第1話 結びの一族の少年
一九八九年、四月中旬。
「壮太郎! 今日こそは学校に行くわよ!!」
朝食後。二階の廊下で仁王立ちした姉の琴子に、壮太郎は心底苦い顔をする。
「姉さん。僕は学校に行かないって言ったじゃないか」
「小学校に入学したばかりなのに、不登校になっていいと思っているの!?」
「だって、学校なんて面白くないし、あんな人達と一緒にいたくない。それに、父さんも母さんも、じいちゃんも許してくれているんだよ? 学校なんかに行かなくても、僕は」
「あんたは人間なの! 人と一緒に生きられるように、学校で学びなさい!」
姉が壮太郎を捕まえようと手を伸ばす。
壮太郎は姉の手を躱し、自分の部屋へ入る。机の上に置いていたお守り付きの猫のキーホルダーを手に取り、部屋の窓を開けた。
「壮!」
姉の声を背に、壮太郎は窓の外へ飛び降りる。
「唐獅子!」
壮太郎の呼び声に猫のキーホルダーが光りを放ち、豊かな巻き毛を持つ中型犬サイズの獅子の霊獣が姿を現す。
唐獅子は壮太郎を背中に乗せて宙に浮かぶ。
「壮太郎! 待ちなさい!!」
「嫌だよ。人間じゃないモノ達と一緒にいた方が楽しいもん」
姉が何か叫んでいたが、壮太郎は無視する。
御守りを握り、姿を消した壮太郎は、唐獅子と一緒に家の外へと飛び出した。
学校や会社へ向かう人達の脇を、唐獅子に乗った壮太郎が通り過ぎる。
御守りは姿を消してくれる効果がある為、壮太郎と唐獅子の姿は人の目には映らない。
背の高いブロック塀の上を歩く唐獅子を見つけた小さな女の子が『猫ちゃん!』と声を上げる。
女の子の体はフワフワと宙に浮いている。女の子の後ろには宙に浮いた大人二人が遠巻きに壮太郎達を見ていた。
『猫ちゃん。可愛い。触っていい?』
女の子は壮太郎の周りをクルクル回る。壮太郎は女の子をチラリと見て、首を横に振った。
「駄目だよ。君が触ったら壊れちゃうから」
壮太郎に拒否された女の子はキョトンと首を傾げる。女の子は唐獅子を見てニコリと笑う。
『猫ちゃん。可愛い。欲しいな。猫ちゃん猫ちゃん猫ちゃん猫ちゃん』
女の子は壊れたラジオのようにノイズ混じりの呟きを繰り返す。
女の子の額からゆっくりと赤い血が流れ、目が真っ黒に変化する。
『美味しそう゛ぅっ。食ベダイィイ』
血に濡れた手を唐獅子へと伸ばし、女の子は自分の頭からはみ出る程に大きくなった口をパカリと開けた。
女の子の手が触れようとした時、唐獅子の体から放たれた金色の光が女の子の指先へ流れ込む。女の子の体が風船のように膨らみ、音を立てて破裂した。
「だから言ったのに。壊れちゃうよって」
壮太郎は女の子の断片が跡形も無く消えるのを横目でチラリと見て、視線を前に戻す。周囲に浮いていた大人二人の霊は怯えたように道を開けた。
壮太郎は『人外』を見る目を持つ一族、結人間家に生まれた。
結人間家は昔から幽霊や妖と縁が深く、人外と人の架け橋となる役割を担っていた。時に人外達から人間を守り、人間達から人外を守る。自らの信念と心の赴くままに、間の者として生きる一族。
また、妖や霊の力を借りて呪具を作り出す事が得意な一族でもあった。
壮太郎が持っている猫のキーホルダーは、唐獅子を召喚する呪具。御守りは、自分と自分に接触している者の姿を隠し、声も聞こえなくする呪具だ。
結人間家は、元は同じ家に生まれた三兄弟の内の次男によって作り出された。
結人間に連なる家として、神に愛された一族である天翔慈家、干支の加護が憑いた呪術専門の一族である鬼降魔家もある。
『坊ちゃん。着きましたよ』
唐獅子が振り向く。
着いたのは、壮太郎が最近よく遊んでいる寂れた神社だった。
手入れがされていない神社に神はおらず、代わりに霊や妖達が住み着いている。
昼間の時間帯でも薄暗い不気味な神社は、大人でも滅多に近づかない。
壮太郎は唐獅子の背から降り、古びた本殿の中央で眠る小型犬サイズの白い毛玉に声を掛ける。
「七紫尾の狐」
壮太郎の呼び声に、白い毛玉からピョコンと三角の耳が立つ。
白い毛玉が起き上がって形を変える。毛先が紫色に染まった七つの尾を揺らす妖狐が、藤色の瞳で壮太郎を見つめた。
『また来たのか。壮太郎』
「うん。学校に連れて行かれそうになったから逃げてきた」
壮太郎は格子戸に空いた大きな穴から本殿の中へ侵入する。七紫尾の狐の隣に腰掛けると、尾でポンポンと手を叩かれた。
『帰ったら叱られるのではないか? 人間にとって、学校とは大事なのだろう?』
「他の人にとってはそうかもね。僕には分からない考え方だけど」
嫌いな場所で過ごせと強制されるのは、ただの嫌がらせにしか思えない。
そんな場所に行かないと”人間としておかしい”と思われるのだから、人間という生き物は本当に理解できない。
「人生って、本当につまらない」
年齢不相応な憂い顔を浮かべ、壮太郎は呟く。
『六歳の子供が口にする言葉ではないな』
「人間の世界は六歳の子供が退屈だって思える程、つまんない世界なんだよ」
幼稚園や保育園に通わなかった壮太郎にとって、小学校は家族以外の人と初めて長い時間を過ごす場所だった。そこで、壮太郎は察してしまう。
(僕は、人の中で生きるのが難しい)
壮太郎は小学校に入学して僅か三日で家族に登校拒否を宣言した。
両親と祖父は壮太郎の意思を尊重して、相応の勉強をするのなら無理に学校に行かなくて良いと言った。四歳の妹も壮太郎と一緒に遊べる時間が減らずに済む事を喜んだ。しかし、五歳年上の姉だけは頑なに壮太郎を学校へ連れて行こうとする。
『お前が望むのなら、妖の世界へ来るか?』
「どういう事?」
『妖に近い存在、”狭間者”になるのだ。狭間者になれば、人の理から外れ、人より長い時を生き、妖の力を手に入れる。ただ、お前は結人間としての力を失い、今まで手にしてきた人間との縁は切れてしまうがな』
「……”結人間壮太郎”を消して、違う存在になるって事?」
『そうだ。お前自身は人間の時の記憶は残るが、お前と関わっていた人間は、お前の記憶が根こそぎ消える。縁が切れてしまうと、もう二度と会えなくなる。……まあ、例外もあるがな』
壮太郎は少し考えた後、静かに首を横に振った。
「まだいいや」
”いつか頼む”という意味が含まれた言葉に、七紫尾の狐はニタリと笑う。
『ああ、気が向いたらいつでも言え。歓迎するぞ』
「うん。ありがとう」
『壮太郎。遊ぼう』
『隠れ鬼しよう』
集まってきた妖達が壮太郎に声を掛ける。壮太郎は妖達と仲良く一緒に遊んだ。
***
「壮太郎の大馬鹿者ぉ!!」
唐獅子に乗って逃げた弟の背中に、琴子は叫ぶ。
琴子の力では弟を捕まえる事は出来ない。五歳年下だが、弟は呪術の才能も知恵も琴子よりも優れているのだ。
弟を捕まえて学校に引っ張って行こうと、罠を仕掛けたり、正面から挑んでいるが、簡単に躱されてしまう。
「また逃げられたのかい?」
階段を登って二階にやって来た祖父は苦笑する。
「お祖父様! 何で壮太郎に学校に行かなくていいと言ったのですか!? 人間の世界で生きる為にも学校で学ばせないといけないのに! 壮太郎は妖に近すぎます! これ以上、妖に近づけたら、連れて行かれるかもしれないでしょう!?」
琴子は行き場のない苛立ちと恐れを祖父にぶつける。
結人間は人外に関わる一族。
特に壮太郎は妖と仲が良く、一緒にいる事が多い。
種族が違えば、理が違う。妖は悪意なく人間を害する事がある。故に、気をつけて接さなければならない。
しかし、壮太郎は彼らを怖がる事もなく、人間より心を許している。
壮太郎は家族以外の人間には一線を引いて、冷めた目を向けていた。
(いつか人間を辞めて、あの子は家族の元から離れて行ってしまうかもしれない)
家族の存在だけでは、壮太郎を人間として繋ぎ止める事が出来ないかもしれない。
力と才能という巨大な翼を持っている壮太郎を人の世に留めておくには、重りとなるモノがたくさん必要なのだ。
「人間だろうが、妖だろうが、壮太郎が家族だという事に変わりはないだろう?」
「お祖父様!?」
琴子は目を見開く。祖父は優しい微笑みを浮かべた。
「壮太郎を信じなさい。あの子は、自分が生きる道をちゃんと選べるよ」