佐々木迷宮-5 家族/歪
※この回は10,000文字を超えています。ご了承ください。
昨日見た夢の話。
とある三人の家族が食卓を囲んで楽しく談笑しているのを近くで眺めている。仲睦まじい理想的な家庭だ。
どうして見ず知らずの家庭の夢を見ているのだろうと疑問に思っているといつもの観察癖が働いた。その家族は俺の姿が見えていないらしい。とりあえず彼らの周りを歩き回りながら様子を観察してみる。
母と父が同じ側に座って互いに何かを楽しそうに話している。向かい側には女の子が一人、大人二人の会話を見ながらスプーンを口に運んでいる。今わかるのはこれくらいだが、親の方は子供に興味関心がないように感じられた。両親はどちらとも互いの方を見ていて、子どもの方には一切顔を向けていない。話している内容は……声に何やら靄がかかっているようでうまく聞き取れないが、とにかく二人がイチャイチャしていることだけはわかった。
なんだか女の子が除け者にされているようで寂しさを覚えたが、その子は二人の様子を見てニコニコとしているのが見えた。有無も言わず、ただ親が話しているのを眺めている。
まあ、仲の悪い家族では、ないのかな、と思っていた。
しかし。
———パチン!
頬を叩く音が響いて空気が張り詰める。父が母の顔を叩いた。父は笑顔のままで片頬を抑えている母を見ている。全く理由がわからない。さっきまで仲よくしていたじゃないか。なのにどうして、突然そんなことを?
そして理解できないことがまた起こった。母の方が突然、父の方に抱き着き、接吻をしたのだ。勢いあまって二人は床の方に倒れ込む。咄嗟に近くに駆け寄る。
……素でうわ、という声が出た。
詳しくは言わないが、始めてしまった。まるでわけがわからない。お互いに溜めていたのか、何がキッカケとなってしまったのか、それは知る由もないし知りたくもない。ただとてつもなく不快な気分になったのは、このようなことをこんな場所で、しかも子どもも見ている前でやっているからで……。
「……え?」
子どもは笑顔だった。満面の笑みを浮かべていた。ショーを見ているかのように覗き込んでいた。椅子から降りて二人の行為を見に行った。
「まま、ぱぱ、楽しそう!」
その子は無邪気にそんなことを言った。すると母がきっ、と子どもの方を睨む。なんだかすごく、嫌な予感だ。
母は慈しむような笑みを浮かべると、その子を殴りつけた。
その瞬間、場面が転換する。キッチンだった。皿洗いを母とその子でやっている。母は皿を落とした。そしてその破片で突然、隣にいた子どもの腕を切り付けた。母と娘の二人は楽しそうに笑った。
今度はお風呂場だ。父と子どもが一緒に入っている。すると父は突然子の頭を水面に押し付けて沈めた。十秒ぶくぶくと泡が浮かんで、子は顔を上げる。父と娘はどちらも笑顔を見せていた。
子供部屋。親子三人で仲良く、遊んでいる。積み木を高く積み上げている。しかし崩れてしまった。父は四角で黄色いブロックをその子の目に向けて投げつけた。
人形遊び。おままごと。小さな人形を座らせて、ご飯ごっこをしている。しかしご飯の小物がなかったので、外から持ってきた泥をこねて代わりとして置いた。母はその泥を、子に食わせた。三人とも、笑っていた。
そんなことを何度も何度も見せつけられていくと、いずれ世界が暗くなっていった。
子どもが暗い部屋の中央で倒れている。衣服はぼろぼろ。肌は荒れに荒れ、見れたものではなかった。両親はそんな子どもを見下ろしている。そして逃げるように、部屋を後にしていった。
「ちょ……待て!」
夢であるとわかっていても追いかけた。しかし視界から両親の姿は完全に消えてしまっていた。
あんな酷い仕打ちをしておいて、終わりには捨てて逃げる? 許されるわけないだろ。逃げてどうにかなると思っているのか。
しかし消えてしまったものはもうどうしようもなかった。後ろで放っておかれたままの子どもの方に近寄る。うつ伏せで倒れている子どもは、呼吸をしていなかった。
ズタボロになってしまった身体に触れてみる。とても、ざらざらしていた。乾き切っていた。腐った卵の殻みたいだった。
「……ッぐ」
脳に映像が流れる。
さっきまでいた両親を下から見上げている映像。これは、この子の記憶? あんなに酷いことをされていたのに、世界が、暖かい。同時にその子の感情も雪崩れ込んでくる。
……喜んでる。嬉しいって、感じている。
おかしい。おかしいだろう。そんなの、おかしいじゃないか。
これもまた、一つの家族の形? 肯定されるべき在り方? そんなもの、認めたくはない。
俺にこんなものを見せて、君は、”楽しかったんだよ。いい家族だったんだよ”って伝えたいのか。でも俺は、否定したい。こんな歪な関係で幸せだなんて、俺は、受け入れたくない。
そう思うのは。
きっと俺が、君の家族ではないからだ。
すっかり身体の不調も治って今日はいつも通りに登校し、学校で一日を過ごした。でもその間ずっと、胸の辺りがもやもやしていた。寝ている間に何か、夢として何かを見て、酷く心が揺さぶられたはずだった。とても納得できないことがあって、許せなくて。でも夢だとわかっていたから、何もできないことを自覚して見ているしかなかった。
気づいたら放課後。教室には誰もいない。……今日は何にしても気が散った。学校を休んでいるのと何も変わらない。部長には悪いが、今日も部室に寄らずにそのまま帰らせてもらうことにした。
学校玄関から出ると運動部の掛け声がはっきりと聞こえてくる。グラウンドはすぐそこにあって、今日はサッカー部があの砂場を牛耳ったらしい。グラウンドの端で野球部と陸上部が細々と無難な軽運動をしているのが見えた。
横目で他所の日常を流し見しながら校門へ向かっていく。少し顔を地面に向けて歩いていると幽かに管楽器の音が聞こえてくる。俺以外の生徒は当たり前に今日一日を過ごしている。その音が耳に入ってくると自分だけが隔絶されて身を隠さなければならないような気がしてきた。
早足で校門を出て行く。そのまま、このわかだまりをしまい込んだまま家に帰ろうとした。
「……あ」
角を曲がったところで彼女が待っていた。
「……天」
天は相変わらずおずおずとしながら俺を見ている。
「あの……」
「……あー、と。その。まだ用心棒してくれてたの?」
「それも、ありますけど……」
言葉を濁す天。でもなんとなく、言いたい事がわかった。
「瀬古さんのところに行け、ってことか」
天は頷いた。その表情は苦々しい。こっちの様子を窺っているみたいだ。
でも。
「うん、わかった。行こう」
断る理由を捨てた。驚きの顔を見せて固まる天を置いていくように、家とは逆の方向に歩き出した。
言ってしまえば。
天と鉢合わせた途端にやっと、今日一日が始まってくれた。そんな感じがした。あんな目に合ってしまったからにはもう元の日常には戻れない。戻ったところで、ずっとこのもやもやは晴れてくれないだろう。
二度と来ることはないと思っていた、蔦つたまみれの廃墟に足を踏み入れた。ここのどこを見れば事務所だとわかるんだろう。入り口の押戸を力強く開けると土埃が舞った。天が先に入ってそそくさと進んでいく。地面に落ちている数多のガラス片やビン類を的確に避けていく。鋭利な部分が剥き出しになっているところを踏まないように俺はゆっくりと歩いた。
「瀬古さん。近衛、さんを連れてきた」
暗がりの中にある扉を叩いて天が話しかけると奥からほーい、と反応があった。扉を開けると変わらない埃臭さと掃除された気配のない仕事部屋が目に飛び込んできた。
瀬古さんはソファに座っていて、その向かい側のソファにもう一人、見知らぬ男性が座っていた。
「天ちゃん、ほい」
瀬古さんが袋に入ったアイスを投げると天は片手でそれを掴まえた。そしてすぐに開けてしゃくしゃくと食べ始める。
「近衛槙くんも。来てくれると信じていたよ」
自分を見やると瀬古さんは顎を擦った。別に髭が生えているわけではない。
「さて……人もそろったことだし。本題に入りましょうか」
瀬古さんは向かいにいる男性にそう語り掛ける。男性は白い作業着を着ていて少し痩せ気味な、白髪混じりの短い髪型をしていた。見る限りでは五十代くらいに見える。
「……その人は?」
「佐々木和俊かずとしさん」
……佐々木。
「あの佐々木家の、今の相続人だ」
「は……!?」
男性は小さく頭を下げた。
「佐々木和俊です。このたびは非常にご迷惑をおかけしてしまい……」
虚ろな目で謝罪するその人を瀬古さんは制止する。
「まだ謝るときじゃないですよ。まずはあなたとあの家……及び、あの女の子との関係性を聞きたい」
「ちょっと待ってください! どうしてそんな人がここに?」
また何もわからないまま話が進みそうになったので疑問を挟む。
「佐々木家の話を最初に聞いたときから、和俊さんには何度もアポを取ろうとしたんだけどね。彼は全く聞き入ってくれなかった。というか無視。そこで、あの家をそろそろ取り壊したいっていうデマを先日送ってみたらものの見事に引っかかってくれたわけだ」
「ええ……?」
やっぱりとんだ悪人だ。この人は。
「……」
和俊さんは頭を下げたままだった。
「まあまあ。お茶とかアイスとかありますから。二人もここに座りなさい」
瀬古さんは少し移動して俺と天が座れるぶんの空間を用意してくれた。素直に座らせてもらう。
「えーと、彼女は天ちゃん。うちの用心棒。んで、彼が近衛槙くんで、うちの見習いです」
……一応断ったつもりなんだけどな。
「では、君が先日うちに……」
「……あ。そう、なりますね」
そうか、放置された廃墟だと聞いていたから、誰が管理しているとか全く気にしていなかった。つまり、以前の行い完全に不法侵入になるってことに。
「勝手に入ってすみません!」
咄嗟に立ち上がって謝罪する。すると和俊さんも立ち上がって俺を宥めた。
「いえ、そこはほら……大丈夫です。あんなになるまで放っておいたのは私の方なんですから。謝るのは本当に、私の方なので……」
「こほん。本題に」
このままだと謝罪合戦になってしまいそうなところを瀬古さんが口を挟んだ。
「まずまとめましょうか。事の始まりはうちに来た依頼の一つ。迷宮化していると噂されている佐々木家の詳細を調べてほしい、というものだった。依頼人はプライバシーのため伏せるが、そんなところだ。たまたまここから近いこともあったし、ちょうど人手も不足していたので、天ちゃんと槙君にこの物件の調査を頼んだ」
神妙な面持ちで瀬古さんは語る。前会った時には見せなかった真剣な表情を見せていた。
「さて。既にあなたには槙君の書いたメモを読んでもらいました。槙君は中で年端のいかない少女と出会い、遊び……囚われかけた。それに、間違いはないですね?」
間違いはないか。この言い方がとても、尋問のようで、確信に迫っているようで……。
「和俊さん。あなたは知らないのですか?いや、当然、知っているはずだ」
「……」
口を閉ざす和俊さん。何か言いづらそうな顔をしている。そして茶碗に入っていた飲み物を一気に飲み干した。
「……話が逸れますがね。そもそも。そもそもですよ」
瀬古さんはその茶碗にまた新しくお茶を注いだ。
「一度入れば二度と戻れないという噂。人々、特に若い子が知るにはあまりにもわかりやすい、典型的な怪談です。だからこそ、なんとも気づきやすい穴があった」
瀬古さんも続いてお茶を飲んだ。
「一度入れば二度と戻れない、という謳い文句は、どこから生まれたんですかね?」
……確かに。戻った人がいないなら、どうして入った後に起こることが伝わるのだろう。それを知っているはずの人がそもそも消えているというのに。
そう思っていると瀬古さんは同様のことを話した。
いや、でも。
「瀬古さん……言いたい事はわかりますけど、その戻らなくなった人の知り合いが気づいて、そんな噂が広まったってこともあり得ますよね?」
「そう。その通りだ槙君。だから調べてみたのさ。この怪談が、一体どこまで広まっているのかを」
瀬古さんは胸元のポケットからメモを取り出して話した。
「驚くなよ? 誰もいないんだ。この家がそんな風に言われていることを知っていた人は、そもそもいなかったのさ。僕だってその依頼を聞いて初めて知ったくらいだ。そしてここ十数年、そこで行方不明になっている人はいない」
手帳には聞き込みのメモが書いてある。地道に人に聞いて回ったのか……。
「あの地域の人も。学生諸君もみな、知らないという。では私の依頼人はなぜ、そんな誰も知らない話を知っていたのか」
瀬古さんはにやりとして和俊さんに向き直る。
「どうして、知っていたのですかね?和俊さん」
「……え?」
和俊さんの表情は、硬いままだった。
「あなた、どうして自分の管理してる家を調査してくれ、なんて頼んだんです?」
まさか、和俊さんが自分から依頼した、ということなのか……?
「……なんの、ことだか」
「しらばっくれちゃあいけない。そもそもあんた、何度もあの家に入っては掃除しているんだろう」
「……あ」
確かに。俺が入った一階はあまりに綺麗だった。それこそ、人の手が今でもかかっているとわかるくらいに。
「槙君が会ったという女の子の正体を教えていただきたい」
瀬古さんの低い声に和俊さんは屈した。
「……姉、です」
「姉?」
「佐々木瑠璃るり……私の、姉です」
「……ふむ。やはり血縁か」
とても、考えられない。この人があの女の子の弟だなんて。
「失礼ながら、あなたの外観から察するに、瑠璃さんが亡くなったのは数十年も昔のことですかね」
「姉は……私が産まれる前に亡くなりました」
「ふむ」
「いや、というよりも……姉が亡くなったから私が産まれた、と言った方がいいかもしれません」
「と、いうと?」
「……」
ここで再び口を閉ざした。とても言いづらそうだった。このままじゃ話がいつまで経っても続かない。
「家庭に問題が、あったんですよね」
そこで俺の方から切り出した。
「その……瑠璃、ちゃんとおままごとをしたんです。そのとき瑠璃ちゃんは親のマネだと言って、あんまり言えないんですけど、変なことばかりをしていたんです。だから、多分御両親の方に何か事情があるのかなって思ったんですけど」
「おっしゃる、通りです」
和俊さんは顔を上げる。そしてぽつぽつと話し始めた。
「両親は、どちらとも嗜虐的な人だったらしいのです」
「らしい、とは?」
「ええ、二人とも私が物心つく前に検挙されたので。お互いを傷つけて快楽を得るような、そんな人たちだったのです」
「なるほど。特殊な嗜好であることは理解した。それ自体を別に否定する気はないが……それが、子どもにも向けられてしまったと」
「……はい」
飲み物を飲まず、茶碗を握りしめる。苦渋の顔で続きを語る。
「姉も、引いては私も、彼らの行為の相手にさせられた。私にはわずかにその時の記憶が残っています。とても、笑いながら、頬を嬲なぶってくるのです」
その手が僅かに震えているのが見えた。
「姉は、そうして亡くなった。身体はそのままあの家に捨てられて、両親は夜逃げした」
話を聞いていると頭の中でその光景が映像として流れてきた。どうしてか、鮮明とそのときの様子が想像できる。
「逃げた先でも懲りずに私を産み、また虐待をした。幼いころのことですから、あまりその実感はないのです。しかし、記憶だけはある。だから最悪ですよ。実感のない昔のトラウマが、今でもずっと私を苛ませるのですから」
ギチギチと茶碗が軋む音が聞こえた。
「私も、姉には会いました」
「死後の姉にですか」
「はい。両親はもう亡くなったので、あの家は私が管理することになったのです。そこで姉が亡くなったことは知っていましたから、入るのは相当な勇気が要りました。そして諸々の掃除をしようと入って、二階に上がって……会ってしまった」
「どんな様子でしたか?」
瀬古さんの口調が段々明るくなっている。
「……最初見たときは出来の良い人形か何かと思いましたよ。でもすぐに、それが姉であることがわかった。浮遊するように近づいてきたんです。逃げようと思っても腰が抜けてしまって。そんな私を見て、姉は、声を出したんです」
『ぱぱ、おかえり』
「ふむ。あなたの外見は……」
「父に、よく似ているのです」
自嘲する。自分の嫌う人物の血を受け継ぎ、年を重ねるにつれて、和俊さんは彼らの息子であると自覚してしまったのだ。
「はしゃいでましたよ。帰ってきた、帰ってきたって。そして、あなたと同じ通りにおままごとをさせられた」
「和俊さん……」
「確かに、姉の遊びは酷いものだった。私は早い時点で彼らの元を離れられたのでよかったですが姉は違う。死ぬまでずっと一緒にいた。彼らの異常性も姉は受け継いでしまった。私たち家族は、殴って殴られることで幸福を得ていた、歪な家族だったんです」
返す言葉もない。和俊さんの口から次々と、零れるように押し殺してきた言葉が溢れてくる。ふと横を見ると、天は真剣な眼差しで和俊さんの姿を見つめていた。
「でも、でも楽しかったんです」
「……ほう?」
「初めて、初めて家族と、歪んだものではあったが、同じ空間で同じ時を過ごせたんですよ」
和俊さんは立ち上がって声を荒げた。
「なるほど、確かにいい話だ」
瀬古さんは頷きながら飲み物を口に含む。
「それで、依頼を出した本当の理由は?瑠璃さんと関係することであることは間違いなさそうですが」
「んぐ……」
また口をつぐんだ。
「二度と出られない、という見え透いた嘘を流してでもうちに依頼したのは、なぜ?」
ここで和俊さんは、都合が悪そうにゆっくりと座った。
「だって内情を知っているんでしょう? 知っているのに、調査してほしい? 今聞いている限りじゃあ、全然意図が見えてこないなー?」
和俊さんは視線を落として体を震わせている。
「いやあ、今日来てもらってよかった。おかげで、本当に大事なことを聞けないところでしたよ」
「……わ、私は最初から、来る気じゃ」
「和俊さん。お言葉ですがね。あなたは秘密を守るにはあまりにも感情的すぎた。私の送った、『佐々木家を取り壊させていただきます』っていう嘘のメールにも、わざわざ顔を見せに行かずに適当な返信で済ませていればよかったんだ。なあ和俊さん」
「ふう……ふう……」
和俊さんはゆっくりと呼吸を繰り返していた。
「まさか実際にやってきたのが若い男女二人だなんて、想像だにしてませんでしたよね?」
その瞬間、血の気が引いた。にやにやとしたままの瀬古さん。その口ぶりから察するに、和俊さんはよくない意図を持ってあの家に誘き寄せたのではないのか。
「天ちゃん」
「ん!?」
突然呼ばれて天がびくついた。いつのまにかアイスの棒を咥えている。
「昨日、槙君はどうやって連れ去られたんだっけ?」
……昨日?
連れ去られた?俺が?
「……中身を連れていかれた。近衛さんの身体は眠っていたけど」
「……どういうこと?中身?」
「魂を抜かれたってことさ」
瀬古さんは立ち上がって自分の仕事机に向かう。
「ところで、さっき行方不明になった人はいないと言ったけれど、こんな話もある」
引き戸を開けて何枚かの書類を出した。
「ここ数年。総合病院に植物人間状態で入院しているホームレスが多くて困っている、って知り合いの看護婦が言ってたなあ」
遠くて見えにくいが、紙には様々な人の顔写真とプロフィールと思われる文章の羅列が見えた。
「……餌付けか?」
瀬古さんがぼそりと呟いた途端、和俊さんが突然立ち上がって詰め寄った。
「キサマ……ッ!」
「おっと」
襟を掴まされそうになったところを華麗に躱した。
「ほとんど正解、かな」
和俊さんは息を荒げていた。肩を上下させながら瀬古さんに今にも襲い掛かろうとしている。
「貴様に、貴様に私たちの何がわかるっていうんだぁ!?」
「ちょっと……!」
拳を振り上げる和俊さん。咄嗟に彼を止めようとソファを立ったが、天の方が早かった。鞘に収まったままの刀で足を払い、バランスを崩させる。
「ぐおっ……!」
ドタンと大きな音を立てて転んだ。同時に床に散らばったままだった書類が宙を舞う。
天は和俊さんのうなじに、鞘を押し付けた。
「ダメ。ダメです」
とても冷静だった。まるでこうなることがわかっていたみたいだ。そしていつでも止められるように事前に準備していたかのようだった。
「瀬古さんも。あまり煽るようなことを言ったら……」
「僕はセコいからね。知ってるだろう? 結果として簡単に吐いてくれたじゃないか」
抑えられている和俊さんに近づき、しゃがみ込む。
「残念でしたね佐々木さん。釣れたのが僕じゃなくて」
「……」
それを聞いて和俊さんは脱力した。
「槙君。何が起こってるかわからないだろうから、説明しとくとね」
「瀬古さん、待ってください」
何かを話そうとしたところを遮らせてもらった。きっと彼らの狙いを説明しようとしてくれたんだろうけど、なんとなくわかってしまった。
「瑠璃ちゃんは、家族を求めていた。一緒に遊んでくれる家族を」
あの部屋で瑠璃ちゃんと遊んだ記憶が蘇る。
「何人も何人も人を眠らせて、夢の中でずっと家族として振る舞わせてきた。でも瑠璃ちゃんはその家族を捨ててはまた新しい家族を迎える。だって、結局は本当の家族じゃないから。だから飽きたら捨てて入れ替える。人形遊びみたいに」
あのとき俺と天を襲った腕の大群。
「あの腕はきっと、今までの囚われた人たちだ」
瀬古さんは少しだけ驚いた顔をしていた。気にせずに続ける。
「和俊さん。あなたは瑠璃ちゃんのために、今まで何人もの人を犠牲にしてきた。そしてわざわざこの事務所を狙ったのは、瀬古さんを犠牲にするためですか?」
「……その通り、です」
震え声での返答。
「この、お話屋のことは知っていました。噂話の元となっている場所を探しては笑い話として売って、金を稼ぐと。そんなことに姉を巻き込みたくはなかった。だから、この人を」
天はジト目で瀬古さんを睨んだ。敵を作りすぎだ、と言っているようだ。
「瑠璃ちゃんの幸せのために、ですか」
返答はない。代わりに拍手の音が響いた。
「よくこの仕組みに気づいたね。観察眼だけでなく、推理力もある。逸材じゃないか槙君!」
「瀬古さんは黙っててください」
「え、あ、はい」
和俊さんの元に歩いていく。自然と床を踏む力が強くなっていて、どたどたと音が鳴った。瀬古さんと天はつい和俊さんから離れる。
「本当にそれで、瑠璃ちゃんが幸せだと? 本気で思っているんですか? あの家族の在り方が歪んだものであるとわかっていたあなたが、本当にそれでいいと思っていたんですか?」
「……」
「それ以外にもできることはあるはずだって、考えなかったんですか!?」
「考えたさ何度も何度も!」
怒声。色んな感情が混じりに混じっていた。
「でも姉さんは、そういうことでしか笑顔になれないんだよ! 私の、唯一の家族は、そうなることしかできなかったんだ! だから今更、私の願ったような幸せは、姉さんには永遠に来ないんだ! それなら、姉さんには、姉さんだけの幸せを……」
「ふざけるなよ!」
「……」
沈黙が訪れる。
「……思い出した。俺は、瑠璃ちゃんの見てきた世界を、見たんだ」
忘れていた夢が。信じたくなかった事実が脳内で蘇っていく。
「痛みしか、なかったんだ。瑠璃ちゃんは、自分を痛めつけることでしか笑えていなかった。こんなこと間違ってる。和俊さん自身もわかってたはずですよね。間違ってるって知っていたはずですよね。知っていたのに」
これはきっと、この人にとっての禁句だ。今までひた隠しにしてきた本当の気持ちを、暴いてしまうだろう。でも、これを明らかにしないわけにはいかない。
「どうして、同じ目に合わせつづけるんですか」
「……うるさい」
和俊さんがゆっくりと立ち上がる。
「うるさいうるさいうるさい!」
俺のすぐ目の前で腕を振り上げる。しかし瀬古さんがそれを食い止めた。
「そこまでだ、槙君。君の言うことは感情的には正しいが、同時に間違ってもいる。主観的に物事を捉えすぎだ。仮に記者ならもっと客観的視点を持ちなさい。死んだ人間が変わることはないんだよ。変わって成長できるのは生きた人だけ。だから君の思う幸せで彼女を救うことはできない」
「はあ……? でも」
「いいか槙君。こういった怪談はね、もう終わった話なんだよ。覆しようがないんだ。その話の当事者も含めて、改竄することはできない」
奥で天が視線を落としている。瀬古さんの話に何か思うところがあるのかもしれない。
「だから、この話は終わりだ。彼にはきちんとした処罰を受けてもらおう。犠牲になった人々との関係性を洗い出して警察に突き出せば、それでこの依頼は満了だ。全く、本当に金にならない話だった」
「終わってない」
「だから槙君……え?」
「まだ、終わってないんだよ」
その場にいる誰もが俺の顔を見て目を丸くしている。
目から涙が流れていることに、俺は気づいていなかった。
思い出した、夢の続き。
俺は君の家族じゃない。そういって、彼女を否定してしまったとき。
「……そうだよね」
と、寂しそうな声が聞こえた。
気づいたら、彼女のいた部屋は遠ざかっていた。
ほっとけなくて追いかける。でも、距離は縮まらない。
少女はあの部屋の中で一人残っていた。
そして表情が辛うじて見えるギリギリのところで。
「私はもう、ダメだよね」
と、一言言い残したんだ。
その顔は、あまりにも。
俺がこんなに感情的になったのは、君のその顔があまりにも。
羨ましそうに、見えたからだ。