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あなたに絶望と希望を

作者: 麒麟冷やっこ

 やややに捧ぐ

 僕の父親が不倫したらしい。

 いや、正確には、母ではない女と一緒に、ラブホ街を歩いている僕の父親を見たというのを友達から聞いた。

 少し曇った日、いつもと同じように気だるく足を進めて登校したとき、僕と下駄箱で会った友達の雲春は、僕の顔を見るなり震えた声で言ったのだ。


「お、お前の親父、不倫してたぞ」

 

 なんで僕に言うのか。

 友達の父親が不倫してるのを見て、それを直接友達に言うか?

 そんな無神経な雲春も、僕の気持ちを考えての報告をしたつもりだったらしい。


「多分俺、言わなくても顔に出てバレると思ったから」


 あなたの父親不倫してますよって顔に出るとはどういうことなのだろうか。でもそれが、雲春なりの気遣いなのだろう。僕には全く理解できない。


 それはともかく、この時の僕にはまだ、雲春の頭のねじを心配するほどの余裕があったと言える。いつも家族のために夜遅くまで働いてくれている父親が、不倫するわけがないと思っていたのだろう。もしかしたら、そう思い込みたかっただけかもしれないけれど。


 そんな思いが覆ったのは、次の日の夜だった。


「大事な話があるから、リビングに来て」 


 突然自室から呼び出されリビングに来ると、父と母が食卓の椅子に二人並んで座っていて、その正面に座らされた。母はいつものふんわりした雰囲気がなく、父は、とてもうなだれていた。普段とは違う、その異様な空気に触れたとき、「あっ、今から大事な話をするんだな」と思ったが、それは決して楽しい話ではなさそうだった。


 自分から話を切り出すわけにもいかずに、五分か、十分か、それ以上にも感じる長い沈黙が続いた。

 漠然とした不安にうつむき気味になっている僕に、母が告げた。


「お父さんとお母さん、離婚するから。どっちについていきたいか決めて」


 あっさりとした声だった。でもやっぱり、いつもの優しさのこもった声ではなかった。だから僕は、信じることができなかった。耳には届いて脳に情報として伝わっているのに、理解できない。


「な、んで?」


 頭の中がグルグルしていたが、そんな言葉しかしぼりだせなかった。


 なんで離婚するの? なんで僕の受験が目の前の今なの? なんでどっちか選ばないといけないの?

 絶えず、なんで?が頭に流れる。


「お父さんがね、不倫してたの」


 そのとき僕は初めて、絶望を知った気がした。







 僕にとって父は、憧れであり、理想であり、進むべき指針だった。

 

 地元で一番の進学校から、東京の大学に進学。そして、そこそこ大きなIT企業に就職。仕事ができることと上司に気に入られたことから課長まで昇進して、部下にも信頼されている。父に世話になったという父の部下が、家に来て、一緒に太鼓の達人で遊んでくれたことを覚えている。

 家族サービスも欠かさず、幼稚園から小学校までは、週末は必ずどこかへドライブに連れて行ってくれて、長期休みには、家族旅行に出かけていた。中学生になってからは回数は減ったが、それでも、今でもたまに家族で遊園地に行く。母が専業主婦なため家事はほとんどやらないが、母が風邪をひいて寝込んでしまったときは、おろおろするしかなかった僕をフォローして、家事をてきぱきとこなしていた。父曰く、あまりうまくできなかったらしいが。

 そして、父はムキムキだ。ただ、筋肉マッチョというほどではなく、程よい細マッチョという感じのマッチョ。


 そんな父は今、僕の目の前で必死に言い訳をしていた。


 もともとそんなつもりはなかったとか、家計には手を出してないとか、一回でやめるつもりだったとか、車は使わなかっただとか。

 だけど、そんなものは全然耳に入ってこなかった。


 ただ、詭弁を垂れ流す父が見ていられなくて、ひたすらうつむいて足元を眺めていた。

 

 ああ、こんなものだったのかと。


 僕の様子を見かねた母が、


「色々混乱してるでしょうから、土曜日にまた話し合いましょう」

 

と言って、お開きになった。


「どっちついていくか、考えておいてね」


 という言葉を残して。


 そういえば今日は、木曜日だったか。


 それからのことは、よく覚えていない。気付いたら金曜日の朝になっていた。


 いつもリビングで朝食を食べてる父は、今日は、僕がリビングに行ったときにはもういなかった。

 

「ああ、お父さんなら出ていったから」


 僕の不思議そうな表情から察したのか、母は何でもないことのように言った。その言葉を聞いたとき、昨日の夜の出来事は夢だったんだという都合のいい妄想は、音を立てて崩れていった。

 それと同時に、昨日の夜にあんなに衝撃的なことを言ったのに、何事もないようにしている母が、気味が悪くて仕方がなかった。今まで母を気味悪がったことなんてなかったのに、どうしようもなく。


 結局、朝食はほとんどのどを通らず、いってきますもろくに言わずに家を出た。今は、家を離れたくて仕方がなかった。


 学校に向かう道を歩いていると、徐々に日常の感覚が戻ってきて、今まで止めていた呼吸が、また再開されたようになった気がする。昨日、一昨日と同じ道を歩いていると、昨日の夜の出来事なんてなかったかのように感じる。でも、僕の心にはずっと、引っかかり続けている。

登校してすぐ、下駄箱で会った雲春の笑顔がムカついたので、気付いたら腹パンしてしまっていた。多分僕は悪くない。

 ムカついたけれど、雲春のバカみたいな笑顔を見ていたら、少し気持ちが楽になった。

 父と一緒にいることを選んだら、こいつと離れ離れになるのかな。


「なんか今日、元気なくね?」


 確かに元気はないかも。


「大丈夫か?」


 大丈夫。半分くらい雲春のせいだから。


「俺、なんか言った?」 


 友達の父親の不倫、友達に直談判してきたじゃん。大罪だよ。


「え、あれマジだったの…」


 僕にも分からない。でも、今日ちょっと冷静になれたから、分かるようになるかもしれない。


「そ、そっか…」


 あんまり気を遣わないでほしい。気持ち悪いから。


「ひどくね」


 両親が変わって、家の空気が変わって、父のいない食卓になっても、雲春は変わらなくて。学校ももちろん、何も変わっていなかった。僕は初めて、学校をありがたく思った。


 ついに午後のホームルームが終わってしまった。三年生の九月だから、ほとんどの部活は終わってしまっている。だからみんな、早く下校する。早く家に帰って、受験勉強しているのかは知らないけれど。

 でも僕は、帰りたくなかった。そしていつの間にか、教室には僕しかいなくなっていた。もしかして雲春は、僕に気を遣って帰っていったのか。毎日ウザいくらいに下校するとき絡んでくる雲春が。


「珍しいね。どうしたの?」


 いつもは我先にと教室から出ていくのに、今日は机に突っ伏している僕を見て不思議に思ったのか、先生が僕の机の前にいた。


 珍しいっていうのは、どういう意味での珍しいなのだろうか。早く帰らないことなのか、浮かない表情をしていることなのか。

 生徒全員から大人気な市野花先生なら、あるいはその両方かもしれない。

 大人気で優しい市野花先生は、僕のことをよく気にかけてくれるのだ。


「最後まで教室残ってるし、今日は少し元気がなかったよね」


 両方の意味での、珍しいだった。僕の所属していたバドミントン部の顧問だった市野花先生には、僕が元気がないときは、毎回見抜かれていたことを思い出した。


「なんか悩んでること、あるの?」

 

 そしてこうやって、優しく聞いてくる。






 市野花先生との出会いは、不思議な出会いだった。

 僕は写真を撮るのが趣味で、その日は、少し遠出して隣町の山まで、写真を撮りに行った。

 早朝から向かって朝焼けの光景を写真に収め、さらには珍しい鳥の写真まで取れたところで帰ろうとしたら、いきなり土砂降りになってしまった。自転車で山まで来ていた僕は帰ることができず、途方に暮れていた。そんなところに、


「あの、雨宿りしますか」


なんて、突然後ろから声をかけられた。


 突然のことで驚いた僕はよろめいてしまい、滑って大惨事に。幸い転落することはなかったが、足をくじいてしまった。

 僕の声をかけてきた女性はそれに罪悪感を感じたのか、僕をお姫様抱っこして、自分の車まで全力疾走したのだ。色々起こりすぎて何が何やらだった僕は、このことを後で思い出して、羞恥心にもだえた。

 このときの女性が、当時大学生の市野花先生だった。


 出会いは散々だったが、車の中で一息ついてからは、僕たちはとても意気投合した。市野花先生も、この山に写真を撮りに来ていたからだった。周りに写真を撮るのが趣味という人がいなかった僕は、市野花先生との会話が楽しくて仕方がなかった。

 いくつかの写真を交換して、長い間話をしていたら、気付いたら雨はやんでいて、空は雲一つなくなっていた。

 名残惜しいけれど、もう少しで暗くなる時間帯だし、僕はガラケーを持っていなかったので、メアドを聞くこともできなかった。

 結局僕たちは別れのあいさつをして、もう会うことはないのだろうと思っていた。

 

 けれど、僕が中学校二年生のときに再会した。


 だから市野花先生は、僕に優しい。






 

 

「じゃあ、いつでも悩みを聞けるように、あなたに私のメルアドを授けます」


 メアドってそんな簡単に生徒にあげちゃっていいものなんだろうか。


「生徒と先生としてではなくて、友達と友達のメール交換です」


 それなら…

 今までも、市野花先生とは友達として写真の話をたくさんしてきたし、友達としては普通のことかな。


「悩みがあれば、いつでも言ってくださいね。電話でもいいですよ」


 それじゃあ、生徒と先生の関係じゃないか。


「友達は、悩みごとも聞くんですよ」


 確かに。







 市野花先生とメール交換をしたからって、家に帰るのが嫌ではなくなることはなく、家に向かう僕の足取りは、憂鬱そのものだった。

 僕はまだ、父と母のどっちについていくのか決めかねている。どっちも好きだし、昨日の夜と今日の朝で、どっちも嫌いになった。

 僕は、自分のことを、メンタルが強いやつだと思っていた。小学生の頃、何歳も年上の中学生にケンカを挑んだことがあった。自分がいじめられる可能性があると知ってて、いじめっ子を助けた。持久走では、いつも一桁の順位だった。だから、並大抵のことでは動じないと。そう思っていた。両親が離婚することだって、日本の子供の百分の一くらいは体験してる並大抵なことで、簡単に乗り越えられると思っていた。

 でも、思っていただけだった。

 実際は離婚するって言葉で激しく動揺して、不倫した父親に激しく感情を揺さぶられる、ただの普通の中学生だった。

 自分を特別なナニカと勘違いしている、痛々しい中学生だった。

 そして今も、父と母どちらかを、選べない。


「おかえりなさい」


 ただいまも言わずに帰宅したが、母が待ち構えていたかのように声をかけてきた。だけど、今はただいまって返したくなくて、何も言わずに部屋に向かっていった。


 上の空な心で宿題をこなしていると、気付いたら夕方になっていた。


「ご飯できたよ~」


 どれだけ食卓に行きたくなくても、腹は減る。きっと今日も、父は食卓にいないのだろう。それどころか、この家にすらいない。母についていきこの家で暮らしていったら、そのこともいつしか当たり前になるのだろうか。


 リビングに行くと、やはり父は食卓にはいなかった。誰も腰を下ろさず、寂しくなった席を眺めていると、僕の正面に座った母が話し出した。


「お父さんの方についていったら、毎日こういうできたてのご飯が食べられることはなくなるね」


 一瞬耳を疑った。

 母の声はいつも通り穏やかなものだったが、凍てつくような空気を帯びていた。


「あの人料理は好きじゃないから、毎日冷凍品になるわ。もしかしたら、コンビニ弁当の日もあるかもね」


 一瞬、言っている言葉の意味が、全然理解できなかった。

 今、この人は、父をけなしているのか。そう理解するのに、時間がかかった。

 思えば、両親が家の中でケンカしているのを見たことは、ほとんどなかった。だから余計、母の言葉が異様に感じられた。

 今目の前にいるのは、本当に僕の母なんだろうか。


「あ、お金の心配はしなくていいわよ。私の新しい就職先は決まったし、お父さんも養育費は出してくれるから」


 母の口調は、まるで、僕が母についていくことを決めたと断定したような口調だった。今の話を聞いて、僕が心を決めたとでも思ったのだろうか。


「引っ越す必要も、学校を変える必要もないわ。受験前なんだし、環境が変わるのは大変よね?」


 両親が離婚すること自体が環境の変化だよと、声を大にして言いたかった。

 僕はこれまで一言も発していないのに、どうして断定するの、と。

 僕の、息子の気持ちに配慮しているように話しておいて、全く僕の気持ちを考えていない。理解していない。自分の理想を、子供は母と暮らすべきという自分の理想を、子供に押し付けているだけだった。


 そのことに気付いたと同時に、僕は自分の過ちにも気付いてしまった。

 僕の両親は、子供の気持ちを理解できて、子供の身に寄りそって、子供のために生きていける人たちだと、そう、都合のいい理想を両親に押し付けていた。


 家族も、所詮は他人だったのか。


「明日お父さんがうちに来るから、それまでに考えておいてね」

 

 いつも通り穏やかな声で、されど、勝ち誇った気持ちがにじみこんだような声で言った、母の言葉を背中に受けながら、僕はリビングを出ていた。


 母は、いつも、僕の心を支えてくれる存在だった。

 

 まるで、笑うことが自分の使命化のように、よく笑い、父が仕事でピリピリしている時も、その笑顔で和ませてくれていた。肌の手入れはスタイルを維持するための努力を欠かさず、父と二人並ぶと、とても中学生の子供がいる親には見えなかった。

 朝、昼、夕飯は、すべて自炊。手を抜くことなく、美味しい料理を仕上げていた。ただ、掃除は少し苦手で、四角い部屋を丸く掃除してしまうところがある。父はそんなところがかわいいと言っていた。

 韓国ドラマが好きだけれど、日本のアニメも、洋画もよく見る。流行に敏感な人だった。


 友達との仲直りの仕方、一発芸のおすすめネタ、年上の人への接し方など、世渡り上手になるための方法を、これでもかと伝授して、アドバイスをくれた。

 子供思いな人。


 でも、本当に母はそんな人だったのだろうか。


 僕が、母はそんな素敵な人だと思いこんでいたのではないか。


 母が素敵な人でなければいけないと、思っていたのではないか。


 母が僕に優しかったのは、本当は、素敵な息子がいる自分が欲しかったから。

 勉強ができて、運動ができて、友達と仲良く。社会にでれば、新入社員のあいさつで社員の心をつかみ、上司に気に入られて、出世して。

 そんな優秀な息子が、欲しかっただけ。

 本当は、子供思いなんじゃなくて、自分思い。


 思えば、さっきの食卓でも、息子が自分を離れることだけに、忌避感を感じてた。息子がとられる。散々、自分好みの息子になるように育てていたのに、いなくなってしまう。それをこわがっていた。


 もっと言えば、離婚をすぐに決めたことも、きっとそう。

 バツイチの自分と、夫に不倫されても女で一つで息子を育てた自分を天秤にかけて、後者を選んだから、僕が受験生だということにも構わず、離婚を決断したのだろう。


 僕は、両親に、あらぬ希望を抱いていて、それは、粉々に打ち砕かれた。


 僕は、どうしたらいいのだろう。

 いや、僕は、どうしたいのだろう。


 進むべき道も、善悪の基準も、僕は両親があってこそ成り立っていた。そして、それがない今、僕は何も決められなかった。


「教えてください」


 気付いたときには僕は、市野花先生にそう、メールを送信していた。








「いらっしゃい」


 深夜にいきなりメールしたにも関わらず、市野花先生は、すぐにメールを返信してくれた。僕が相談事をしたいと分かったのだろう、自分の家で話そうと言ってくれたのだ。

 という経緯があり、今は市野花先生の家にあがっている。


「そこの椅子に座って待っててね。あ、そこの廊下の突き当りの部屋には絶対入んないでよ」

 

 「大人の秘密があるからね」と冗談めかして言いながら、市野花先生は僕に飲み物を用意しに行ってくれた。

 いくら先生とはいえ、大人の、それも女の人の家にあがるのは緊張するが、なぜか不思議と安心感があった。


 少しすると、キッチンから麦茶の入ったコップを二杯持った市野花先生がやってきた。


「はい。お口に合わなかったらごめんね」


 ありがとうございます。と言いながら受け取ると、市野花先生は僕の正面の椅子に座った。

 

「私はせっかちだから、いきなり聞いちゃうけど、なにを悩んでるの?」


 いきなり話に切り込んできたのは、市野花先生がせっかちなんじゃなくて、僕の様子からすぐ本題に入ったほうがいいと思ったのだろう。つくづく、優しさにあふれていて、こんなに言い先生、僕にはもったいないものだと思ってしまう。


 僕は、何に悩んでいるのだろう。心の中ではナニカが叫んでいるのに、言葉になっていない。

 父が不倫したこと、母が自分だけが好きだったこと、それとも…


「うまく言葉にできなくてもさ、思ってること全部吐き出しちゃいなよ」


 ああ、


「なんでみんな僕のことを一番に思ってくれないんだよ!」


思いが


「僕の存在を肯定して、僕の考えに賛同して、ときには否定して、でもそれも僕を思っての行動で、そんな人が、なんで僕にはいないんだよ!」


あふれてく。


「父さんは僕よりも不倫相手の方が大事だったの!?不倫相手とは別れて、母さんに誠心誠意謝って、また家族みんなで過ごしたいとは思わなかったの!?あの後僕に一度も会いに来ないで、どうせ不倫相手にずっと慰めてもらってたんだろ!」

「母さんだって!自分の夫が不倫したからって、プライドを傷つけられたからって、僕の気持なんかまったく考えずに、すぐ離婚。挙句に、自分についてきたもらうために、僕に父さんの悪口!父さんはクズかもしれないけど、そのクズを選んで結婚したのは自分なんだよ!?」


 思ってたことが、全部。


「父さんも母さんも、そんな、全然、僕の理想とするものじゃなかったのに…」


「まだ、まだ、もしかしたらッて、期待してる…」


 僕の声は、どんどん弱々しくなっていった。


「だれか、ぼくをあいしてよ」


「誰か僕を愛してよぉ」


 残ったのは、かすれた叫び声だけだった。





 ふと、体が暖かくなって。全身が暖かくなって、柔らかな、優し気な感覚が広がっていた。


「私が愛してあげる」


「あなたを一番に思ってあげる」


「これから、ずっと」


 僕は、市野花先生に抱きしめられていた。


「--------なんで、どうして?」


 市野花先生の体は暖かくて、信頼できて、愛しさがこみあげてくるけれど、僕にはまだ、信用できなかった。どこかで裏切られるんじゃないか、と。


「私を一番に愛してほしいから」


「僕を、裏切らない?」


「私はずっと一緒にいる」


 単純明快で、今の僕には、それで十分だった。


「手始めに、家族になろっか」


「…うん!」


 どうやって家族になるの?とか、なんで家族になる必要があるの?とか、色々疑問はあったけれど、それは些細なことで。


 今日この日、僕は、新たな希望を見つけた。






 青年がいなくなり、がらんどうになった椅子を名残惜しさとともに見つめた後、立ち上がり、廊下の突き当りの部屋に向かう。

 その足取りは軽やかで、まるで長い長い夢がかなったかのようなステップだった。


 部屋の前まで来ると、一度深呼吸をし、戸を開く。


 そこには、青年の写真が、部屋を覆いつくすように貼られていた。


 青年が少年と呼ばれるような頃の写真も、ところどころ混ざっている。


 笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔、喜んでいる顔。

 徒競走で走っている少年、 縄跳びを飛んでいる少年、ジャングルジムに登っている少年、登山している青年、写真を撮っている青年、登校している青年、バドミントンをしている青年、友達と下駄箱で談笑する青年、机に突っ伏す青年。


 ありとあらゆる写真が、どこで撮ったのか、どこから撮ったのか。


「はぁ~、あの男を不倫させるのも、あの女を離婚させるために説得するのも、本当に大変だったな~」

「雲春君をあなたのお友達にするのも骨が折れたんだよ~」

「その頑張りも、今日で報われたね」


 無数の写真に向かって語り掛ける。


「ずっと一緒だね、ゆうきくん」


 







 


 



 




ノンフィクションです。(嘘)

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