8 どうやら尊いらしい。
『おはようヴァイオレット』
「おはようございます」
『僕には君を愛する価値も無いのかも知れない』
急に、何故。
「あの、何故急に?」
『考えてみて欲しい、何故なのか』
「あ、はい」
『答えが出るまでハグをさせ続けて欲しい』
「お妾さんの事は」
『白紙撤回だ、メアリーと僕で何とかメイソンに理解して貰えた、けれど課題は製作中だから待っていて欲しい』
「なら抱き付くのはど」
『君が僕をどう思おうとも僕は君が好きだ、だから慣れて欲しい』
《チッ》
「メアリー、舌打ちが上手」
《すみません、親が舌打ちする者で、失礼致しました》
『僕は君が思うよりも姑息だし、清廉潔白でも聖人でも無い、要は君と僕は同じ生き物なんだ』
「もしかして、既に外に愛人が」
『居ないけれど、そこまで僕が情欲に飢えている様に見えるんだろうか』
「あの、このお顔に耄碌してらっしゃるかと」
『顔、とは』
「実は前に、肖像画を見てしまいまして」
『あぁ、その事はもう片付いたんだ。そうだ、肖像画を一緒に燃やそうか』
「勿体無い」
『なら君に書き換えさせるのは?どちらかだ、焼くか書き換えるか、因みに書き換えるのは最初から描く値段の半分にも満たない、下手をすれば菓子が買える金額だよ』
「あの、片付いた、とは」
『生きているらしい、しかも僕は二股されていて捨てられた、メイソンや家族が僕の為にと事実を隠してくれていてね。メイソンは君を諦めさせるつもりが、僕には逆効果だった、聞いても何とも思わなかったんだよ』
「それは、生きてらっしゃるからでは」
『当時に知っていたら殺すか悲嘆に暮れるかしていたけれど、時間が経っているし、もう今は君が。顔は切っ掛けに過ぎない些末な事、勿論こうなったからこそ君を好きになったのは有るけれど、僕は打算と情愛に悩む普通の生き物だよ』
「誂って遊んでらっしゃるのでは」
『ぁあ、前世で君を騙した男は貴族なのかな』
「それに準ずる名家で、華族と呼ばれる制度の者でした」
君の様に真面目で勤勉な者は魂が美しい、好きだ、惚れた。
身分が違うと言うと、駆け落ちをしよう、待っていると。
最初は遊びだろうと思いました、でも彼は時間を掛け、贈り物も手紙も頂きました。
そして私は置手紙をして家を出て待ちました、雨の中を1日、眠くてもそこで待ちました。
そこに彼は友人と共に現れ、全てを教えてくれました。
1日中近くの茶屋で見ていた、最高に楽しかった、手紙は代筆だから証拠として出しても無駄だ。
恋心と家を同時に失い、お寺に荷物を置いて川に飛び込みました。
でも死ねずに、流れ着いた先で日雇いの仕事をして、でも病気になって物乞いになり。
それからやっと、死ねました。
『僕達はもう夫婦なんだよ?』
「子がいなければ離縁は成立しますよね。それに情愛について本で学びました、何年か過ごせば熱が冷めると、抱かれれば飽きて下さるなら抱かれますが子は無理です。愚かさは移り、時に血筋に影響します、私の血は残すべきでは」
《私の楽しみを奪わないで下さい、どんなに愚かな子でも嫁がせられる私を、信じては下さいませんか?》
今まさに、僕が舌打ちをしたい。
今までもヴァイオレットを支えてきたメアリーに、どうしても勝てない。
良い場面は全てメアリーに持っていかれてしまう。
まさか侍女と妻を奪い合う事になるなんて。
いや、だから僕は捨てられたんだろうか。
「メアリーは信じてるわ、けど」
『ヴァイオレット、先ずは肖像画の事を良いかな?』
「あ、その、はい。ただ離縁になった場合は買い取らせて下さい、そうした物を残すのは、お邪魔になるでしょうから」
『そもそも処分すべきだった、すまない』
「いえ、お陰で婚姻歴に箔が付きましたので、ありがとうござ」
『僕に愛する資格が無いかも知れない理由を、考えて欲しいのだけれど』
「あ、すみません、はい」
『朝から色々と考えさせてすまないね、ありがとうヴァイオレット』
《旦那様、そろそろご出勤の時間かと》
メイソンの次はメアリー。
それとヴァイオレットを狙ったかも知れない、屋敷の者。
居ないのが1番なんだが。
居るかも知れない、居ない証明をしなければ、ヴァイオレットとは。
『僕に愛する資格が無いかも知れない理由について答えが出たら、僕に書いて寄越しておくれね、行ってくるよ』
「はい、行ってらっしゃいませ」
先ずは何処から調べるべきか。
《えっ、マジでケガしちゃってたんですか?》
『家の中でだ、ただ向こうの家に疑われている、屋敷内の者に狙われたのではと』
「上司様は色男ですからね、分かる」
『薬は飲んだか?』
「ふぇぇ、上司様の気遣い逆に痛い」
《先ずは女性陣から疑うべきですけど、殆どいらっしゃらないんですよね?》
『子供の頃からの者ばかりで、片手で余る程、今では閉経して楽になったと堂々と言う者だけだ』
となると。
《じゃあ男で独身の者ですかね》
『何故』
《叶わない思いだからこそ、自分の理想通りの相手とくっついて欲しいそうですよ》
「えっ、君、ソッチ?」
《の方に言われました、僕の理想通りの相手と結婚してくれないなら僕のモノになれ、と》
『それで君は、どうしたんだ』
《その理想通りの女性が居るなら紹介してくれと言ったんですけど、まだ見付からないみたいで、音沙汰が無いんですよね》
「君、それ期待して待ってるの?」
《はい。だって美人だけども可愛らしい人で胸がデカくて、なのに貞淑で一途だけど俺を満たせる女子ですよ?待ってるだけで良いなら最高の相手じゃないですか》
『その、期限は決めて有るんだろうか』
《来年の春までの予定なんですよ、けど上司様と争うとなると困るんで、離縁は僕が相手を見付けた後でお願いしますね》
『どうして離縁すると』
《だってお嫁様は殺されそうになったかも知れないんですよね、なら誰に殺されそうになったと思うか、賢い方なら先ずは伴侶だと考えると思うんですけど。そうした話し合いをして無さそうなので、離縁も有り得るかな、と》
「君怖いモノ知らず過ぎて俺が怖いわ」
《でも大概の犯行は身内なんですよ?上司様のお嫁様なら思い当たって然るべきでは?》
『見回りに行ってくる、君達はいつも通り巡回を頼む』
《畏まりー》
犯人に思い当たる節が有ったのか、お嫁様とお話し合いか。
「君さぁ」
《あ、お薬飲みました?》
「飲んだ、ありがとう」
それか、証拠隠滅に向かったんですかね、上司様。
「あ、の」
『僕も愚かだった、部下に言われて想定が抜けていた事に今さっき気付いた』
「夫様、何の事か」
『君は、僕が君を殺そうと思ったかも知れないと、思った事は無いだろうか』
あ、ココ驚くべきですよね、そう想定してないなら驚かないと。
どうしよう、どうすれば。
「あの」
『すまない、思い至れ無かった』
あ、私が疑っていたとは思ってらっしゃらない?
いや、寧ろ思い至れなかった事が問題ですよね。
やっぱり、愚かさが移ってしまったのでは。
「やっぱり、私の愚かさが」
『いや、コレは君への情愛故にだ。君のせいでは無い、僕の問題だ』
「お、王族は王妃を寵愛し過ぎてはいけないそうで」
『生憎と僕は王族では無いし、こんな僕には君だけでも十分過ぎると思っている』
急いで来たから汗が。
汗を流す姿すら尊いのに。
「あ、夫様、お水を」
『いや、もう戻る、すまなかった』
「いえ、お気を付けて」
お仕事用の口調も素敵。
なのに、勿体無い。
自分には勿体無いだなんて、優しくて真面目な方なのに、私にこそ勿体無いのに。
《お嬢様、先ずはすべき事と考えるべき事を片付けましょう》
「うん」
本気で焦って家に帰るとか。
本当にお嫁様が好き過ぎですよ、ウチの上司様。
「上司様、どうでしたか?」
『様子見に行ってみたが、分からなかった、男からの嫉妬や殺意は感じなかったが。君なら気付けるんだろうか』
《いやー、俺も本人から言われるまでは。ただ、兆候は有ったんだなと後から気付きました。男は男を露骨に牽制するんですよ、件の事を友人に言ったら、やっぱりなって言われたんで》
『なら、君を連れて行けば』
《引っ掛かるかも知れませんね、俺ってそう言うのに好かれ易いらしいんで》
「まだ他に逸話があんの?」
《その牽制されたってヤツも、俺を愛人にと狙ってたらしくて、ソイツの結婚式の後で愛人にならないか誘われた》
「分からん、全く分からない世界だわ」
《良いみたいですよ、突っ込まれるの》
「ひぇ、痔は死ねるなぁ」
『治しておけ、仕事に響くぞ』
「いや俺は別に」
《穴痔ですか、大変だ》
『お前はまた病院へ行け、ウムトは今夜ウチに来てくれ、頼む』
《やったー、健康の勝利》
「マジで俺のケツは平気なんすけど?」
『なら次に頼む』
「ウッス」
マジで大好きじゃないですか、お嫁様の事。
でも良いんすかね、上司様とは違う種類のイケメンを連れてって。
「眼福」
お嬢様は仏教が元来でらっしゃるらしく、セバスチャン様がお連れになった方に影ながら手を合わせ。
後で報告して差し上げましょう、セバスチャン様に。
《お嬢様、ご挨拶は快気祝いの時で、お食事にしましょう》
「ぅん、はぃ」
《今まで使って頂いたお金は稼げば良いんです、そして仕立て屋が大成功せずとも、潰れなければ宜しいんです。それこそがご恩返しとなるとは思いませんか?》
「そんな程度で」
《他にも案は有りますが、先ずは1つ1つです》
「うん、はい」
一生、お守り致しますよ、お嬢様。
《お嫁様に会いたかったなぁ》
『快気祝いまでには体調を整えられる予定だ、すまない、私用に巻き込んでしまって』
《いえ、タダ飯美味しかったですし》
「あの、夫様」
『ヴァイオレット、どうしたんだい』
「ベール越しですが、やはりご挨拶をと思いまして」
《部下のウムトです、いつもお世話になってます》
「ヴァイオレットと申します、病を移してはと、この様な装いで失礼します」
《ご配慮頂きありがとう御座います、どうぞご自愛下さい、次に部下が来てもご無理をなさらず。と言うか無視して構いませんよ、どうせアイツは性病持ちだし》
「あら、ぁあ、それで快気祝いを」
《だから敢えて無視してやって下さい、僕の事も、お嫁様のお体の具合が最優先ですから》
「ふふ、ありがとうございます、では失礼致します」
《はい、ありがとうございました》
泣きたい。
部下には気を許して、どうして僕には。
『どうして君には気を』
《僕が敵じゃないと分かって頂いてるからでは、と言うか何ですかあの侍女、全く足音が無かったんですけど》
僕が、ヴァイオレットの敵。
そう見せた事は。
いや、以前の記憶も蘇っていると聞いている。
しかも最悪は死んでくれないかと確かに僕は思っていた、だが、いや。
『アレはヴァイオレットの生家からの侍女だ』
《へー、あ、事故の日の事、時系列で書き出しました?》
『あぁ、既にあの侍女が記録していてくれて、コレだ』
確かにウチの使用人だけがヴァイオレットに関わっていたが、それでもかなり限られている。
《んー、名前と容姿が合致しないのでアレなんですけど》
『この者は……』
筆頭執事のメイソン。
執事補佐のジェイソンとスティーブン。
メイド長のアンナ。
メイドのマリー。
そしてメアリーだけ、なんだが。
《ジェイソンかスティーブンって》
『そうした噂は全く、ただマリーがスティーブンを気に入っていた時期は有るが、息子としてだろう。今は特に接触している素振りは無い』
《んー、分かんないっすねぇ》
『あぁ、僕もだ』
余計な事だったかしら。
メイソンにも確認してから、ご挨拶をしたけど。
《大丈夫ですよお嬢様、メイソンが許可した事を私も確認しておりますし》
「でもメイソンが許可したからと言って、夫様に得になったかどうか、最終的な判断は夫様の」
あらノック、誰かしら。
《何用ですかメイソン》
《ヴァイオレット様がお悩みでしたら、どうかお伝え下さい、ご挨拶は正解でしたと》
「メイソン、本当に?」
《お話しが弾んでらっしゃいますし、義理堅い方だと褒めてらっしゃいましたよ》
「ありがとうメイソン、ごめんなさい、セバスチャン様の興味を削ぐ事が出来無くて」
《いえ、あのお願いは時期尚早、過ちでした》
「いえ、メイソンは間違って無いわ、だって私より賢いんですもの。だから、きっと夫様が気を使って下さったのね、ごめんなさい、ありがとう。もう良いの、ありがとうメイソン」
《いえ、コレは、私が》
「良いの、ありがとう、ご苦労様です」
《ではメイソン、ご機嫌よう》
「メイソンにまで迷惑を掛けてしまったわね、やっぱりもっと自重しないと」
《ですが刺繍入りのハンカチは贈りませんと、最低限、夫婦ならば既に持っているべきですから》
「部下の方にもお渡しするのは」
《それでしたら快気祝いに、日頃のお礼としてお渡しするのが良いかと》
「そう、なら選んで貰える様に色々と柄を刺繍しないと」
《そうですね、図案を選びましょう》
それからメイソンにも、謝罪の意味を込めた図案を。
色も、紺で、メイソンの言う通りにしますと伝えないと。