「くっそぉ……この暑さは人間の精神にまで干渉するのか……」
俺は膝に手をつきながら息を整える。さっきまでの戦いの高揚感はどこかへ消えてしまった。この暑い日に外へ出かけるなんてなんて馬鹿げていたんだろう。
「クーラーのある部屋にいればよかった。俺は出かけるべきではなかったのだ」
そんな当たり前の後悔を感じながらも俺は歩き続けなければならない。このまま立ち止まったら本当に倒れてしまう。俺は重い足を引きずりながら次の電柱の影へと移動する。
「ふん、これしきのことで負ける俺ではないぜ! まだまだいけるさ! コンビニまで行けば涼しいクーラーが付いてるし、アイスだって買える。ちょっと値は張るけどな」
俺は自分に言い聞かせるように言ってまた次の電柱の影へと踏み出す。
だがその時、突然目の前がゆらゆらと揺れ始める。足元がふらつく。
「なんだこれは……?」
目の前の景色がぐにゃりと曲がったように見える。まるで自分が熱されたアスファルトの上の飴のように溶けてしまいそうな錯覚。
「くそっ……これは本格的にやばいかもな……」
額から汗が滴り落ちる。息が苦しくなってきた。全身が痺れるような感覚。喉が渇きすぎて唾液さえも出ない。
「まさかこれが噂の熱中症というやつか……?」
俺は何とか木の影に避難するとそこで座り込んでしまう。もう立ち上がる力が出ない。頭がぼーっとする。
「こんなはずじゃなかったのに……」
視界がどんどん狭まっていく。日陰の中にいるはずなのに、まるで太陽に包まれているような熱気を感じる。
道路で揺らめく何かが自分を誘っているかのようだった。
「こんなところで死ぬわけには……」
白く染まった視界が今度は暗くなる。耳鳴りがする。全身の力が抜けていく。俺は意識を保とうとするが……
「うっ……」
体が地面に崩れ落ちた。日陰とはいえ、熱されたコンクリートの地面は俺の体温を容赦なく奪っていく。いや、今はそれが気持ち良い……俺の意識は次第に薄れていった。
「おい! そこで寝てる人! 大丈夫か!?」
遠くから誰かの声が聞こえる。俺は薄く目を開けるが、視界はぼやけている。
「救急車を呼べ! 熱中症だ!」
数人の人影が俺を取り囲んでいる。俺は何かを言おうとするが、口が動かない。
声が出ない。彼らが俺を涼しいどこかへと移動させてくれる。
「しっかりしろ! もうすぐ救急車が来るからな!」
誰かが俺の首筋に濡れたタオルを当ててくれた。冷たくて気持ちいい……俺は再び意識を失った。
次に目を覚ました時、俺は病院のベッドの上だった。窓からは夕方の少し柔らいだ日差しが差し込んでいる。
太陽もやっと少しは手加減する気になったのだろうか。
「気がつきましたか?」
声がして顔を向けると、優しそうな看護師が微笑んでいた。
「あなたは熱中症で倒れていたんですよ。発見が早かったので大事には至りませんでした」
俺は額に手を当ててため息をついた。
「まさか本当に熱中症に襲われるとは……」
「外に出る時は水分補給と適度な休憩を取るようにしてくださいね」
「はい……」
窓の外を見ると、夕暮れ時の空は少し涼しげな色合いを見せ始めてていた。
太陽はやがて沈み、また明日眩しい顔を見せるのだろう。
数日後、退院した俺は久しぶりに外へ出た。まだ日差しは強いものの、容赦ない熱気は幾分和らいでいた。
「今度こそ……」
俺は深呼吸して空を見上げた。
「次は熱中症対策をちゃんとして外へ出かけよう」
俺はゆっくりと歩き始めた。これからもまだ夏は続いていく。