1 処刑された公爵令嬢
「ユフィ、君を愛してる」
恋した人からようやくその言葉を聞くことができ、彼女は彼の胸の中で安堵した。
そして彼の死角でこっそりと彼女の唇は弧を描いたのだった。
◇
メルローゼ公爵家の娘ユフィーナは十歳のころからこの国、ラフォンディエ王国の王子リュシアンの婚約者だった。
政略で決められた婚約者。きらきらと光る銀髪に宝石のような紫色の瞳の王子様。初めて顔を合わせたとき、こんなきれいな男の子がこの国には存在するのかと驚いた。
同じ年ですぐに打ち解けたユフィーナとリュシアンは二人で王宮の庭園で遊んだ。
「綺麗な花」
「これはジーニャという花らしいよ」
リュシアンはジーニャを摘んでユフィーナの髪に飾る。
「ありがとう! 私、この花好きだわ」
「そう、よかった」
リュシアンがユフィーナに向けて微笑んで、王子様は笑顔まで素敵であることを知った。
「犬?」
庭園の奥で犬を見つけた。なんという犬種かはわからなかったが、毛並みがふさふさとしており、愛くるしい目をした犬だった。
「かわいい!」
すぐに犬に近寄ろうとするユフィーナをリュシアンが制止した。
「ダメだよ。病気を持っていたら危険だ」
リュシアンの言葉にすぐに足を止めた。
「でも……足を怪我しているみたい。可哀想」
「本当だ。どこかから迷い込んできたのかな」
リュシアンが顎に手を置き、何かを考えていた。ユフィーナはリュシアンが出す答えを待つ。
「よし、従者を呼んで手当させそう。ユフィーナ、犬は好き?」
「ええ!」
リュシアンがすぐに従者に犬の手当ての指示とこの犬をここで飼うことができないかと話をしてくれた。
リュシアンとユフィーナの月に一度の交流はその犬の散歩が主になった。小型犬のため、普段は室内で飼い、散歩は王宮内の庭園を歩かせるだけのものだった。
「ユフィ、君の意見を採用して犬の名前はアーニーにしたよ」
それは物語に出てくる登場人物から取った名前だった。
「リュシー、アーニーはポピーが好きなのよ」
物語の中の話だが、ユフィーナは庭に咲いていたポピーを摘んで小さな花冠を作りアーニーの頭の上に乗せた。すぐにアーニーは頭を振ってその花冠を落とし、リュシアンとユフィーナはその様子を見て笑い合った。
そしてしばらく笑い合ったあと、リュシアンがポケットからボールをとり出す。小さく柔らかそうなボール。
「アーニーと遊べるように用意させたんだ。ほら! アーニー、取ってこい!」
リュシアンがボールを投げるとすぐにアーニーがボールに向かって走りだす。一生懸命に駆けるアーニーを見てワクワクした。
だが、戻ってきたアーニーが口に咥えるものを見て目を丸くする。
「アーニー……それはボールじゃないぞ……」
褒めて、と言わんばかりのキラキラした目を向けてくるアーニーだったが、口に咥えているのは庭に植えてあるヒメリンゴの木の実だった。
「ふっ……ふふふっ! ふははははっ、あははははははっ!」
アーニーを見てユフィーナは大笑いした。
「ふはっ、あはははははははっ!」
大笑いするユフィーナを見てリュシアンも笑う。すごく楽しい時間だった。
アーニーは小さい犬だったので子犬だと思っていたが、実は拾ったときからすでに老犬だったようで、それから二年も経たずに亡くなった。
二人で可愛がっていた犬なので、リュシアンからの知らせを受け、ユフィーナはすぐに王宮へと向かった。そして、冷たくなったアーニーを撫でてぽろぽろと大粒の涙を零した。
アーニーは郊外の墓地に小さな墓を用意してもらえることになり、二人でアーニーを弔った。
そんな幼少期を過ごした二人だったが、それからすぐにユフィーナの王太子妃教育が始まり、忙しい日々を過ごすようになった。
厳しい王太子妃教育の中でよく注意されたのは、淑女は感情を表に出してはいけないということ。何が良いのかわからなかったが、張り付いたように微笑んでおけば教師からは褒められたので、ずっとそうしていた。
「嫌なことがあったら、僕の前だけでは泣いてもいいんだよ」
リュシアンとのダンスレッスンの際、上手く踊れず教師に強く叱られた。レッスン後にリュシアンがそう言ってくれた。
「ありがとうございます、殿下。その言葉だけで十分です」
泣き出しそうな気持ちをぐっと堪えて、微笑みを浮かべてそう返事をした。
「そう」とリュシアンは少し寂しそうな顔をした。
「無理しないでね」
「はい」
リュシアンが優しく笑い、ユフィーナの胸が温かくなる。
気づかないふりをしていたが、ユフィーナはずっとリュシアンに恋をしていた。完璧な彼に見合うような女性にならなければ、そんな思いで厳しい教育にも耐え抜いた。
リュシアンが十五になると立太子の儀が行なわれた。それと同時にユフィーナとリュシアンの婚約も公表される。
めでたい出来事に公爵家へ祝いの品がいくつも届くなか、毒入りのワインや刃物の入った祝いの手紙などの物騒なものが紛れていることもあった。もちろん品物全てを点検していたので、ユフィーナとその家族が危険にさらされることはなかった。
王宮からの帰りに暗殺者に狙われることもあった。とてつもない恐怖を感じたが、しっかりと護衛をつけた生活を送っていたため、ユフィーナはいつも無事だった。
「僕のせいだ……君が僕の婚約者だから……」
リュシアンとの婚約を発表してすぐのことだったので、リュシアンはそう自分を責めた。
「殿下のせいではありません。護衛もついていますし、私は無事ですから」
ユフィーナはリュシアンが自責の念を抱かないよう、平然と振舞った。
だが、暗殺者に狙われることはこれでは終わらなかった。
この日はユフィーナが王太子妃教育で、母が王妃との茶会のため、二人で王宮へ来ていた。
ユフィーナは母の茶会の終わりを待って、二人で馬車の中で談笑をしている最中の出来事だった。
到着の知らせに母が馬車を降りようとした。
「お母様、待って!」
到着の声に違和感を覚え、ユフィーナはすぐに母を止めた。聞こえてきた声は護衛のものでも御者のものでもなかったのだ。だが、母は馬車の内鍵を開けて外に出てしまっていた。
「え? なあに、ユフィ? ――っ!」
ナイフで胸を一突きだった。
「っ!」
母が前に倒れ込み、ユフィーナは咄嗟に馬車の扉を閉めて内鍵をかける。そして馬車の中でガクガクと震えた。
「おかあさま、おかあさま、おかあさま、おかあさま……あ、あ、あ、あああああああああ」
ガタガタと揺らされる馬車の中、壊れたように「おかあさま」と繰り返し、ボロボロと泣きながら、助けが来るのを待った。
騎士の話では母は暗殺されたらしい。プロの暗殺者の仕業ではないかと。
「ユフィ……!」
騎士に保護されたユフィーナを見つけて、リュシアンが青い顔で声をかける。母が亡くなったことを聞いたのだろう。
目の前で起こったことが衝撃的すぎて、ユフィーナの顔からすべての感情が抜け落ちていた。
「あ、殿下……お騒がせをして申し訳ございません」
張り付いたような微笑みを浮かべてそんなことを言ったと思う。表情を作ることができたのは厳しい淑女教育の賜物だろう。
「ユフィ……」
リュシアンはそれ以上かける言葉が見つからないという顔をしていた。ユフィーナは騎士に屋敷まで送ってもらった。
母の死は事件として騎士団で捜査をしてもらうことになった。
「くっ……私のせいで、犠牲が……」
家族の中で父が一番母の死を悔しがっていた。
五歳下の弟ジュストももちろん大泣きをしていたし、このときばかりはユフィーナも自室で枕に顔を埋めて嗚咽を漏らしながら号泣した。
母の葬儀のあと、リュシアンがそのときもユフィーナに「泣いてもいいんだよ」と優しく声をかけてくれた。だが、ユフィーナは張り付いた笑みでリュシアンに「平気です」と答えた。
もう涙はとうに枯れ果てていた。
ユフィーナがリュシアンの前で久しぶりに感情を露わにしたのは夜会でのことだった。
十六で社交界デビューをし、リュシアンのエスコートで何度か王宮の夜会に参加していた。リュシアンの婚約者であるユフィーナは一曲目にリュシアンと踊る。
いつもそうなので、この日もそのつもりでいた。
「リュシアン先輩! 私、今日が社交界デビューの日なんです! 一曲踊ってください」
一人の可愛らしい女性が無邪気な様子でリュシアンの腕に巻き付いた。
今までそんな女性を見たことがなかったので、驚いてしまった。
先輩と言っていたので、おそらく学園の後輩だろう。
リュシアンは学友を作るという目的で学園に通っている。生徒会という組織で学ぶことも多いと話をしていたこともあった。
一方、ユフィーナは学園には通っていない。王宮で王太子妃教育を受けていて、学園に通う暇がなく、勉強は家庭教師をつけて家で学んでいる。
馴れ馴れしい様子の女性。
普段から彼女はそういう態度でリュシアンに接しているのだろうか。
「こら、エミーリア嬢、ここは生徒会ではないんだから、先輩などと呼ぶのはダメだよ」
「あ、そっか。ごめんなさぁい。リュシアン殿下」
そんな気さくなやりとりを見て、ユフィーナは大きく目を見開き驚愕に満ちた顔をしてしまった。
「ねぇ殿下、一曲目、私と踊ってくださいませ!」
彼女はリュシアンの腕に巻き付いたまま、まだ真っさらなダンスカードを取り出しそう強請る。
リュシアンはその女性を腕にぶら下げたまま、眉を下げてユフィーナの方を向いた。
声を出そうとすると唇が震える。だが、ちゃんと言わなければ。そう思うが……
「殿下、どうぞ。彼女と踊ってあげてくださいませ」
笑顔でそう言えたはずだった。だが、生温かいものが頬を伝う感触がした。
「あ、ユフィ……」
リュシアンが驚いたような顔をしたが、すぐににこりと笑って「ありがとう、そうするよ」と言った。
するとユフィーナの目からはどんどんと涙が零れ落ち始めた。ユフィーナは慌てて夜会会場から化粧室へと逃げ込んだ。
抱いた感情は嫉妬。こんな気持ちを抱えてはいけない。
淑女でいなければとマナー教師の言葉を頭の中で繰り返した。
結局この日、ユフィーナがリュシアンとダンスを踊ることはなかった。
そして、次の夜会も、その次の夜会もユフィーナとリュシアンがダンスを踊ることはなかった。
ユフィーナには何が起きたのかわからなかった。
なぜかリュシアンはユフィーナをエスコートして夜会に出ると招待状を渡してくる。ユフィーナが王太子の誘いを断ることはできない。
ユフィーナが一曲目でリュシアンと踊ることは周知の事実。だから、ユフィーナをダンスに誘う貴族令息はダンスカードの一番上にリュシアンの名前がないことに気づくと、リュシアンよりも先に名前を書くなど恐れ多い、と名前を書かずに去っていく。ユフィーナは壁際でひたすら微笑みを張り付けてリュシアンが他の女性を踊る様子を見ていることしかできなかった。
特にリュシアンの学園の後輩であるエミーリアと踊る際は二人ともユフィーナに見せつけるように近くで踊り、リュシアンが蕩けるような笑顔をエミーリアに向けるので、胸が焼けるように熱く痛く、涙を堪えるのに必死だった。
学園には通っていないユフィーナだったが、貴族令嬢たちとの付き合いはあり、たびたび茶会に参加していたが、リュシアンの態度にユフィーナを侮る者まで現れるようになった。もちろん公爵令嬢であるユフィーナは毅然とした態度で対応するが、やりづらくて仕方がなかった。
「エミーリアは市井で暮らしていたんだ。だから、あまり淑女らしさがない。よく笑うし、よく泣くし。彼女表情がコロコロ変わって面白いだろう?」
「そうですね」
エミーリアはルチェール伯爵家の庶子で三年前に引き取られた娘らしい。
なにが面白いのかさっぱりわからない。本当は他の女性の話をされて不快です、と言いたかったが、好きな人に強気にそんなことを言うことはできない。
ユフィーナはいつも通り表情を崩さないように肯定した。ため息を吐いたリュシアンに「君ももっと泣いたり笑ったりすればいいのに」と言われた。
先日は動揺で思わず涙を流してしまったが、あの後二度と人前で泣くものかと心に誓った。ユフィーナがリュシアンの前で泣くことはもうないだろう。
リュシアンは一体どういうつもりなのだろうか。彼の行動を見る限りだと、エミーリアに恋をしたというのが一番腑に落ちる。
だが、そう答えを出すとやはりどろどろとした感情が込み上げて来て、胸をぐりぐりと抉られる。
婚約を解消してほしい。そう思うものの、そうはできない事情がある。
「すまない、ユフィーナ! 私の立ち回りが悪かった」
ある日、父は真っ青な顔で告白した。
どうやら公爵である父は帝国との繋がりを疑われて、処刑されることが決まったらしい。
もちろんユフィーナはリュシアンと婚約破棄をすることになる。
しかし事態は婚約破棄で済むような甘い程度のものではなかった。
「本当にすまない……」
父は涙を流して弟ジュストとユフィーナを抱きしめる。
「お前たちだけでも生き延びてくれ……!」
そう言われ、屋敷の地下室の隠し扉に押し込まれる。ジュストの手を引いて、必死に屋敷の地下通路を走った。泥濘に足を取られそうになりながら、出口を目指してひたすら駆けた。
「出口だわ」
汚い石でできた扉を力いっぱい押すとズズズと少しの隙間ができる。人が通ることができるだけ開けなけば、と必死に扉を押していた。
「ここに、いたんだね」
隙間からぬっとリュシアンが顔を出し、ユフィーナは目を見開いて一瞬固まる。
リュシアンとともに来た騎士が石の扉を全開にし、ユフィーナは守るようにサッとジュストを背中に隠す。
「殿下、此度の事態、父は濡れ衣を着せられたのです。ラフォンディエ王家へ忠誠を誓うメルローゼ公爵家が反旗を翻すなどあるわけございません」
「だが、証拠が見つかった」
「っ……!」
ジュストがユフィーナの服をギュッと握る。
「父は公爵の罪を断定しているが、僕は捏造された証拠である可能性は否定できないと思っている。君が泣いて助けを乞うならなんとかしてあげるよ」
馬鹿にしているのだろうか。ユフィーナはキュッときつく唇を結んだ。
「わかりました。では、結構です。捕らえてくださいませ」
ユフィーナはが淡々と答えるとリュシアンが「はあ」とため息を吐く。
「君はこんなときでも、表情を崩さないんだね」
ぼそっと「つまらない」と言われたことを聞き逃さなかった。
「捕らえよ」
騎士たちが「はっ」とユフィーナたちを拘束した。
「ラフォンディエ王国では謀反は一家全員死罪。まずはメルローゼ公爵の処刑から。その三十日後にユフィ、君を処刑する。そしてその三十日後にはジュストを……」
厳しい拷問を受けた後、牢獄の中でボロボロになった身体を横たえているとリュシアンにそう告げられた。
「本当に……君は何も知らないのかい……?」
「はい。私にはなんのことかわかりません」
リュシアンは痛々しいものでも見るような目でユフィーナを見て「そうか」と一言だけ発してその場から去っていった。
それからひと月ほどで父が処刑されたことを報告され、ユフィーナは拳を強く握って歯噛みした。
その三十日後、ユフィーナの処刑の日がやってきた。
ユフィーナは十七年という短い人生を振り返る。
最後こそ散々だったが、リュシアンに恋をしたのはたしかだった。
「最期になにか言いたいことは」
今着ている服は汚らしい囚人服。もう自分は公爵令嬢ではないのだ。
今なら思いっきり笑って、思いっきり言いたいことを言える。
ずっと秘めていた思いを告げて最期にしようと考えた。
ユフィーナはリュシアンに向けて、今まで向けたことのない笑顔を向けた。目を細めてにっこり笑う。そんな笑い方をしたのは久しぶりだ。
「リュシー、あなたのことが大好きだったわ。これだけは本当……」
リュシーと愛称で呼んだのは七年ぶりだった。リュシアンが驚いたように大きく目を見開いた。
言ってみたら、泣けてきた。今度は笑いながらボロボロと涙を零し、そのまま断頭台へと頭を乗せた。
そしてすぐにユフィーナの首は落とされた。