矛盾と彼について
契約違反
彼は、私に言った。
「もう関わらなくていい。私も君に何も求めないから、君も私に何も求めるな。」
彼は言っていた。
「愛の反対は、無関心。それなら私たちの関係は愛でない。」
彼が言っていた。
「合理的な考えから言えば、君と婚姻関係を結ぶのが一番よい道だ。」
言っていた。
「君を愛してはいないが、仕事上使い勝手がよく重宝しているよ。」
言ったのに。
「もう関わらなくていい。私も君に何も求めないから、君も私に何も求めるな。」
私は、彼に言った。
「私は契約に違反しました。愛が、欲しい。」
私は言っていた。
「愛など要らない。薬のようなもので、必要のない人には生涯要らないと思われますが。」
私が言っていた。
「効率の良い手段だと思われます。結婚しましょう。」
言っていた。
「貴方を仕事上上司として尊敬しています。それ以上でも以下でもない。」
だけど、私は。
「私は契約に違反しました。愛が、欲しい。」
わかっている。わかっている。悪いのは私。わかっているが、契約を破ったのは私だが、あきらめきれない。愛、あい、アイ。
諦めのつかない思いというのは、どうしたら収まるのだろうか。やはり、時という心にしみる薬を使う?いや、あれはひと時麻痺するだけなのだ。そのうち気付く。自分が自分に自分を偽って生きて、時間を無駄にしてしまったことに。
無駄は、嫌いだ。人生に空白を開けるから。その空白は空しいから。無意味なくせに人生の大半を占める空白。ふとした瞬間にはもう既に、彼らに飲み込まれている。
いつの間にか彼の口癖となっていた言葉を思い出す。
「時間さえあれば」
彼もきっと無駄な空しいものたちにに苦しんでいたのだろう。
彼は今、何をしているだろうか。
私は彼のいる職場を辞し、新たな自分の居場所を見つけた。新しい出会いはまだないが、こんな神経質を拾ってくれる人にいつか出会いたいなー、とか考えてはいる。
彼は、今、一人寂しい思いをしているのだろうか。まだ、同じ口癖を呟いているんだろうか。まだ、何も自分に求めてこない女を探して自分の隣に座ることのできる者を見定めているのだろうか。
あの時、「自分が彼に何かを期待している」と気付いた時、何も言わなければ、私はまだ彼の隣で心を満たしていたのだろうか。仕事に、もっと真剣に向き合えたのだろうか。彼に、信頼を向けてもらえたのだろうか。
いや、どうせ我慢が出来なくなるのだろう。そうして、遅かれ早かれ彼には捨てられていたように思う。
「また考え事してるの?」
声を掛けられ後ろを振り向けば、親しくなったお隣さんが微笑んで立っている。
「おはよう。」
「…うん。」
「仕事には慣れた?結構手馴れてたみたいだけど。」
「前やってたのと似たような感じだったから。」
「そう。折角僕が教育任されたのに、特にやることないんだけど。」
「それはそれは。」
新しい仕事場での私の教育係に指名された人。教えることがないと言いながらもこうしてこまごまと世話を焼きに隣の家から来る。彼の朝の日課に私の餌付けも含まれているようで、朝になると私を起こすついでに(?)パンとスープを持ってくる。特に美味しいのはポトフである。
お皿にスープを配膳しながら彼が言う言葉に、私は耳を疑った。
「そういえば、今朝誰か訪ねて来てたよ。」
「…どんな方?」
「黒髪に紫の瞳、長身の男で金持ちぽかった。」
「っ!…へー。」
「心当たりは?」
「特に。」
紫の瞳に、艶やかな黒髪。裕福な家の生まれで文句のつけどころのない仕事人間。顔立ちもよく、スタイルも悪くない(タイプではないが)。
仕事の上司である彼は、皆の尊敬の的。
いまさら何をしに来たというのだろう。
彼女の不安そうな顔に嬉しさが湧く。
僕が彼女の役に立つ時が来た。彼女が困ることならば僕が解決しないと。
あの男、僕の家に捕まえておいてあるんだよね。
彼女の目に触れる前に消してしまわないと。