第1話
数年間寝かせていた、というより腐らせていた作品でございます。作者の年齢も当然積み重なっておりますので、微妙に文体がこの先違ってしまう可能性や、展開の撞着が考えられますので、鋭意努力して整合性を保ちつつ、作品として面白いものにできるよう奮励努力して参ります。
正直なところ完結させるには骨身を惜しまぬ必要がありますので、これまで投稿を躊躇していましたが、ある程度見切り発車であっても自らを追い込まねばならぬと思い公開の運びとなりました。長い目で見ていただけますと幸いです。感想もあれば嬉しいです。
俺は何故、強さを求めたのだったか。
「それは、大切なものを守るためであろう?」
大切なもの? 大切なものとはなんだったか。
「己の誇り、兄弟同然の仲間、そして何より愛する人。そんな事も忘れてしまったというのか?」
そう、だったな。じゃあ、この胸に渦巻くものは何だ?
「一言で言えば喪失感だろう。全てを喪ったのだから当然といえば当然だ」
喪った? どうして? 何があった?
「お前は負けたのだよ。守り切るだけの強さが無かった。ただそれだけの話だ」
何が足りなかったのか、何故、欲していただけの強さに届かなかったのか。もはやわからない。
この胸に在るのは、後悔や哀しみすら超えた虚無のような、それでいて確かに存在を主張する『穴』のみ。
「お前が何を思おうと結果は変わらん。ともあれ、お前は暫くの眠りにつくだろう。
例え記憶を失っても、その思いだけは胸に留めておけ。その重みを決して忘れるな」
俺の旅はここで一度の幕を下ろす。しかしそれでもこの『穴』だけでなく、小さくも確かに燃ゆる心の、意志の炎が絶えることなく誰かに、あるいは、来世というものがあるならば、未来の自らが継いでくれることを願いつつ……。
「ふむ、それでは哀しき黒騎士よ、良き旅を」
*
「うっ…眩しいな…」
俺が目覚めてまず最初に見たものは、雲ひとつない空と照りつけるような日の光だった。
「どこだ、ここは? 森の中か? いや、それよりも喉が渇いたな」
身体の感覚がはっきりしてきて、まず最初に気が付いたのは、身体が酷く渇いていることだった。
そんな俺に聞こえたのは、奇しくも小川のせせらぎ。もはや思考が介在したかどうかすら怪しいほどの勢いで、腹が膨れるほどに水を飲んだ。側から見れば、一瞬溺れていると見紛うほどだ。
「ぷはっ」
一息ついた俺は、強張った身体をほぐすように首を回し、一息ついたところで周囲を見渡してみる。すると、小川の向こう岸から焦ったように何かを叫びながら走って来る男が目に入った。
「お嬢様ー! どこに行かれたのですかー! ……おお、丁度良いところに。そこの御仁、ここら辺で女の子を見かけませんでしたかな?」
男は上品に口髭を蓄えた初老の男性だった。だが、相当慌てているらしく、その額には脂汗が滲んでいる。何はともあれ、俺はその女の子とやらに覚えはない。
「慌ててるところを悪いが、俺は見てないぞ」
変だな。何がといえば俺の声がだ。そう、声が高いのだ。まるで子供だ。違和感どころの騒ぎではない。
「おや?よく見たらお前さん子供じゃないか。こんなところで何をしとる?」
自分が子供であるとは全く考えていない俺は、半ば反射的に言い返す。
「爺さん、冗談キツイぜ。俺がガキ?」
己が思考に反して、声が完全に子供そのものだ。
爺さんに反駁しようとして、俺は余計に自分がガキではなく、自分が分別ある大人であることに自信が持てなくなった。
というより、それ以前の問題として、小川に写っている自分の姿が爺さんの言っていることが正しいことを完膚なきまでに証明していた。
「嘘だろ!? だって俺は……あれ?」
唐突に圧倒的な違和感の正体が頭の中で明らかになる。己が己であることの証明とも言えるものが、記憶がないのだ。自分が誰で、何故ここにいるのか、何をしていたのか。全てが思い出せないのだ。
にもかかわらず、自分がこの姿であることに自己と現実の剥離を感じるという状況に陥り、俺は軽くパニックになった。
「あれ…? 待てよ…俺は一体?」
「どうした? 小僧。何処か具合が悪いのか? お前さん名前は?」
「名前…デニ…ス。そうだ……デニスだ。俺の名はデニスだ」
神の気まぐれか、不思議なことに名前だけは覚えており、それを思い出した途端に気分が楽になった。俺はデニス、という名前への安心感が故かもしれない。
と、そんなことよりも、この爺さんは人を探していたのではなかったか?
「おい爺さん、俺のことよりもその女の子とやらを放ったらかしにしててもいいのか?」
「ハッ! しまった、ウッカリしておった。おい小僧。お前さんもお嬢様を探すのを手伝うのじゃ、お嬢様がもし竜にでも見つかったら……こうはしておられん!! 急ぐぞ小僧!」
いつのまにか俺のことを小僧呼ばわりしていることはとりあえず置いておこう。
それよりもだ。竜だと?今ひとつ要領を得ないが、なにやら不吉な予感がするのは確かだ。
ともかく、俺はこの近辺にそのお嬢様とやらがいないか探ろうと、先ほどよりもより注意深く辺りを見回す。すると、なんだか世界がぼやけていて、しかし鮮明に見えるという不思議な感覚に陥った。だというのに、その感覚には既視感がある。と、そんなことよりもだ、これは何というか……
「……奥だ。この小川の上流、森の奥から人の気配がする。それと……森全体に嫌な空気がするな、ひりつくような感じだ」
「ううむ、ではなおのこと急がねばなるまい」
そう言うや否や、爺さんは俺が指差した方向に走り出す。
慌てて俺はそれを追うが、爺さんが速いのか、俺が遅いのか、なかなか追いつけない。
「爺さん、足速いな」
「今はそんなことを言っている暇はないぞ。それはそうとその気配とやらはどこじゃ?遠いのか?」
「いや、もうすぐだ」
その時、空から“何か”の咆哮が響き渡った。
「なんだ?」
俺の勘があれは危険だと告げている。
「ッッ! あれはいかん! 竜じゃ! ぬぅ・・・しかもかなりデカイぞい」
嫌な予感は当たったようだ。笑えないことに、その竜とやらは、お嬢様と思しき気配に突っ込んでいく。
このままでは到底間に合わない。すぐにでも駆けつけたいのに、距離は、現実は無情だ。
「クッ、間に合わんか……?」
「お嬢様……!」
爺さんの悲痛な声がよぎる。
祈るような気持ちで走り続け、なんとかお嬢様を目で捉えた瞬間、今にも竜がその暴虐とも言える巨大な口を広げ、その竜にとっては餌ともいえないような少女を喰らわんとしていた。
このままでは間違いなく少女は死ぬ。そう思った途端、俺の頭の中で何かが弾けた。
残像を残す勢いで距離を詰め、そのままの勢いでお嬢様を掻っ攫う。あまりの勢いのために、俺はその少女を地面に打ち付けないようにするので精一杯だった。そのために体のあちらこちらが痛むが、今は泣き言を言っている場合ではない。
「オイ! お嬢様はもう大丈夫だ! 気絶はしてるが、怪我はない。とっとと逃げるぞ!」
だが、現実はそんなに甘くは無いようだった。
「グォォォォォォォォォォォォ!!」
自分の獲物を横取りされたと感じたのだろう。竜は怒りの形相で、辺りが揺れているかのような咆哮を轟かせながら俺に迫って来た。
「やらせはせんぞ! このワシの目の黒いうちはな!」
そう言って爺さんは、どこから取り出したのか、巨大な戦鎚を振りかざして竜に踊りかかった。
突然の一撃に竜は対応できず、まともに打撃を顔面に喰らい、大きく仰け反る。その隙を逃さず、俺は少女を抱えたまま全速力で逃げ出した。
「ここはワシが抑える! さっさと行け!」
言われなくともそうするに決まってる、と心の中で毒づきながら、俺は懸命に走り続ける。その間にも、激しい闘いの音が容易に聴こえてとれた。
「グハッ……しまった!」
振り上げられた竜の頭に戦鎚ごと弾かれ、爺さんが宙を舞う。そのまま地にしたたか打ち付けられた彼は、気を失ったのか、動きだす様子は無い。
それを一瞥した竜は興味を失ったのか、とどめを刺すような素振りも見せずにこちらに向かって一つ唸ると、嗜虐的な視線を俺たちに向け、獲物の最期を確信したのだろう、ゆっくりとこちらに迫って来た。
むしろその歩みが猛烈な威圧感を放っており、本来のその竜の大きさ以上の迫力を醸し出している。どうにかできるとは考えにくい。はっきり言って、2人とも喰われる運命がすぐ側で舌なめずりをしているかの如くだ。爺さんの援軍も直ぐには期待できない。
「う、ん……あれ? 誰あなた」
素晴らしいまでに空気を読まない、というよりは、空気を弛緩させる発言の主こそ誰だ? と言いたいところだが……眠れる姫(?)のお目覚めと言ったところか。
「今はそんなことよりも……アレをどうするか考えろ」
そう言われてやっと気がついたのだろう、竜を見て、
「あ……竜……逃げなきゃ」
「もっと驚くと思ったら、なかなかどうして落ち着いてるじゃないか」
「あわわわわわッ」
動揺しすぎただけだったか。
「ともかく、お前も自分で走れ。その方が速い」
そう言って彼女を下ろし、その手を引きながら走る。だが、勝手の知らない森の中を駆けて行くのは容易ではなく、明らかに竜に追い込まれている。逃げていると言っても姑息な時間稼ぎでしかない。
案の定というべきか、行き止まりに追い込まれた。竜の体高よりは高そうな崖はおよそ4〜5mといった具合だ。すぐさまに登れるかといえば、俺は可能だが、少女には無理だろう。まさに万事窮すだ。だというのにもかかわらず、酷く落ち着いている自分がいる。まるで慣れているかのようだ。もっと言えば、こんな危機は取るに足りんものであると言わんばかりの冷静さだ。とはいえ、竜はすぐそこまで来ている。
件の竜はといえば、相変わらずこちらの反応を愉しんでいるかのようにゆったりと迫って来る。だがしかし、恐怖を示さない俺の反応が不快だったのだろう。明らかに苛ついた仕草を見せ、更に深い恐怖を与えるべく、凄まじいまでの咆哮を放ちながら俺を睨み下ろしてくる。
俺は少女を背後に隠すと、頰を伝う汗を拭いながらヤツと睨み合う。と、何か別の光景がちらついた気がした。それは俺の意識より下の、言うなれば記憶の残滓と言えるようなものだったのかもしれない。だがそんなことに気を取られている余裕はなかった。それは竜が故ではない。俺の底に突如として滾る沸々とした怒り、俺も何故抱いているのかわからない憎悪に意識を持っていかれそうになっていたからだ。
「ハァァ……ァァ」
低く唸る俺の雰囲気は先程から一変していた。竜はあくまでただの引き金にすぎなかったのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
「ど、どうかしたの?」
少女が話しかけてくるが、そんなものは俺の意識にまでは上がってこない。
竜も俺のなにかが変わった、あるいはスイッチが入ったことに気がついたのだろう。少しばかり距離をとってこちらを窺っている。
「失せろ、竜。さもなくば、斬る」
斬る?今、斬ると言ったのか?俺は。どうも先程から変だ。攻撃衝動が俺の内で渦巻いているのがわかる。
だが、竜はそんな俺の態度を見て腹に据えかねたらしい。ついに襲いかかって来た。その凶悪な牙が俺と少女に届かんばかりとなった時、俺は右手を閃かせていた。
それは竜の鱗を僅かに傷つけただけに過ぎない。しかし竜自身にとっては、矮小な獲物に過ぎない存在に傷をつけられたのは耐え難いことであり、同時に怒りで周りへの注意が欠けた、致命的な隙となった。
「覚悟ォォオオオオオオオオオオ!!!」
接近する爺さんの存在に気づけなかった竜は、弱点である頸椎を叩き折られ、そのまま地に沈んだ。
先程と違い、その戦鎚は紅く輝いていた。見たところ、一撃の重さも格段に上昇しているのであろうことはわかる。だが、それがどの様な原理なのかは全くわからない。
「お嬢様、ご無事ですか?!」
「うん……ごめんなさい……ちょっとチノのために薬草を採ろうと思って」
「それはいいのですが、お一人で森に入るのはおやめくださいと、あれほど言ったではありませんか」
「本当にごめんなさい」
この少女は知り合いのために薬草を採りに来たということか。……全く人騒がせな。
「小僧、デニスと言ったな。よくぞお嬢様を庇い、時間を稼いでくれた。おかけで間に合った。礼を言う」
「いや、いいんだ。そんなことよりも、爺さんは怪我も酷いし、早くこの森を抜けた方がいいと思うんだが、もしよければ俺も拠点に連れて行ってくれないか?」
「ああ、構わんぞ。よし、お互い怪我の手当てもせにゃならんし、急ぐとしよう。少し距離があるからな、ちゃんと着いてくるんじゃぞ」
「全く、あれだけやられたのに元気そうだな?」
「当たり前じゃ。鍛え方が違うわい」
その後、特に問題なくデニス達は森を抜けたのだった。
*
案内されたのは、ひらけた平原にある屋敷だった。
場所が場所だからだろうか、屋敷は周りを頑丈そうな塀で囲まれている。広さもそれなりであり、裕福な貴族や豪族の別荘といった印象を受ける。
当の屋敷の住人たちは、行方が分からなくなっていた少女と爺さんが怪我をして帰って来たせいで、上を下への大騒ぎだった。当然の流れとしてその2人(と俺)は、屋敷に担ぎ込まれて治療を受けている。
「お嬢様、あれほど一人で森に行ってはいけませんと申し上げたではありませんか!」
「で、でもそれは…」
「それはもう聞きました。ですから幾度もは言いませんが、このようなことは二度と無いようにお願いしますぞ。またこのようなことがあっては洒落ではすみませんからな」
「でもその時は、またフセ爺が守ってくれるでしょ? それに貴方も」
何故俺にお鉢が回ってくるのだろうか? というよりも、この爺さんはフセというのか。そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。この厚かましいガキのそれも。
「俺は嬢ちゃんの護衛じゃないぞ。そういうのは他に頼め」
「嬢ちゃんって……貴方も私と対して変わらないじゃない。それに、私にはレリアという名前があるのよ! だからちゃんと名前で呼んでちょうだい」
「はいはい」
「返事は一回!」
「へい」
「あら、それはいいのかしら?」
変なことで悩み始めたアホは放っておくとして、今後どうするか。それが問題だ。
「小僧、まだ確認していなかったが、お前の家はどこの集落じゃ? ここら辺に村はないが」
こちらが聞きたい、と言いたいところだが、実際問題として住処というのは切実な問題だ。ここは正直に答えておくべきか。
「今、ちょっと色々あって身寄りがないんだ」
「そうじゃったか……」
何を勘違いしたか、爺さんが気の毒そうに目を伏せる。いや、現状だけを見れば爺さんの反応は間違っていない。むしろ、俺の落ち着きがおかしいのだ。
「ということで、だ。レリア嬢ちゃんを助けたお礼って事で、少しの間ここに居候させてくれないか?」
「そういうことなら、空いている部屋がいくつかあるから好きに使うが良い。それはそうと、お前は《命火》を扱えるのか? 竜に斬りかかったように見えたのじゃが」
「《命火》?なんだそれは?」
「知らんのか? まあ、お主の年齢や境遇を考えれば無理もないかのう? 《命火》というのは、異能の発現に欠かせぬもの。いわば力の源泉じゃ」
「異能?」
「それこそ星の数のようにあるが、簡単に言うと、何もないところで火を起こしたり、体を強靭にしたりといった、基本的な人としての性能とは別のもののことじゃよ」
「ということは、爺さんが戦鎚をどっかから出したり、紅い光を繕っていたのは、その異能ということか?」
「うむ。その理解で大丈夫じゃぞ」
俺が竜に傷をつけたのもそれだったということか。
「それに、《命火》は生物に元来あるものじゃからのう。教えられんでも勘のいい奴なら扱える奴もおるし、先程のように追い詰められた時にその力を攻撃的な異能として発現する場合もある」
「なるほどな」
と、会話ができるのも、治療系統の異能を得意とする、ここの屋敷のお抱えの医師による治療を受けていたからだ。ただ単に包帯を巻いたり縫ったりするのとでは全く違う。なにせ、怪我に対して自然治癒を目的とした処置をするのではなく、怪我そのものを治してしまうのだ。
「これで大丈夫だろうが、あまり無理をなさらぬよう。死んでは治しようが無いですからな」
「うむ。心配をかけて申し訳無かったな」
「感謝する。ありがとう」
俺とフセ爺の礼に軽くうなずくと、その医師は消毒液などの入った箱を持って部屋から去っていった。
「レリア嬢は怪我がなくてよかったな。それで、目的の薬草は手に入ったのか?」
俺が尋ねると、レリアは少し決まり悪そうに目を逸らすと、消え入るような声で、
「うん、でも少ししか見つけられなかったの」
とだけ言った。
「その薬草は、誰のための、どんなものなんだ?」
俺は、この問いに対して「風邪に効く〜」などと答えてきたら、ひとつ怒鳴ってやろうと考えていたが、その実、そのような優しいものでもなかった。
「それについては、ワシから説明しよう。実は、レリアお嬢様のチノという乳母が、森で川の水を飲んだ時、たまたまその中に竜の死骸による毒が含まれておってな、それ以来ずっと意識が朦朧としたまま床に伏せっておるのじゃ。これが厄介でな、その毒には人の五臓六腑の働きを妨げる成分が多く含まれているのじゃ。それだけならまだいいのじゃが、加えて《命火》を弱める効能もあってな、酷く衰弱してしまうのじゃ」
「さっきの医師には治せないのか? 異能があるだろう」
「あの毒は自力で排出するしかないのじゃ。治しても、治したそばからまた悪くなっていく。ただのいたちごっこなんじゃよ。まあ、それでもやらないよりはマシじゃから、定期的に医師が看とるがのう」
「その薬草があれば完治するのか?」
「その薬草、フェクティと言うんじゃが、それには《命火》を滾らせる効果があってのう、毒を排出しようとする体を強力に助けるんじゃ」
「それなら、どこかで買うなり貰うなりするのが普通だろ?なんでわざわざ?」
「フェクティは貴重でな、大きな街でも探すのは骨が折れる。今、何人か街にやって探させているんじゃが、もう5日は帰ってこん。その間にもチノの容態は悪化しておるしのう。察してくれると助かる」
そういうことなら同情できる。やっていいかどうかはまた別問題だがな。
「それで、見つけた量では足らないんだろう? どうだい、爺さん、明日2人で森に探しにいくってのは」
「うむ、ワシもそうしようかと思っていたところじゃ」
そのタイミングでレリアとデニスの腹が鳴ったのはご愛嬌である。
*
食事を済ませた後、フセ爺は明日のために戦鎚の手入れをしていた。
「こうやっていると、旦那様と共に戦場を駆けていた頃を思い出すわい。それにしても、今日は本当に肝を冷やしてしまったというものじゃ。全く、お嬢様のお転婆には困ったものじゃ。しかし、お嬢様も実に哀れじゃなあ。セギス一族に生まれていなければ今とはもっと違っていただろうに」
フセ爺は本気でレリアのことを案じていた。故に一連の流れによる心労はかなりのものがあった。
「しかしじゃ、あのデニスとかいう小僧は一体何者なのかのう?竜と正面から対峙して怯えぬあの胆力は普通ではない。かといって、そう圧倒的な強さを誇るというわけでもなく、一応《命火》を燃やしてその身に繕うことはかろうじてできるようじゃが……」
赤髪銀眼の、謎の多い少年デニス。
「なんにせよ、明日見極めるとするかの」
そう言って油を注し、丁寧に磨いた戦鎚を異能によって空間陣の中にしまったフセ爺は、おもむろに立ち上がると、チノの眠っている部屋に向かった。
カチャリと、戸を開けて部屋に入ると、ベッドのそばにレリアが座っていた。
「お嬢様もこちらにいらっしゃっていたのですか。そろそろ時間も遅いですし、早めにお休みにならないと、明日に差し支えますぞ」
「うん。でも、チノが目を覚ました時に、周りに誰もいなかったら寂しいでしょ?」
「どういうことですかな?」
「さっき先生が、チノにフェクティの煮汁を注射したの。それでしばらくすれば目が醒めるまでは回復するかもしれないって」
「そうでしたか」
フセ爺はそれ以上のことを何も言わない。母を早くに亡くしたレリアにとってチノは母親のような存在だった。レリアはまだ幼く、気丈に振る舞ってはいるものの、フセ爺の目には、やせ我慢であることがよくわかった。
実際、ここ最近のレリアは冷静とは言い難かった。特に今日の事件は、とあるレリアの体質を考えれば暴挙といっても過言ではないのである。
今は、一刻も早く十分量のフェクティが早急に手に入るのを待つしかなかった。
「それではお嬢様、そろそろ寝室にお戻りください」
「うん。じゃあね、おやすみチノ」
*
その頃俺は、一人で考えていた。
憶えていることと、そうでないこと。それを知ることは今の「デニス」にとって必要不可欠なものであることは言うまでもない。
結論として、俺が記憶していないことは、自らの交友関係や過去といったものであり、知識などは全てでは無いものの残っていた。
なぜ全てではないと気づいたかというと、そういった部分に欠落しているが故の空洞を感じるのだ。例えば、先の闘いで《命火》を右手に繕ったことには既視感があった。つまり、俺は以前にも同じようなことをしたことがあるのだろう。しかし、今回のそれは稚拙なものだと感じた。何処がと説明できるわけでは無いが、明確な違和感を感じたのだ。それは、俺が劣化していることの証左に他ならない。だがしかし、焦ってはいなかった。
「そのうちに思い出すだろう。それよりも目先のことをどうにかしないとダメだな」
俺のこの無頓着さが元々なのかどうか知る術は無いが、実際に今そうであることは僥倖だと言える。なぜならば、幸か不幸か俺の体が今子供のそれであり、記憶もなくしているという、普通であれば取り乱すような状況だからだ。そもそも状況が普通ではないが、そこに関しては四の五の言っても仕方がない。
「さて、何をするべきか、それが問題な訳だが……これからの展望が全く見えん。それはそれで面白いが、いつまでも居候するわけにはいかないしな」
何はともあれ、明日の予定は決まっている。俺は一人で深く考えても意味がないと考え、そうするのをやめた。
「寝るか……」
静かに、そして確実に俺の“旅”が始まった日だった。俺が意識していたかは別にして……。
文学作品と言ってしまえる程の格式高い作品というよりはエンターテイメント性の高い作品にするため、表現等もそれを踏まえたものになっています。というかつもりです。