補助職たちの戦場
朝靄の中、王都グランヴェルドの街路が静かに目を覚まし始めていた。
小鳥のさえずりが空を舞い、露に濡れた石畳が白く光る。
その中で、〈三日月亭〉の扉が開き、一人の青年が外に出た。
ルーク・フレイアス。冒険者としての新たな一歩を踏み出すため、今日は新たな依頼へと向かう日だった。
「行ってらっしゃい、ルークさん!」
メリアの元気な声が、扉の内側から響いた。
「ハンカチ、持ったかい? 朝は冷えるからって、風邪ひかないようにね!」
ツネおかみが手を振りながら、軽く肩を叩いてくる。
「はい、大丈夫です。……ありがとうございます、行ってきます」
ふわっと笑って、ルークは振り返り、深く頭を下げた。
彼にとってこの宿は、ただの寝床ではない。
心を休め、明日へ向かう力をもらえる場所。
そんな“拠点”を得たことが、どれほど大きな意味を持つか、今の彼にはよくわかっていた。
王都の中央通りに出ると、すでに市場は動き始めていた。
焼き菓子の香り。野菜を並べる店主の威勢のいい声。
そのすべてが、以前のルークには“自分とは無関係”な世界に思えていた。
けれど今は違う。
――この場所で、自分は生きている。
そんな感覚が、胸の奥に、確かに根を張っていた。
冒険者ギルドの前には、すでにレイナが立っていた。
白いケープを羽織り、控えめな色合いのローブ姿。
彼女は今日も、少し緊張した面持ちで、依頼書を胸に抱えていた。
「おはようございます、ルークさん!」
「おはよう、レイナさん。早いですね」
「え、えへへ……なんだか、緊張して早く来ちゃって……」
その笑顔はぎこちないが、どこか昨日より明るい。
緊張の中にも、自分を信じようとする意志がある。
それが、ルークには嬉しかった。
ギルドで確認を済ませ、ふたりは依頼先である西の林道へと向かう。
目的は〈牙獣ラット〉の討伐――Eランクにしてはやや手強い、凶暴化したネズミ型の魔物だ。
群れで行動し、動きも早く、油断すると囲まれてしまう。
「戦闘前に、少しだけ地形を確認しませんか?」
「うん、そうしよう。林道の分かれ目が多いし、逃げ道を確保した方がいいかも」
この提案ができるのも、補助職同士のペアならではだ。
誰かの指示に従うのではなく、互いに“情報と安全”を重視する姿勢がある。
ふたりは草をかき分け、岩陰の死角を探りながら、慎重に行動を進めていった。
やがて、苔むした倒木の向こう側――
その空気が、変わった。
「……音が、しない……?」
レイナが小さくつぶやく。
周囲の鳥の声が途絶え、草の揺れる音すら聞こえない。
「……来るかも」
ルークはすぐに《無限インベントリ》に手をかざす。
「収納展開」
光の円が足元に浮かび上がる。中から取り出されたのは、複数の小型投擲ナイフと、煙幕玉。
それらを腰にセットし、身を低く構えた――その瞬間だった。
「ギィッシャァァァッ!!」
金切り声とともに、茂みの中から五体の〈牙獣ラット〉が飛び出した。
鋭い牙、濡れた黒毛、赤く光る目。
その一体が、真っ直ぐレイナへと飛びかかる。
「レイナ、下がって!」
「っ――はい!」
咄嗟にレイナが身を引く。ルークが踏み出して、一体を地面に滑り込むように誘導――
「収納展開!」
地面の光が魔物を包み込む。牙を振り上げたまま、〈牙獣ラット〉がすうっと消失した。
「一体確保!」
だが次の二体が、左右から回り込んでくる。
ルークは短剣を抜き、一体の足元へナイフを滑らせる。
「くぅっ!」
足を裂かれた魔物が体勢を崩す――すかさず、レイナの声が響く。
「ヒール・アクセル!」
回復だけでなく、足にかかる補助魔法。ルークの動きが軽くなる。
「助かった!」
その加速で敵の死角に潜り込み、背から突き立てた短剣が深く沈む。
二体目、討伐完了。
「三体目、右から来ます!」
レイナが指差す。
「確認!」
ルークは手をかざし、あらかじめ仕込んでいた小型罠を収納から取り出す。
「展開、トリガーワイヤー!」
ラットが跳んだ瞬間、宙に浮かぶワイヤーに絡まり、バランスを崩す。
そこにレイナが魔力を込めた回復支援をルークに向けて発動――
その刹那。
「収納!」
四体目、確保。
「ラスト一体、正面!」
ルークが走り出す――が、その足元、岩に滑って体勢が崩れる。
「――っ!」
レイナの魔法が間に合わない。
牙獣ラットがルークの肩へ飛びかかる――
ガブッ!
「くっ!」
鋭い痛みが走る。だが、反射的に振り払って地面に叩きつけ――
「……収納!」
なんとか、五体目の魔物も確保した。
静寂が戻る。
ふたりの呼吸だけが、林道に残された。
「ルークさん……!」
レイナが駆け寄り、血のにじむ肩に手を伸ばす。
「ごめんなさい、私、遅れて……!」
「大丈夫……ちょっとやられただけ。気にしないで」
「だめです、回復させてください。……ヒール・リストレーション!」
淡い緑の光が、肩に宿る。じんわりと痛みが消えていく。
ふと、ルークはその光を見ながらつぶやいた。
「ありがとう、レイナさん。……すごく助かった」
「いえ……私こそ……」
ふたりは、しばし目を見合わせる。
どちらも傷ついたわけではない。けれど、その瞳には共通する想いがあった。
――自分の力が、誰かの役に立てた。
それは、かつてのルークにもなかった感覚。
そしてレイナにとっては、ずっと夢見ていた“自分の存在意義”。
その実感が、確かにふたりを繋げていた。
依頼達成の報告は、明日になる。今日はもう、日が落ちる。
ふたりは、王都へと戻る道をゆっくり歩いた。
「……ルークさん」
「うん?」
「……私、今日、ちゃんと冒険者だったと思えました」
「それは、僕も同じです」
「また……ご一緒、できますか?」
「もちろん。また一緒に、やりましょう」
ふたりの歩幅が、ぴたりと揃った。
夕日に照らされた林道を抜ける手前、ルークはふと立ち止まった。
「……ん?」
「どうかしました?」
「……血の匂いがする」
風に混じって漂う、濃い鉄の香り。それは明らかに、“新しい死”のにおいだった。
ルークとレイナは、警戒を強めて草むらをかき分ける。数歩進んだ先――
倒木の陰に、モンスターの死体が横たわっていた。
一体、二体……全部で五体。
地面に叩き伏せられたように転がっているのは、獣型の中型モンスターだった。
体毛は灰色で、裂けたような角と発達した前肢――《ダスクフォング》。
本来は群れを成して行動する、Bランクの危険魔物だ。
「……これ、全部……やられてる……?」
レイナが声を潜める。
どの個体も、明確に急所を狙われて殺されていた。喉元、胸部、頭蓋。
だがそれ以上に、ルークはある“違和感”に気づいた。
「……何かおかしい。見た目が、通常種と違う」
近づいて観察すると、身体の一部が不自然に膨れていた。
前足の筋肉は膨張し、皮膚の下に赤黒い血管のような浮腫が網のように広がっている。場所によってはそれが裂け、血が滲んでいた。
「全部の個体……同じ症状が出てる」
目は充血し、口元から泡のような唾液が垂れていた。
「普通、ここまで膨らむことはないはずなんだけど……」
「戦ってて、暴れすぎたとか……ですか?」
「わからない。でも……何かに追い詰められて、最後に暴走した……そんな感じがする」
レイナが小さくうなずく。その目にも、不安がにじんでいた。
地面には巨大な足跡と、強い衝撃を受けた痕跡が残っている。
倒木は裂け、岩にはひびが入り、そこかしこに戦闘の痕があった。
そしてそのどれもが、ダスクフォング側の反撃によるものではない。
圧倒的な力で、一気に仕留められた――それだけがはっきりと伝わってくる。
「……何がこんなやつらを、まとめて倒したんだ?」
ルークがつぶやくと、レイナが静かに手を合わせ、ひとつ祈りを捧げた。
その時だった。
林の奥で――何かが、風を裂いた。
一瞬だけ、枝が揺れ、葉がざわめいた。けれど気配はすぐに消える。
「……今、何か……?」
「いや……もう、いない。でも」
何者かに“見られていた”ような気配だけが、皮膚に張り付いて離れなかった。
ふたりは無言のまま、林を後にする。
王都の灯りが遠くに滲むころ、レイナがぽつりと口を開いた。
「……また、ここに来ることになるかもしれませんね」
「そうかも。でも……次は僕たちだけじゃ済まないかもしれない」
その言葉に、応えるような静寂が、林の奥からついてくるようだった。
そしてこのささやかな違和感は、
やがて王都を巻き込む大きな異変の、最初の予兆となる。